2015年3月31日火曜日

吉備の造山古墳に関して

 図書館で古墳の本を探していたら、歴史読本2015年1月号に古代王権と古墳の謎の特集が組まれているのを見つけました。その中に吉備の造山古墳の記事があります。大和王権の支配下の元に古墳が作られ、履中天皇陵(石津ミサンザイ古墳)のサイズに似ていておおむね96パーセントのスケールで作られている。畿内からの情報・技術的指導で作られていて吉備地域の在地性はないとしています。最初のところで前方後円墳は埴輪で荘厳されるが、そのおおもとは吉備で成立した特殊器台が発展したものと言っていて、吉備→大和との予見をもって読んでいたら、大和→吉備との話に転換してしまったように感じてしまいました。
 別の本ですが、【古墳が語る古代史の「虚」-呪縛された歴史学】に古墳の発生は「大和」でいいのかということで、特殊器台について説明があります。古墳時代に現れる円筒埴輪の大もとのものであろうといわれていて、弥生時代末期の吉備地方の地域性を持ったものですが、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳で確認されたそうです。そのことで箸墓古墳は日本で最古級に属する墓であるということになってるというロジックがおかしいと述べられています。そうなのかもしれないと思いました。歴史読本では吉備→大和→吉備といってるようです。とにかく吉備は古墳時代の重要な地域のようですが、簡単には理解できません。前方後円墳についてのすっきりとした理解まで時間がかかりそうです。


 前方後円墳で関東地方と近畿地方で傾向が違うとのレポートがあります。
関東地方の前方後円墳の盛衰は、近畿地方とは大きく異なる。近畿地方では巨大化が進む前期では、関東では豪族の墓に採用し、近畿で作らなくなる6世紀後半になり、盛んに大型前方後円墳を築造している。千葉県では全国一多い。と書かれています。名字が西日本に偏っているという安田仮説との整合性はあります。時代的に合ってないのが大問題ですが。
 前方後円墳の理解-規模・地域展開-、白井久美子氏
 pdfファイル
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/BA31027730/2014no.276_123_132.pdf

2015年3月24日火曜日

吉備国の戸籍

 前の投稿より
1.前方後円墳に見られるように、吉備には強大な勢力があった。
2.吉備を中心に本のつく名字が広がっている。
1と2より、吉備国で戸籍が作られ、その痕跡が本のつく名字に残っていると想像されます。
多分、庚午年籍・庚寅年籍などよりも古い時代のように思えます。
 関係ないですが、吉備真備(キビノマキビ)という人がいます。ウィキペディアでは、695年-775年の人ですが,King of Kingsみたいで、吉備国のホープのような名前のように思います。
 時代的には合ってませんが、吉備国のことを頭においておかないとダメだという気がします。

2015年3月23日月曜日

巨大古墳、岡山

 前方後円墳の順位です。大阪・岡山・奈良に大きいものが残っています。
ウィキペディアからコピーしました。大阪・岡山・奈良に多いですが、上位にある大阪と岡山が同じ文化圏として何かあるなと思いました。
 安田仮説では名字は7世紀前半の話と考えていますが、難波の名前が岡山県に多いのは古墳の時代からの影響なのかとも思います。

 
順位 古墳名       所在地             旧国 墳丘長(m)  
1   大仙古墳           大阪府堺市           和泉  486  
2   誉田御廟山古墳    大阪府羽曳野市           河内  425
3   上石津ミサンザイ古墳(石塚丘)  大阪府堺市       和泉  365 
4   造山古墳       岡山県岡山市              備前  360   
5   河内大塚山古墳    大阪府松原市・羽曳野市     河内  335  
6   見瀬丸山古墳      奈良県橿原市            大和  318  
7   渋谷向山古墳      奈良県天理市            大和  302 

参考
岡山県に多い名字:三宅・難波・守屋
「本」グループ、三宅

2015年3月17日火曜日

天皇の名前

 前稿で、淡海三船を実直そうな人だと言いましたが、反骨の人のように思えてきました。
天智天皇は智力で天下を取り、天武天皇は武力で天下を取り、持統天皇は天武天皇の統一した日本を維持したの意味であろうと思います。孝徳天皇はそれほど良くは思われていないのですが、立派な天皇であるとのメッセージだろうと思います。文武天皇はちょっとわかりませんが、その後に元明天皇、元正天皇がおられます。以下は私の想像です。元明とは元が明らかということです。元正とは元が正しいということです。元とは何かというと、天皇の系統のことだと思います。元明天皇、元正天皇はこの系統がしっかりしているということを言ってます。とするとその前はしっかりしていないということを暗に示しています。それが推古天皇にさかのぼるということです。
 以下のリンク参考にしてください。

