今までいろいろと書きなぐってきましたが、初心に戻って、考え直してみたいと思います。
前提となる歴史とは何かということについて共通の理解が必要と思われます。例としてファミリーヒストリーを考えてみます。先祖に強盗殺人犯がいたと仮定します。どのように記述されるかといえば、傍系の人であれば、記述されないということがあり得ます。また直系の人であればやむを得ずに強盗殺人犯になったという記述になる可能性があります。先祖に対して美化する方向に記述される可能性を否定できないということです。国の歴史ではどうかといえば、愛国主義的な意図があれば、同様に美化される可能性があります。2020年1月1日、NHKの100分でナショナリズムという番組が放送されました。気付かずに再放送5日にあり、それを見ての発想になります。4人の論客が出てきましたが、その中で大澤真幸氏の話に興味を持ちました。名著としてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が示されました。訳本があるので筆者は見ましたが、正直わかりにくい本です。解説本で『ベネディクト・アンダーソン グローバリぜーションを語る』が理解しやすく、筆者はこちらの影響を受けています。番組では、インドネシアが出来たのはオランダの植民地であったという話が出ていました。ベネディクトの本では確かに、インドネシアは多民族・多言語・他宗教であったと記されていて、普通は統一される可能性の低い国です。オランダからの独立運動によってインドネシアが生まれたということで、オランダという外的要因によって国が成立したことになります。さて日本はどうであろうかということです。ここで筆者の考えている日本とは『日本書紀』(以下は書紀)の出来た八世紀の日本をイメージしています。縄文時代の人に「あなたは日本人ですか?」と尋ねることができたとして、「違います。」と答えると思います。インドネシアのオランダに相当するのが、日本では中国の唐になります。唐に対する反発で日本が生まれたと考えます。書紀も、唐に対して、八世紀の日本の正統性を主張するものと理解できます。天地開闢以来の歴史も中国に負けない伝統のある日本を表したものです。しかし唐は日本の話を信じたとは思われません。旧唐書(日本国条)には疑問を持っている状況が記されています。
ーーー
日本国は倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、故に日本を以て名としている。あるいはいう、倭国みずからその名の雅(みやび)やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。その国の人で入朝(にゅうちょう)する者は、多くみずから矜(きょう)大(だい)(ほこる)で、実を以て対(こた)えない。故に中国はこれを疑っている。
ーーー
上の点線部分は、旧唐書(日本国条)
石原道博、『旧唐書倭国日本伝、宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫、一九八六年、九四頁よりの引用
この文書は荒唐無稽のものではなく、意味のあるものとすれば、「日本は新興国家である」と唐は考えていたということです。日本はこれを否定しなければなりません。唐の考えを払拭することが書紀の目標になり、壮大な天地開闢から始まる歴史展開につながります。
一例ですが、日本書紀での大化の改新の時の「郡・評」のおかしな問題がありました。書紀では郡であるのに、木簡では評のものが発見され、食い違いはなぜ生じたのかということです。書紀の編纂者は当然、このことは分かっていても郡にせざるを得なかったということです。違いを記述すれば、評→郡から政権グループが変化したことを示すことになり、天地開闢以来の連続した歴史を持つ日本という書紀の構造が崩れてしまうことを恐れたと思います。逆に言えば、実際の歴史は連続していないことを示しています。
アナロジーになりますが、戦国時代を考えます。織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と変化しました。これを織田大王→豊臣大王→徳川大王の3兄弟の政権委譲、関ヶ原の合戦を壬申の乱のようなものだと強引に記述することも可能です。逆に考えると、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、これらは別の政権グループとできます。日本書紀の連続した万世一系の天皇の歴史観を一度離れることが必要と思われます。以前に天智天皇と天武天皇の年齢問題とかありましたが、この議論など時間の無駄であったことになります。
書紀のでたらめに近い歴史観が許されたのも、強大な唐に対抗する手段としてやむなく認められたものと考えます。書紀の講義が日本紀講筵《にほんぎこうえん》として養老5年(721)に行なわれていますが、各個人の対唐との交渉で歴史認識がばらつかないように統一見解を学ぶもののように思われます。くどくなりますが、書紀の七世紀の部分は信頼できるのだろうかと言う問題です。筆者は疑問に思っています。書紀の歴史認識とは異なり、群雄割拠した時代をイメージしています。書紀の七世紀は腐っています。腐った食品の場合はすべて廃棄となりますが、書紀の七世紀を廃棄すれば日本の歴史を記述することができません。腐った部分を取り除いて、利用できる部分を探す作業が必要で、完全に出来るとは思えませんが、おいおい考えていこうということです。
参考
定本想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン/白石隆、書籍工房早山、2009年11月
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る、ベネディクト・アンダーソン/梅森直之、光文社、2007年05月20日
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2020年2月7日金曜日
2020年2月4日火曜日
酒の強さの遺伝子から日本の起源がわかる?
