2022年4月27日水曜日

ササン朝ペルシャの言語と白檀香(法隆寺献納宝物)

 アケメネス朝は、ウィキペディアでは、

古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。アケメネス朝ペルシアまたは単にペルシア帝国とも呼ばれる。インド・ヨーロッパ語族の民族であるペルシア人が建設し、4王国(メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国となったものの、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。

文化のところに

  • 楔形文字を表音文字化した古代ペルシア楔形文字を発明した。
  • 公用語は古代ペルシア語と、帝国アラム語 (Imperial Aramaic) ないし公用アラム語 (Official Aramaic) と呼ばれる標準化されたアラム語だった。
  • エラム語やアッカド語(バビロニア方言)の記録も残されている。
  • ゾロアスター教、またはそれに近い宗教が王族達の間で信仰された。

とあります。

サーサーン朝(サーサーンちょう)は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年 - 651年)。首都はクテシフォン(現在のイラク)。ササン朝ペルシアとも呼ばれる。

言語はアラム語のほかギリシア語も使われたが、王族から庶民に至るまで多くのペルシア人は、現代ペルシア語につながるパフラビー語を用いた。貨幣は銀貨を主とし、ほかに金貨、銅貨を鋳造し、皇帝の肖像の周りに刻んだ皇帝名は、パルティアのようにギリシア文字を用いず、パフラビー文字で記した。

ようです。ササン朝ペルシャは楔形文字ではなかったようです。シュメールに起源を持つ楔形文字が日本に伝わったとは思われません。

しかし、奈良の法隆寺に伝来した白檀二点の香木に、刻銘、焼印ともに漢字以外の文字があり、

現在では研究の結果、両者の意味は判明している。刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字あり、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名であった。また焼印の文字はソグド文字のニーム(nym)とスィール(syr)であり、その意味は「二分の一シール(重さおよび貨幣の単位)」であった。ソグド文字はかつて中央アジアに住んでいたイラン系原住民ソグド人が用いた文字である。

と以下にあります。

白檀香(法隆寺献納宝物) 

2年ほど前に書いてました。もうろくしてます。 法隆寺献納宝物(ペルシャ) 

刻銘の文字の読み方ですが、ボーフトーイという人名とする説に対し、 「白檀香」と読む説が以下にありました。そうかなと思います。

中期イラン語を読む人間の多くはイラン人であり、当時のイラ ン人は一部の仏教徒やマニ教徒やキリスト教徒を除けば多くがゾロアスター教徒だった。そしてゾロアスター教儀礼において白檀はよく用いられる香木だったのである。
法隆寺香木パフラヴィー文字刻銘再考 より 

当時の日本に、ゾロアスター教の信者がいて、白檀を求めた可能性もあるということです。求めた人物は、天武天皇ではという妄想です。

9-10世紀のインド洋と航海ルートの図が下記にあります。ペルシャと日本とは遠いように思えますが、海からのルートを陸地に沿ってとれば、何とか来れそうな気がしてきます。

法隆寺伝来の刻銘入り香木をめぐる問題 


2022年4月25日月曜日

すめらみくに

 『古代メソポタミア語文法―シュメール語読本 (オリエンス語シリーズ)』、飯島 紀、信山社 (2011/6/10)の「あとがき」に、以下の文章がありました。

なお戦時中、日本は皇国(すめらみくに)と呼ばれ、これと誤解されないようにシュメールと呼んだが、これからは正しくスメルと読もうという話がある。大変良いことと思うが、本書では気にしないこととした。

驚きますが、皇国というのはシュメールの国との意味だったと思えます。「すめらみこと」は天皇のことですが、つまりは天皇は、シュメールの王を名乗っていることになります。古代メソポタミアで使われている楔形文字は、シュメール人が作ったと考えられています。この地域の人に、スタートがシュメールであるという認識があったということです。

