2019年8月28日水曜日

八咫烏《やたがらす》と金鵄《きんし》

 古事記には八咫烏が神武天皇を先導して吉野川の下流から宇陀にやってくることになる。
日本書紀では、さらに最終的に長髄彦《ながすねひこ》を討つ場面でなかなか勝つことができなかった。その時に金の鵄《とび》がやってきて天皇の弓の先にとまり、光を放ち、長髄彦の軍は戦えなくなった。ということである。
 古事記では飛鳥(鳥葬)のイメージでカラスを持ってきたが、日本書紀ではさらに金鵄が付け加えられ、イメージアップを図ったのではと思えてくる。日本書紀は古事記のバージョンアップ版であるということであろう。
追記:この話の後に、邇芸速日命《にぎはやひのみこと》が出てくる。理解できにくい部分だが、雰囲気としては、長髄彦と神武天皇とが神器の天の羽羽矢《はばや》・歩靫《かちゆき》の見せあいをして、正統性を争っているところで、結局どちらも正統である話になっている。天智天皇派と天武天皇の争った壬申の乱の話かとも想像される。しかしそうでもないようであり、良くわからない。神武天皇の正統性を若干おとしめていると思われるが、神武天皇=天武天皇であれば、持統天皇の正統性を強調するために、このような文脈になっていても理解できる。

2019年8月26日月曜日

春日大社の勧請

 古社記という春日大社の由緒を記したものがあり、内容は
常陸国から三笠山(みかさやま)に来られる時に、神様は鹿に乗り、柿の枝をムチにして出発した。神護景雲元年(767年)6月21日に伊賀国名張郡夏身郷(なつみのさと)についた。この後はあちこち移動し、神護景雲二年に到達されるようです。
 ここで夏身郷ですが、夏見廃寺のところではと思います。この話での勧請想定ルートは、常陸国から海上ルートで伊勢へ、そこから夏見廃寺、山田寺(個人の勝手な想像)を経て三笠山ではないかと考えられます。常陸国風土記には確か孝徳天皇の御代の話があったので、つながってきます。
夏見廃寺
常陸国

2019年8月25日日曜日

せん仏(塼仏)と和歌山県の古代寺院

 和歌山県の古代寺院で、塼仏(土を型取り整形し焼成して作った仏像)が出土したところがあるようです。最上廃寺跡(もがみはいじあと)で、紀の川南岸に展開された飛鳥時代の寺院跡。和歌山県下の古代寺院のなかで、西国分廃寺・北山廃寺とともに紀伊国で最も古い寺院に位置づけられる。・・・出土品としてはほかに飛鳥山田寺と同笵とみられる六尊連立塼仏(型に粘土をはめて作った素焼きの仏像)がある。出土遺物から7世紀後半から8世紀初頭に建立された寺と考えられる。
とWikipediaにあります。
 その山田寺(やまだでら)ですが、同じくWikipediaで
金堂跡と塔跡の周辺からはが多数出土しており、これらは堂塔の壁面を装飾していたものと思われる。
とあります。
 夏見廃寺では障屛のように塼仏が貼り付けられたまま倒れているのが発見され山田寺との関連について(昭和五六年の山田寺展図録)書かれています
 また、奈良県御所市の二光寺廃寺の大型多尊塼仏が、同じ型で製造された名張市の夏見廃寺の出土品との比較検討でほぼ全形が判明。右下には「甲午年五月中」(694年)と銘があり、夏見廃寺と山田寺との関係など、この時代だけのものかもしれない塼仏を見ていけば、紀国から伊勢までつながるルートがあったことが考えられます。
 
 とはいうものの、昭和五六年の山田寺展図録には、日本の塼仏は、中国の塼仏の影響により生まれ、ほぼ天智朝頃から流行し、白鳳時代に最も盛んに作られた。現在、奈良県を中心とする地域だけでなく、北は宮城県から西は大分県まで五十数カ所の寺院跡から塼仏が出土している。一つの笵型から短い時間で多数の塼仏が得られるという利点から、急激に普及していったものと思われる。日本の塼仏の出現は、川原寺と橘寺出土の方形三尊塼仏や火頭形塼仏である。・・・初唐様式の影響を受けたものと考えられる。というようなことが書かれています。
 紀国から伊勢のルートはどうかなという感じにはなりますが、発見具合も違うかもしれないので、もう少し考えたいと思います。多分忘れてしまうのでメモ書きにします。