天皇の系図

東大寺

2015年3月15日日曜日

推古天皇の名前

 推古ですが古きを推し量るの意味だろうと思います。
ウィキペディアによれば、淡海 三船(おうみ の みふね)が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したとされています。何か実直そうな人のように感じられ、古き時代を推測するのは推古天皇が手がかりになるとのメッセージに思えます。
 さて推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)です。前稿の「食いもの」の神語りによれば、飯は甑(こしき)という蒸し器で「炊しき」調理されていたらしく、「かしきや」は神事に関わる調理場のことのようです。
 私は豊御食炊屋姫尊から伊勢神宮の外宮の豊受大神を勘違いしてしまいました。
内宮がアマテラス(持統天皇)、外宮が推古天皇(持統天皇)と思ってしまいダブってしまい混乱しました。しかしウィキペディアの豊受大神について
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トヨウケビメは、日本神話に登場する神である[1]。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている[1]。『古事記』では豊宇気毘売神[1]と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神[2]、登由宇気神[1]、大物忌神、豊岡姫[1]、等由気太神[1]、止与宇[3]可乃売神[1]、とよひるめ、等々。
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と書かれています。日本書紀に登場しないことに引っかかるものがあります。

これもメモ書きとして公開します。

2015年3月14日土曜日

古い国名

角川選書551「食い物」の神語り 木村紀子著
を読んでいて、目からウロコでした。その中で理解したことに
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瀬戸内海を廻る周辺の国には、粟の国、黍の国など穀物の名のついた国がある。淡路島も粟への道の島の意味であり、その近くにはアズキ島もある。・・
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があります。安田仮説では天武・持統朝それより前くらいから大規模水田稲作が今の岐阜県に広がったのではとの想像しています。愛知県が終わりの国なので、日本書記が成立する前に大和政権が西日本を統一し、国名を定めたと考えて整合性はあります。好字令により、黍→吉備、粟→阿波、終わり→尾張となったのではないでしょうか。地名の成立は粟・黍が主体の地域(大和より西の地域)がある中で、フロンティアの大和の東から、稲作を主体にするという国の方針が定まったのではと想像します。壬申の乱で天武天皇が移動した地域がおそらくフロンティアの地域に対応しています。

上記の本にも記述されていますが、日本書紀に
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天照大御神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして、保食神の様子を見に行かせた。保食神は本当に死んでいたが、その頭からは牛馬が、額の上には粟が、眉には蚕、目には稗、腹の中には稲が、さらに陰部に麦と大豆と小豆が生まれていた。天熊人は、それをすべて持ち帰って天照大御神に献上した。それを見た天照大御神は、大変喜んだ。そこで粟、稗、麦、豆を畑の種として、稲を水田の種とした。さらに天の邑君(あまのむらきみ)を定めた。その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田に植えた。その年の垂穂は、八握りもあるほどしなって、たいそう満足するものであった。
この部分引用です。
-------引用

天照大御神を持統天皇と考えると、水田稲作を重要視していることがわかります。また具体的に天の邑君(農民の長)など当時の雰囲気を神話形式ですが、におわせています。アマテラスを通じて日本の国の基本方針を語っていると思います。

アマテラス=持統天皇は、日本書記の一部では成立していますが、この部分も大丈夫のようです。

追記:H27.3.16
東の方の国名では、信濃←科野、美濃←三野、三河←三川など地形的なものが多いような気がします。開発されていく地域のイメージがあります。

2015年3月12日木曜日

長谷寺

 奈良県桜井市にあるお寺です。大和と伊勢をつなぐ初瀬街道沿いにあります。
ウィキペディアによれば長谷川の名字で初瀬が起源になったと説明しています。
桜井の地に流れる川が「初瀬川(はつせがわ)」や「泊瀬川(はせがわ)」と呼ばれていたが、この場所が長い谷の地形であったことから長谷と漢字で表され発音のハセと一体化したとのことです。
長谷=初瀬=ハツセ=ハセ
グーグルマップを画面切り取りしたものを示します。
(リンクの仕方を忘れてしまいました。)
赤のA点が長谷寺です。165号線を見れば谷になっていることがわかり、多分そうであろうと思います。

 長谷寺の創建については、国宝の銅板法華説相図(どうばん ほっけせっそうず)があり、その中に「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために造立したとみえ、天武・持統天皇にあたることから年代が想定されているようにも思えます。ただし、現在、本銅板銘は長谷寺(三重塔)の建立銘ではなく、銅板そのものの造像銘であることがですでに確認されており、長谷寺の創建と銅板とは切り離して考えることが通説となっているようです。天武・持統朝の創建とは考えられていないようです。