「あとがき」の前の方で

ウル町で、と言う時urimと書くことからシュメール語の神様と言われるSN.クレーマーやA.ペーベルは、フランス語と同じように、単語の語尾子音をサイレントにしたと提案している。後に母音が来ない限り-imを読まない。その理屈からシュメールの発音はシュメ又はシェムであったと仮定すればセム族との共通の先祖であったと考えられないか、という荒唐で大胆な意見を「シュメールからエルサレムへ、禁じられた仮説」と題してJ.サッスーンが展開している。旧約聖書によるとシェムはノアの長男であり、シェムの子たちはエラム、アッシリア、アラムなどとなっているが、これは実はシュメールを取り囲む国々であることは周知の事実である。・・・

旧約聖書の話からみて、この地でシュメールの王と名乗るのは、正統性を強調するものであると考えられます。天武天皇がササン朝ペルシャの人とすれば、日本に来て、自分の正統性を主張するのにシュメールの時代まで遡って、「すめらみこと」と名乗って不思議はありません。1年くらい前にペルシャのことをいろいろ書いてましたが、荒唐無稽な話ではないような気が一段としてきます。

天武天皇、ペルシャ人?とか 

2022年4月24日日曜日

楔形文字

 楔形(くさびがた)です。古代メソポタミアで使われた文字です。 『楔形文字を書いてみよう読んでみよう―古代メソポタミアへの招待』、池田 潤、白水社 (2006/3/25)を見ています。 アマゾンにある出版社からのコメントをコピペします。

メソポタミアとは2つの河のあいだにある土地のこと。ティグリス河とユーフラテス河に挟まれたこの地域は、降雨量が少ないため植物はあまり育ちません。しかし2つの河がはこぶ良質の粘土に恵まれていました。
 そのため植物を原料にする紙ではなく、粘土に文字をあらわす文化が成立したと言われています。ただ、粘土に文字を書くのは労力がいるため、切った葦(アシ)の茎を押しつけるようにして、文字を刻んでいきました。
 これが楔形文字です。今からおよそ5200年前に使われはじめたとされるこの文字は、改良をかさね、古代オリエント世界で共通語の役割を果たしたアッカド語の表記にも用いられました。
 楔形文字には平仮名や漢字と同じしくみがあります。つまり音をあらわすだけでなく、意味をあらわす文字があるということです。
 本書では、現存する最古の文字のかたちとしくみに触れながら、ギルガメシュ叙事詩やハンムラビ法典などの古代メソポタミアの文書を解読していきます。
 童心に返り、粘土遊びに興じながら、古代の世界に思いを馳せてみませんか。楔形文字で名前も書けます。

ということです。

楔形文字はシュメール人がを考えて、その言語を記述したので、シュメール人だけのものと思ってましたが、その後のアッカド人たちが、この楔形文字をアッカド語の表記に改良し、汎用化され、他の言語にも広まったようです。つまり、粘土板と楔形文字が一体となった表記システムが継続して広まり、この地域でのちまで使われ、粘土板の楔形文字が今日まで残ったようです。へらのようなペンを使い、粘土に押しつけて文字を作るので、楔形文字は字の上手下手がなく、入力もすばやくでき、利便性があったのではと思います。しかし、紙の発明により粘土板はすたれてしまったと妄想します。

記録の蓄積が文明の発達には重要と勝手に思ってるので、楔形文字からシュメールの都市文明のようなものが始まったのでしょう。

楔形文字は簡単にはマスターできないようです。多分、楔形文字を勉強することはないと思いますが、以下のリンクを記しておきます。粘土板はなくても記述できそうです。

アッカド語で aiueとかできます。 𒀀𒄿𒌋𒂊

楔形文字の入力とか 

楔形文字とディープラーニング (1)
楔形文字とディープラーニング (2)

2022年4月20日水曜日

シュメール人と数学、複利

 『シュメール人と数学(共立スマートセレクション) 』室井 和男 (著), 中村 滋、共立出版 (2017/6/15)を借りてきました。

シュメール人は、現代ではシュメール語と呼ばれる系統不明の言語を話し、楔形文字を発明して、アッカド人とともにメソポタミア文明の基礎を作り上げた。(ウィキペディア)。