NHKスペシャル、食の起源 第4集「酒」を見ました。
その中で、人類は酒に強くなる遺伝子を獲得したのだが、
その後、突然変異で、モンゴロイド人種の中で酒に弱い人が現れ、
それが中国人、朝鮮人、日本人に多いということでした。
番組では、酒に弱い人の比率が
中国:52%、日本:44%、韓国:30%
となっていたが、資料の出所がわかりません。ネットで見ると
「酒の強さは遺伝子で決まる」 に図がありました。
アジアの一部の地域に酒に弱い人がいるのがわかります。
日本の中でも図がありましたが、わかりにくかったので、ちがう表を示します。地域の差は
それぞれの地域が成立した状況を示していると思います。
酒に弱い県の表では、7世紀に百済などから渡来人がやってきた地域に多いように感じます。
縄文人・弥生人の違いにまでさかのぼらなくてよいのではと思います。
この表の出所は「飲酒と健康-アルコール体質検査と飲酒の功罪-」
です。この中には国別の比率の表があります。
地域の取り方によって変わってくるとは
思いますが、中国→朝鮮→日本の前提があるようですが、中国→日本の可能性もあります。
その中で、人類は酒に強くなる遺伝子を獲得したのだが、
その後、突然変異で、モンゴロイド人種の中で酒に弱い人が現れ、
それが中国人、朝鮮人、日本人に多いということでした。
番組では、酒に弱い人の比率が
中国:52%、日本:44%、韓国:30%
となっていたが、資料の出所がわかりません。ネットで見ると
「酒の強さは遺伝子で決まる」 に図がありました。
アジアの一部の地域に酒に弱い人がいるのがわかります。
日本の中でも図がありましたが、わかりにくかったので、ちがう表を示します。地域の差は
それぞれの地域が成立した状況を示していると思います。
酒に弱い県の表では、7世紀に百済などから渡来人がやってきた地域に多いように感じます。
縄文人・弥生人の違いにまでさかのぼらなくてよいのではと思います。
この表の出所は「飲酒と健康-アルコール体質検査と飲酒の功罪-」
です。この中には国別の比率の表があります。
地域の取り方によって変わってくるとは
思いますが、中国→朝鮮→日本の前提があるようですが、中国→日本の可能性もあります。
2019年10月31日木曜日
薩摩国正税帳、第71回正倉院展
正倉院古文書正集、第43巻が展示されていました。その中に遣唐使に供給した食料が計上されています。遣唐使の南島路があったのではないかということです。自分でもブログ記事にかいていたのを思い出しました。かなり忘れてますが、気が向いたらまとめようと思います。
薩摩国正税帳とは
遣唐使の南島路については
琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究( 15.資料編 )
↑多分つながりません。検索した時はどういうわけか見れました。
山里純一氏の話でトカラ列島に関しての部分である。242ページ(PDFでは6ページ)
天平4年に任命された遣唐使は、帰る時に恐らく4船で蘇州を出発したと思われますが、
途中悪い風、ヤナカジが吹いて4船ばらばらになってしまうわけですね。第一船と第二船に関しては史料がありまして、『続日本紀」の記事によれば第一船に乗った遣唐使たちが多補島について、そして都に帰ってきています。それから第二船も蘇州を出発して間もなく漂流しますけれども、南海に入って中国に戻った後に、日本に帰るために再度出発しまして、随分遅れますけども無事天平8年に帰ってきたという記事があります。この第二船に関しては、「続日本紀」ではどういうルートで帰ってきたかということは出てまいりません。しかし正倉院文書として残っている天平8年度の薩摩国正税帳の支出項目に遣唐使第二船に対して食糧を支給したことが出てまいりますので、天平8年度には少なくともこの遣唐使船の乗組員が、薩摩国を通過したことがわかります。薩摩国を通過したということは、そのあたり史料はありませんけども、おそらく直接薩摩の国に漂着したのではなくて、第一船同様多禰島、あるいはそれ以南のどこかの島に着き、南島を経由して薩摩国に上陸したのだろうというふうに考えられます。
