遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
表1の遣隋使関係資料、隋書からの抜粋です。日本書紀推古紀は無視します。
(1)開皇二〇年(六〇〇)(倭国伝)
倭王が使者を派遣
(2)大業三年(六〇七)(倭国伝)
倭王、使者を遣わし、沙門数十人に仏法を学ばせる。その国書で「日出ずる処の天子・・」で煬帝を怒らせた。
大業四年(六〇八)(倭国伝)裴世清の遣使
文林郎の裴世清を倭国に。朝鮮半島沿いに海路を進み、聃羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国を経て倭国の「海岸」に達す。・・・以下略
ここで「秦王国」がどこかということですが、(厳島・周防?)とあります。後ろの資料集のところを見ると・・、また竹斯国に到り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。
と訳してあります。秦王国が詳しくは不明ですが、周防とはs音で始まり、また後に遣唐使船などの建造地でもあり、重要な地域でありそうなのかも知れませんが、倭国になってから詳細が省かれすぎています。秦王国が中国の夏の国に似ているように思ったのは、この国が発音などが朝鮮や中国に近いものに
裴世清たちが感じたのかもしれません。日本語の形成期にあったことを想像させます。日本書紀に従えば、裴世清は難波津にやってきたということになりますが、倭国付近になってから十余国と、急にぼやけた表現になります。おかしいですが、秦王国から国名が一致しなくなり省略したとも思えます。聖徳太子や推古天皇がいなければ、難波津に来る必要がなく、たとえば、倭国が吉備の国であっても良いわけです。古墳時代に吉備の国に大きな前方後円墳があります。引き続き倭国から遣隋使を送ったとしてもおかしくはありません。
倭国が吉備であった可能性はあるのかということですが、ありうると思われます。
岡山県には古代山城とされる鬼ノ城があります。図書館で借りてきた本(注1の本)丸写しですが、
8頁から
鬼ノ城は、標高三九七メートルの鬼城山の山頂付近に築かれた古代の山城である。鬼城山は吉備高原の南縁に位置するため眺望がよく、山頂を取り巻く遊歩道から南を見ると総社市街地から吉備津神社にいたる総社平野を直下に見下ろすことができる。この平野は古代吉備の国の中心地であり史跡も多く残る古代の重要地点である。また、平野の向こうには古くからの交通の要所である瀬戸内海を望むことができる。このように平野からの攻撃に対していち早く状況を見渡すことができるという立地条件のため、鬼城山は山城の立地として極めて優れているといえる。
58頁から
鬼ノ城は岡山県総社市奥坂に位置する鬼城山《きのじょうざん》に築かれた山城である。・・省略・・城壁は基本的に版築《はんちく》の土塁で築かれているが、一部石塁で築かれており、一般的な印章としては石城のイメージが強いようである。規模は城周二七九〇・八メートルで、城門が四カ所、通水口をもつ水門が五カ所、城内に礎石建物が七棟確認されている。築城年代に関しては、百済滅亡に関わる白村江の戦い(天智天皇二[六六三]年)を前後する七世紀後半ころと考えられている。・・特徴の説明があり・・最後に、城壁の内外床面の敷石である。このような例は日本の古代山城では確認されていない。朝鮮半島についてもほとんど知られていないが、稷山蛇山城の城壁の外側に見ることができ、百済後期の王城である扶蘇山城では城壁の内側に見ることができる。
43頁に戻り
古代山城のいくつかは「日本書紀」などの官選史書に記録が残されている。一方、鬼ノ城はいっさいそのような歴史書にはその名が見当たらず、誰が、何のために、いつ作ったのかわからない、ただ温羅伝承(この部分はあとで)として人々の記憶の中に残ってきた謎の城であった。
とあります。
これらのことから、鬼ノ城は古代倭国の王城であったのではと思います。
日本書紀では、天地開闢以来の連続した正統性を主張しています。ヤマトの勢力は倭国と日本が並立したことは認められません。しかしながら遣隋使で倭国は記録に残っています。倭国から日本に連続的に変わったことを主張しなければなりません。従って隋からの返使の裴世清が難波津に来たことにし、倭国の痕跡のある鬼ノ城を無視することにしたと思われます。小野妹子の国書紛失事件で、言い訳対策をしています。
また、二〇〇六年以降の発掘調査で、円面硯《えんめんけん》と呼ばれる硯が見つかっている。当時の社会においては、識字層は豪族・官僚など支配階層に限られていたと考えられ、この硯の出現は鬼ノ城内に文字を書いた官人達がいた証明であり、文字による城内の管理運営体制や中央倭政権との連絡交渉を想像させるものである。とあります。
私には、もっと強く、隋などの外交交渉を行っていたと言ってもらいたいところです。
中国側の記録に阿蘇山の話が唐突にあったと思います。実は、鬼ノ城の南側に阿曽地域があります。68頁には、この地域は正倉院文書の「備中国大税負死亡人帳」(天平一一[七三九]年)に記された賀夜郡阿蘇郷《かやぐんあぞごう》に該当すると考えられている。とあります。
裴世清が来たときに、この地には渡来系の人がいて、地名が話題になり、阿蘇山の話にはずみ、記述された可能性があります。少し、納得できると思います。
温羅伝承
72頁に、岡山市の中山にある吉備津神社に伝わる伝説である。そこには、鬼ノ城に住んで人を困らせている温羅《うら》という鬼が、大和から派遣された将軍によって退治されるという話である。
とあり、この本では、吉備と大和の対立を古い時代と考えているようですが、私には、安田の地名(大和の勢力)が吉備の国を包囲しているように見え、対立は七世紀後半の時期ではないかと思われます。伝説も新しい時代のことで残っているのかもしれません。倭国=吉備国と考えると、日本書紀で日本は瑞穂の国で稲作主体としていますが、キビ・アワなどの国名を用い、吉備国を軽視してる雰囲気があります。後に吉備国の名誉挽回に、代表するような名前の吉備真備のような人物が現れることにつながってるように思われます。
世間的な考え方とずれが大きいですが、鬼ノ城で七世紀前半のものが発見されれば、倭国=吉備国が、状況証拠ではなく、確実に成立するので期待しています。
注1:鬼ノ城と吉備津神社ー「桃太郎の舞台」を科学する シリーズ「岡山学」7、岡山理科大学『岡山学』研究会、吉備人出版