この本の受け売りですが、紀元前2600年頃から紀元前2000年前ごろの話で、60進法が使用されていたようです。16進法というのがあります。0、1、2、3、・・・、9、A、B、C、・・、E、Fの16個で区別します。60進法ではどうなるかと思いましたが、59までは10進法みたいに取り扱います。60個の文字を覚える必要はないようです。

60は2、3、4、5、6で割り切れ、キリのよい数字として選ばれたようです(と理解しました)。問題は7です。本では簡単にすましてますが、60時間÷7の計算で考えました。
60時間/7 = 8時間 余り 4時間
4時間/7 = 240分/7 = 34分 余り 2分
2分/7  = 120秒/7 = 17秒 余り 1秒
ここで1秒の下の単位がわかりませんが、
1秒/7 = 60単位/7 = 8単位 余り 4単位
となります。
答えは、8時間34分17秒8単位・・・なので、
最初の8時間がそのあと8単位に変わり、これを繰り返します。
8、34、17、8、34、17、・・・と繰り返しの循環小数になります。

別の言葉で言えば、7では割り算がやりにくいのだ。自然数の列で7が最初にこの性質を持つことに気がついたシュメール人が、7を神聖なもので人間の力では計り知れない何らかの性質を持つ、という迷信を作り出したのである。この迷信は、世界各地に広がり、例えば新約聖書のヨハネの黙示録の中にも見られる。そこには「七人の御使」(9回)、「七つの星」(6回)など、「七つの~」が54回も出てくる。おそらくこれを書いた人々は、この迷信がシュメール起源とは知らなかったに違いない。現代の私たちは、このような迷信を人間の文化遺産の負の一面と考えるべきであろう。

ラッキー7というのも、シュメール人からと思えてきます。

円周率についてですが、近似として22/7(3.142857・・)があります。3+1/7ですが、シュメール人では3+1/8(3.125)で、近似値として悪いのにです。これは、1/7は循環小数で使いにくいとしたのではとのようです。レベルが低くて、精度の悪い近似値を使ったのではないとのことで、現代人の思い込みは良くないように思いました。

驚くべきは複利計算で、古バビロニアの例が示されていますが、シュメールでもあったかは確認されてないようです。あったでしょうが。

この本のコラムで、50万円を年利率70%で10年間借りると返済額はいくらぐらいかということで、1億円を超えるとの話があります。つまり、50万円のプラスマイナスが10年で1億円と格差が異常に拡大します。紀元前二・三千年前の話に思えません。多分、複利が格差拡大の要因になってたと思います。昔の人を上から目線で見ていて、認識不足でした。この時代から、貧富の格差が複利によってであれば想像外です。

2022年4月14日木曜日

推古天皇の即位の年齢

 下記の表がありました。


天皇即位年齢天皇即位年齢
元正天皇36歳皇極天皇49歳
元明天皇47歳舒明天皇(40歳程度)
文武天皇15歳推古天皇39歳
持統天皇46歳崇峻天皇(30代半ば)
天武天皇(40代半ば)用明天皇(40代半ば)
天智天皇43歳敏達天皇(30代半ば)
孝徳天皇50歳欽明天皇(30前後)


聖武天皇: 帝王としての自覚と苦悩 (日本史リブレット人007),寺崎保広、山川出版社 (2020/3/25)、21pより

強調しましたが元正天皇と推古天皇の即位年齢が似ています。

『日本書紀』の成立は養老4年(720年)とすると、元正天皇の即位が和銅8年(715年)ですので、編纂中に推古天皇の年齢に合わしていた感じになります。推古天皇は持統天皇と思われる部分がありますが、元正天皇のイメージがあったのかもしれません。


2022年4月11日月曜日

中国の尺の歴史

 中国まるごと百科事典というところに「尺」についてメートル法での換算値がありました。 下記のところ。 コメントに 「商尺」は伝安陽出土骨尺の17.00cmがあります。1尺=15.8cmはどこから出てきたのかとのコメントがあります。 信頼度に問題あるかもしれませんが、グラフにしました。