というようなことが書かれていました。
薩摩国正税帳とは
遣唐使の南島路については
琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究( 15.資料編 )
↑多分つながりません。検索した時はどういうわけか見れました。
山里純一氏の話でトカラ列島に関しての部分である。242ページ(PDFでは6ページ)
天平4年に任命された遣唐使は、帰る時に恐らく4船で蘇州を出発したと思われますが、
途中悪い風、ヤナカジが吹いて4船ばらばらになってしまうわけですね。第一船と第二船に関しては史料がありまして、『続日本紀」の記事によれば第一船に乗った遣唐使たちが多補島について、そして都に帰ってきています。それから第二船も蘇州を出発して間もなく漂流しますけれども、南海に入って中国に戻った後に、日本に帰るために再度出発しまして、随分遅れますけども無事天平8年に帰ってきたという記事があります。この第二船に関しては、「続日本紀」ではどういうルートで帰ってきたかということは出てまいりません。しかし正倉院文書として残っている天平8年度の薩摩国正税帳の支出項目に遣唐使第二船に対して食糧を支給したことが出てまいりますので、天平8年度には少なくともこの遣唐使船の乗組員が、薩摩国を通過したことがわかります。薩摩国を通過したということは、そのあたり史料はありませんけども、おそらく直接薩摩の国に漂着したのではなくて、第一船同様多禰島、あるいはそれ以南のどこかの島に着き、南島を経由して薩摩国に上陸したのだろうというふうに考えられます。
というようなことが書かれていました。
2019年10月24日木曜日
琵琶湖のネットワーク
以前に滋賀県に川のつく名字が多いような気がすると思っていました。
名字:中川、西川、北川
https://yasudakasetu.blogspot.com/2013/09/blog-post_9.html
湖上のネットワークだけでなく、琵琶湖にそそぐ河川を含めて
近江全体がネットワークになっていたような気がしてきました。
稲部遺跡で大型建造物発見
https://yasudakasetu.blogspot.com/2016/10/blog-post_20.html
琵琶湖周辺に港があり、各地の河川で内陸側まで船でつながっていた話です。
名字:中川、西川、北川
https://yasudakasetu.blogspot.com/2013/09/blog-post_9.html
湖上のネットワークだけでなく、琵琶湖にそそぐ河川を含めて
近江全体がネットワークになっていたような気がしてきました。
稲部遺跡で大型建造物発見
https://yasudakasetu.blogspot.com/2016/10/blog-post_20.html
琵琶湖周辺に港があり、各地の河川で内陸側まで船でつながっていた話です。
2019年9月2日月曜日
川原寺から思うこと
川原寺については、川原寺跡が詳しい。
その中で、川原寺の謎が三点あげられています。それについての個人的な妄想です。
(1)何故か、創建について正史「日本書紀」には記述されなかった川原寺
・川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、日本書紀には記述が無く、全く知ることができない。つまり日本書紀では記述が避けられているということである。日本書紀では天武天皇を排除する方向で編纂されてきたので、川原寺が天武天皇に関わりが強くあったため抹殺されたことが考えられる。
(2)何故か、平城京に移設されなかった川原寺
・天武天皇に近かったことが、平城京に移設されなかったことにつながったのではないか。(上記の川原寺の位置だが、板葺宮の真横にある。)
(3)創建時の中金堂は、天井・壁面の全面を塑像の三尊塼仏によって飾られた異色の金堂だった?