2019年8月18日日曜日

紀氏

 手っ取り早く紀国のことを知りたいと思い、
姓氏家系歴史伝説大事典、志村有弘編、勉誠出版を見ました。
 紀(き)の項を見ると
【発祥・系譜・分布】主に紀伊・出雲・大和に分布。また記・城・木などに通じ、のちに城井・基肆・紀伊とも書き、さらにノの字もつけて紀野ともなった。紀伊の紀は天道根命の子孫で、紀国造。紀伊国名草郡(和歌山県)が発祥の地。以下略。
【歴史・伝説・人物】紀氏は昔からの大姓にて、その分派の多いこと源平藤に継ぎ、橘と拮抗する。紀伊の紀は、紀ノ川下流には、代々日前国懸神宮の神官を世襲した紀国造がおり、『国造本紀』によると、高皇産霊尊の五世孫の天道根命が神武天皇から国造に任命されたのが始まりという。以下略
 この内容から思うことは、ヤマトとイズモが結びつくためには離れすぎていますが、紀国が接着剤的な役割を果たしたことで説明がつくということです。倭国(キビ・アワ)に対抗してイズモとヤマトが連携するためには倭国の支配する瀬戸内海を通ることが困難であるということです。紀国が木材の産地で大型船の建造に適していたことから、四国の南端を通り、迂回するルートでイズモに向かったと考えられます。紀氏の分布が紀伊・出雲・大和に分布していること。ヤマト勢力の中で国造など初期段階から紀国が取り込まれていたことなど納得できるものです。和歌山県の保田(安田から変化)、高知県の安田を通り、素戔嗚尊の通ったルートでヤマトとイズモが連携したことが考えられます。これらの話はすべて七世紀のことでつじつまが合ってきます。ヤマトの初期段階(天武天皇というか大海人皇子の時代)では、各地域に街道の整備するなどはまだまだで、海上ルートが重要であり、紀氏の貢献が大きかったということです。

2019年8月17日土曜日

雄略天皇と葛城の一言主

 古事記と日本書紀の両方に記述されています。雄略天皇紀の内容では別物のような気もしますが、葛城の一言主についてはどちらにもあります。
 日本書紀では葛城山で葛城の一言主神と出会い、一緒に狩りを楽しみ、終りには天皇を見送ったということです。
 古事記では雄略天皇が葛城山で、天皇の行列にそっくりの集団を見た。天皇は怒って矢をつがえると相手も同じく矢をつがえ、一触即発の状態になった。天皇は、「名を名乗れ」というと、相手は「悪いことでも良いことでも一言で言い放つ神、葛城之一言主之大神である」と言った。天皇は神であることは知らなかったと言い、刀や弓矢、来ていた衣服を拝礼して献上した。神は喜んで、天皇が帰るときには見送りしたとなっていて、古事記の方が詳しいです。
 何を意味した話だろうかということですが、ヤマトと出雲の連合政権が天武天皇の時に成立したものの、後の文武天皇の時代には、葛城地方を地盤とする役小角が伊豆に配流されており(続日本紀の文武天皇三年)、大宝律令の施行を巡って、対立があったことを示しているのではと思います。雄略天皇(文武天皇)と役小角(葛城の一言主)の状況がイメージ化されています。この二ヶ月くらいの間にどうも頭が飛んでいて、説得力がないですが。
参考:スサノオは天武天皇か?
   (現在は、そう考えています。)

古事記は新編日本古典文学全集1、小学館より、
日本書紀は講談社学術文庫、日本書紀(上)前代誤訳

2019年8月14日水曜日

飛鳥の地名のイメージ

 弘安四年(一二八二)三月二日、執権北条時宗から鎌倉入りをはばまれた一遍は、片瀬の館の御堂に参着した。その時の画面離れた所に、非人・乞食の小屋が建ち並んでいる。掘立小屋の一つには倒れた人の上を烏が鳴き騒いでいて、その横に烏を追い払おうとしている人たちが描写されている。この時代の人のイメージであろうと思うが、これが飛鳥の地名につながるのではと感じました。烏は人を狙っているのではなく、乾し飯のようなものを食べようとしているようで、違うとは思います。
参考にネットからの図を示します。


モノクロで見にくいとは思います。
実際には、次の本を見ました。
日本絵巻大成別巻
一遍上人絵伝、一六三頁
小松茂美編、中央公論社

一遍上人と聖徳太子

 一遍聖絵によれば、一遍上人は延応元年(一二三九)に伊予の河野通広の子としてまれた。踊り念仏が有名で、絵巻でも良く描かれている。京都四条京極釈迦堂の踊屋や市屋道場の図では中央に舞台状の建物があり、周りに桟敷があって、何かしらロックとかのライブコンサートのような雰囲気である。また別の図では一遍上人がお札を配っている風景が良く出てくる。
 一遍上人の移動のルートは、厳島神社から伊予に渡ったりしているのでかなり自在に動いていたようであるが、文永八年の善光寺と文永一一年の四天王寺が大きく取りあげられているという。また弘安九年にも四天王寺を訪れ、聖徳太子の追慕の旅に出るとのことである。参考本*には、ハーバード大学にある聖徳太子二歳像の話がある。像内納入品より、正応五年〔一二九二〕頃に製作されたと見られ、叡尊(「西大寺古長老」)関連の物があるなかで、最古級の一遍の念仏札があるとのこと。すでに聖徳太子の伝説が確立していたか、この鎌倉時代にさらに強化されたということのように思われる。聖徳太子信仰の広まりと鎌倉仏教のつながりがあったということかもしれない。
 *一遍聖絵の全貌、監修:遊行寺宝物館、五味文彦編、高志書院発行

2019年8月8日木曜日

古文書読解ツール

手書きで書かれた古文書で、くずし字を読み取るツールが開発されたそうです。
メモ書きです。

AIで日本史研究者やマニアが狂喜乱舞する「くずし字」の翻訳ツールが開発
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1195499.html

一か月ほど前の話になってしまいました。