中国の度量衡 




階段のグラフを描くのが難関で見苦しくなってますが、一応、一尺が何センチか、時代の変化を横軸に展開しています。 南北朝で、南朝:1尺=24.5cm、北朝:1尺=29.6cmで二段に、また 唐は、大尺:1尺=36cm、小尺:1尺=30cmで二段になっています。

寸法の基準は身体の長さからきていて、現在は抽象化されたメートルの単位になってると思います。 「尺」の文字の形ですが、「足」に似ています。1フィートは12インチであり、正確に 0.3048 mである(国際フィート、ウィキペディアより)。図では、商の時代は手のサイズですが、その後は足のサイズに変わっていってるようにみえます。

この図では大まかに23-25cmから30cmへと変化してるように見えます。この図がどこまで正しいかというのが問題ですが、細かい差異を見いだすのは難しそうです。


追記:「尺」は足と関係ないようです。

「尺」ですが、親指と人差し指を広げた形からできた漢字とありました。
以下、日本漢字能力検定協会


2022年4月6日水曜日

古韓尺について

 『データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』安本美典、朝日新聞出版 (2021/10/30) の中に、鉛同位体比分布についてで、 『理系の視点からみた「考古学」の論争点』新井宏、大和書房 (2007/8/1) が紹介されていました。話がずれますが、 第3章に「古墳の築造にはどんな尺度が使われたか」というところがあります。

新羅南山新城碑に現れた古韓尺

韓国の慶州にある南山新城に残った石碑三個に工事分担距離の記述が残されていて

第一碑 受作十一歩三尺八寸
第二碑 受作 七歩四尺
第三碑 受作廿一歩  一寸
いずれも受け持った工事区間の長さを示しているとして問題ないが、この「寸」まで示された距離から何かを感じることができるはずである。すぐ気付くのは、数字の有効桁数が大で、極めて厳格に距離が表記されていることである。・・・ もしこの不自然さが「他の単位系からの換算」できれいに示せれば、解釈が大きく前進する。すなわちメートル法が導入されても建築資材の標示は未だ九〇九ミリ、六〇六ミリなどと続いているように、数字の桁数が大きくともそれが換算であることを知れば合理的な解釈が得られるのと同じ事である。・・・

したがって、まずこの三碑の受作距離の整数比関係を当たってみる。その場合、時代から考えて「六尺一歩制」であったとすると各々の尺は次の通りである。
第一碑 十一×六+三+〇.八 = 六九・八尺
第二碑 七×六+四     = 四六・〇尺
第三碑 二十一×六+〇+〇.一 = 一二六・一尺

ここでこれらの寸法から比率が算出されます。が、この部分でわかりにくいです。それで、補正がどのように行われたか考えたのですが、尺の寸法はそれほど変化がなかったとすれば、新寸法は旧寸法に補正分を付け加えたとできそうです。第二碑で、七歩四尺とありますが、きりの良い七歩に対し、四尺が補正分と考えられます。
七歩(42尺) → 七歩四尺(46尺)
つまり 4/42 = 0.0952
1割弱の増加です。これから概算すると、
第一碑69.8/1.0952 = 66.3 尺 = 10.6 歩
第三碑126.1/1.0952 = 115.1 尺 = 19.2歩
計算は19.2歩ですが、きりの良い数値では19歩となります。19歩=114尺ですので、 126.1/114 = 1.106 となり 第一碑に適用すると、 69.8/1.106 = 63.1 尺 = 10.5 歩

元々は、十.五歩、七歩、十三歩であったと考えられます。 第二碑で確認すると、7×1.106 = 7.74 歩 = 7歩4.45尺 となり 何とか七歩四尺になります。これで、本に書いてある数値になりました。

だいぶに勉強しましたが、このあとに、「出雲風土記に現れた古韓尺」の話があります。異常に詳しい距離の表示があり、他の単位系から換算された可能性を強く示唆している。とのことです。