・塑像の三尊塼仏がこの時代だけで、後の時代には消えてしまった。天武天皇の排斥と関係があるとすれば辻褄は合ってくる。
私は、「謎の大寺 飛鳥川原寺」(網干善教/NHK取材班)をパラパラと見ましたが、他には本とか無さそうです。この中では、後の方でインドに話が飛ぶが、そこまではついて行けてない。
その中で、川原寺の謎が三点あげられています。それについての個人的な妄想です。
(1)何故か、創建について正史「日本書紀」には記述されなかった川原寺
・川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、日本書紀には記述が無く、全く知ることができない。つまり日本書紀では記述が避けられているということである。日本書紀では天武天皇を排除する方向で編纂されてきたので、川原寺が天武天皇に関わりが強くあったため抹殺されたことが考えられる。
(2)何故か、平城京に移設されなかった川原寺
・天武天皇に近かったことが、平城京に移設されなかったことにつながったのではないか。(上記の川原寺の位置だが、板葺宮の真横にある。)
(3)創建時の中金堂は、天井・壁面の全面を塑像の三尊塼仏によって飾られた異色の金堂だった?
・塑像の三尊塼仏がこの時代だけで、後の時代には消えてしまった。天武天皇の排斥と関係があるとすれば辻褄は合ってくる。
私は、「謎の大寺 飛鳥川原寺」(網干善教/NHK取材班)をパラパラと見ましたが、他には本とか無さそうです。この中では、後の方でインドに話が飛ぶが、そこまではついて行けてない。
2019年8月28日水曜日
八咫烏《やたがらす》と金鵄《きんし》
古事記には八咫烏が神武天皇を先導して吉野川の下流から宇陀にやってくることになる。
日本書紀では、さらに最終的に長髄彦《ながすねひこ》を討つ場面でなかなか勝つことができなかった。その時に金の鵄《とび》がやってきて天皇の弓の先にとまり、光を放ち、長髄彦の軍は戦えなくなった。ということである。
古事記では飛鳥(鳥葬)のイメージでカラスを持ってきたが、日本書紀ではさらに金鵄が付け加えられ、イメージアップを図ったのではと思えてくる。日本書紀は古事記のバージョンアップ版であるということであろう。
追記:この話の後に、邇芸速日命《にぎはやひのみこと》が出てくる。理解できにくい部分だが、雰囲気としては、長髄彦と神武天皇とが神器の天の羽羽矢《はばや》・歩靫《かちゆき》の見せあいをして、正統性を争っているところで、結局どちらも正統である話になっている。天智天皇派と天武天皇の争った壬申の乱の話かとも想像される。しかしそうでもないようであり、良くわからない。神武天皇の正統性を若干おとしめていると思われるが、神武天皇=天武天皇であれば、持統天皇の正統性を強調するために、このような文脈になっていても理解できる。
日本書紀では、さらに最終的に長髄彦《ながすねひこ》を討つ場面でなかなか勝つことができなかった。その時に金の鵄《とび》がやってきて天皇の弓の先にとまり、光を放ち、長髄彦の軍は戦えなくなった。ということである。
古事記では飛鳥(鳥葬)のイメージでカラスを持ってきたが、日本書紀ではさらに金鵄が付け加えられ、イメージアップを図ったのではと思えてくる。日本書紀は古事記のバージョンアップ版であるということであろう。
追記:この話の後に、邇芸速日命《にぎはやひのみこと》が出てくる。理解できにくい部分だが、雰囲気としては、長髄彦と神武天皇とが神器の天の羽羽矢《はばや》・歩靫《かちゆき》の見せあいをして、正統性を争っているところで、結局どちらも正統である話になっている。天智天皇派と天武天皇の争った壬申の乱の話かとも想像される。しかしそうでもないようであり、良くわからない。神武天皇の正統性を若干おとしめていると思われるが、神武天皇=天武天皇であれば、持統天皇の正統性を強調するために、このような文脈になっていても理解できる。
2019年8月26日月曜日
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