 雄略天皇は、第21代天皇。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも呼ばれ、この地と関係があるかもしれません。

2015年3月8日日曜日

曽我・物部の争い

 日本書記では崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏の争いとされます。宗教対立がそれほどの問題とは感じませんが、おそらく書紀の書かれた時代が反映して取り込まれたと思います。天武天皇・持統天皇の時代は国家神道を目指していたはずです。しかしその後の聖武天皇の時代には国家仏教に転換していきます。東大寺や国分寺など大きな財政負担になったはずで、政治の大問題になり、対立のもとになると思います。日本書紀の書かれた時代には神仏問題が重要問題と認識されていたとの想像です。書紀の内容については蘇我氏が優位になりますが最終的には乙巳の変で滅んでしまい、神道派におさまる展開になります。昨晩の思いつきですが、メモしておきます。

2015年3月7日土曜日

倭の五王

山川の日本史によれば、
中国の宋書に5世紀に讃、珍、済、興、武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋にに使いをおくったという。これは大和の王であろう。・・・5人の王のうち最後の倭王武は「古事記」「日本書紀」に伝えられる雄略天皇であると考えられるが、・・・
とあります。
安田仮説ではどうなるか考えてみましたが、大和の王であることは微妙で今のところなんとも言えません。
天皇の系図が作為的であることから、武は雄略天皇と考えることは無意味であろうと思います。

次のページに「鉄剣は語る」として
埼玉県行田市の稲荷山古墳でワカタケル(本当は漢字文)の文字のある鉄剣が見つかったとして大和王権がこの地を支配したことが明らかになったとしています。
この部分も飛躍しすぎのように感じます。鉄剣があるだけで支配することになるとは思えません。
邪馬台国大和説、大和王権が日本を統一したことを暗黙の前提としているようで、安田仮説とは相容れません。

「もう一度読む山川日本史」より



豊葦原中国

(旧字体:豐葦原中國、とよあしはらのなかつくに)
古事記で天孫降臨の時にに出てきて、日本の国土を表しているそうです。
ここで葦原という言葉からの想像です。
葦原は日本の原風景のイメージですが、葦原から新たに水田などを造成していくという国土建設の意気込みを示しているように感じました。瑞穂の国とか大嘗祭(だいじょうさい)など稲作に関する儀式などから、当時の意識では稲作を国の基本と考えていると思います。

大君は 神にしませば 赤駒の 腹這(はらばう)田居を 都となしつ

という歌がありますが、大規模な土木工事などが行われ、稲作も大規模化がはかられていく中で国の統一がなされていったのではと思います。天武天皇から新しい時代が始まることをアピールしていますが、実際にもそうだったかもしれません。話が飛びますが、安田も都のたんぼだということを確信します。

2015年3月5日木曜日

イザナキとイザナミの国生み神話

古事記では、イザナキとイザナミはオノゴロ島に降り立ち、子を産みます。
それがヒルコと淡島です。このあたりは不明ですが、その後に
八つの島「大八島」と六つの島々を生みます。
「大八島」とは本州・佐渡島・淡路島・四国・隠岐の島・対馬・九州だそうです。
本州は全体に広がっていますが、佐渡島を除いて他の地域は西日本です。
古事記の世界(8世紀前半)では当時の支配地域を示していると思います。

歴史がおもしろいシリーズ
図解 古事記・日本書紀 33ページの図

安田仮説の図
参考

2015年3月2日月曜日

(メモ)宇治平等院

雨の中、宇治に出かけました。
ここでは、平等院鳳凰堂のメモです。
鳳凰堂の手前が池になっていて、礼拝するところからの写真です。中央に丈六の阿弥陀様がおられ、頼通の小御所があった場所らしく、ベストポイントのようです。

 
 
都名所図会(江戸時代)ではかなり違っていてびっくりします。灯籠が2個とか両側の翼のところとか違います。中堂の前が広場のようですが、今は平安時代の州浜に戻されています。



両側の翼廊の部分は中堂とはつながってなく、完全な飾りになっています。下のチケットにあった図でわかりやすいです。


中堂の奥の尾廊と呼ばれているところは、鳳凰のイメージで必要かもしれませんが、無用のものです。この後の時代の中尊寺金堂では、奥の方に扉があるだけで、鳳凰堂で本当にあったのかと思います。単に感じているだけですが。

---宇治のメモ---
宇治上神社での祭神は、
菟道稚郎子命・応神天皇・仁徳天皇
ですが、どう考えるのだろうかと思います。
単純に菟道稚郎子命の時代に合わせているだけなのか?
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされる。
宇治川対岸にある平等院も平安時代後期とされる。