出雲風土記が編纂された天平期は、尺度の歴史でいえば唐大尺(時代により多少異なるが二十九・八センチ程度の実長)が導入され、完全に定着した時期にあたる。この唐大尺は、時代によりわずかずつ長くなる傾向にあったが、天平期ではおおよそ二十九・八センチ程度の実長であった。天平期の建物等に多く検出されることから、天平尺と呼称される。

さて、唐大尺が導入されてからというものは、大化改新を経て、土地制度が激変した時期であったが、慶雲三(七〇六)年の格と和銅六(七一三)年の格を経て、天平期にはこれらの混乱も治まりつつあった。長さの表示としては、天平尺の六尺を一歩、その三百歩を一里とし、面積の単位としては、方六十歩すなわち三千六百(平方)歩を一町とする制度が定着していた。したがって、出雲風土記がこの天平尺系の単位で記載されていることには疑問がない。 問題は、前代に行われていた制度との関わりがどうなっていたかである。結論をいそごう。それら異常に詳しい標示の距離は、表6のように整理されるのである。

ここで表6ですが、実はネットを探すと、1-A20の出雲風土記の距離記載と古韓尺の里の図です(炭素14年と古代尺度からみた古墳年代) 

にありました。

すなわち、天平尺による里歩の標示で異様に細かく標示されているものの多くが、一定の比率で簡単な整数里に換算できるのである。その換算比は0・八八一である。・・・

換算比なので0.881のかけ算です。現在なら電卓で簡単ですが、当時では考えられません。本当に計算できたか疑問に思いますが、「新羅南山新城碑に現れた古韓尺 」で悩んだおかげで、だいぶ想像がつくようになってきました。
0.881 = 37/42 としたのです。表6の下の方に、42里が37里000歩になっています。実際にやったかはわかりませんが、横軸に42,縦軸に37の点を取って原点と結べば、図式に換算ができます。また42里の時に5里引き算するので、里数に合わせて、5里から引き算の補正分を考えれば、まあまあ容易に換算値を算出することが想像できます。

出雲は新羅との関係が深いと見做されている地域である。その地域に古韓尺が存在していても何ら不思議ではない。むしろ、古韓尺の存在により、「原出雲風土記」説が補強され、新羅との関係が再認識されることに意味がある。これが歴史研究の醍醐味である。

白村江の戦いで、出雲はどういう立場にあったのかとか気になります。 この本の一部しか読んでませんが、度量衡が政治体制の根幹であることを理解しました。もう少しこの本がわかりやすければと思います。

2022年4月1日金曜日

地球規模の寒冷化

 『教養として学んでおきたい三国志』渡邉義浩、マイナビ出版 (2021/11/30)

16頁から17頁にかけて、

「三国志」の舞台となっているのは、四百年以上続いた漢帝国が崩壊し、漢の土台となった儒教の開祖孔子の権威にすら疑問が持たれた時代である。その時代は地球規模の寒冷化の中にあり、農業生産の中心は、華北から江南(長江中下流域)に移って、漢の制度も社会になじまなくなっていた。そうした先が見えない時代の中で、人々はどのような未来を描き、日々を生きてきたのであろうか。 不安定な変革の時代におけるさまざまな生き様から、自らが今を生きる指針を得られる点が、「三国志」の大きな魅力である。 ・・・

漢の復興を諦め、天下を三分して江東(長江下流域)に独立した孫権、その構想を立てた魯粛《ろしゅく》は、ローマ帝国をも分裂出せた地球規模での寒冷化に対応し、江東に割拠して、地域の開発に注力した。現在、中国経済の中心地となっている長江下流域の発展は、ここに端を発している。

とあります。三国時代(さんごくじだい)は、魏・蜀漢・呉による時代区分の一つです。しかし、「三国志」か「三国志演義」は区別がついてませんが、呉の記述がもう一つの感じがします。倭国との関係がありそうですが、「三国志」では出てこないようです。呉と倭国の関係はわかりません。 地球規模の寒冷化の中に、食料争奪の歴史があり、特に稲作にからんで、中国長江流域と日本の九州地域でつながりから、「三国志」や倭国大乱が結びつくかもしれません。