2022年11月21日月曜日

『ローマ文化王国ー新羅』の可能性

 「正倉院」を検索していて

 『正倉院の謎』由水常雄 から、この本の著者の別の本を図書館から借りてきました。
 『ローマ文化王国ー新羅』由水常雄、新潮社(2001/7/5)
ローマと新羅を結びつけたかなりマニアックな本です。「あとがき」で、

著者が原稿を書き終えて編集者に手渡した時に、「要するにこれは独断と偏見による見解でしょう」という強烈な一撃を喰った。当然に予測される反応ではあったが、まさか編集者から最初の一撃を喰うとは、考えたこともなかったので、大変なショックを受けた。・・・

と書かれています。当ブログもこの人を目標にめげずにやっていきたいとは思いました。

アマゾンの説明では

4世紀~6世紀の新羅地方の遺跡から、ローマ文化の遺物が次々と発掘されている。中国文化の傘下にあった東アジアにおいて、新羅がローマ文化を持っていたとする著者の説を、実際に出土した遺物から検証する。

とのことです。途中の詳細な検討の話は省きますが、この本の終章で、ローマから新羅へどのように伝わったかについて述べられています。ステップルートによって伝わったと考えられるとのことです。本当にそうだろうかと思います。強く主張できる根拠はありませんが、海洋ルートの可能性があるかもしれないと思いました。

グーグルマップにで想像図を書いてみました。


                                                                    海洋ルートの図

朝鮮半島のマークは慶州で、ローマ文化の遺物とされる人面があるトンボ玉が発見されたところです。大陸からでなく海路で日本海側を伝って行けそうです。赤のコースです。時代は下りますが、天武天皇の時代、多禰島と関係がありました。茶色の線が考えられます。一方、新羅使が日本へ来ていたりしています。そのルートは、淀川から琵琶湖を経由します。船のルートです。北陸へ抜けるところは陸地がありますが、そのあと、山陰側を海路で新羅に向かう赤の線のコースがありえたと思います。この時代、出雲の国や紀の国が重用されていたことが、うなずけます。唐に対抗して、対外的な交渉を目指していた日本の重要なコースになっていたと思われます。その素地が古代よりあったのではということになります。

前の記事、 47都道府県人のゲノムが明かす 
日本人の起源 の図がありましたが、すでに天武天皇より古い時代において、琵琶湖経由のルートが成立していたことが考えられます。天武天皇がペルシャ人ということも、「ローマ文化王国ー新羅」からすればありえます。

力説されてましたいるトンボ玉のイメージがわかないと思われますが、以下に見つかりました。
(写真とかは下記にありました。
ネックレス
トンボ玉、
これは以下の記事にあります。
読書メモ「ローマ文化王国-新羅」由水常雄 ケルト王のトンボ玉 ユーラシア交易ルート )

由水常雄氏のこの本の「あとがき」に、新羅からアラビア半島に移住した人たちがいると書かれています。いかがわしい話かもしれません。検索では出てこず、他には見つからないかもしれません。うれしかったので引用します。 漢陽大学教授李熙秀著『世界文化紀行』のことが、述べられています。

古代新羅人が1200年前以上昔に、西方世界に移住していて、その末裔の人たちにあったというドキュメントが書かれていたのだった。早速に、近所に住んでいる画家の李禹煥さんに、肝腎の部分を読んでいただいた。新羅から移住した人たちは六家族からなる集団で、最初はアラビア半島のオマーンに住み、それから450年ほど後に、サウジアラビアのアル・ヨンという村に移り住んで、今日に至っている。そして、アル。尹《ヨン》村の由来その他が、村の首長によって語られ、系図もあり、朝鮮流の漢方薬の処方箋や、豆から味噌を作っていて、唐辛子を好む習慣も伝え残されていることが記録されていた。・・・

詳しい内容がこの本の第二章にあるとのことで、見てみると詳しく書かれています。845年にアラブ人のイブン・クルドダビーが編纂した『王国と道路総覧』という本に新羅に関する興味深い記事があるとのこと。統一新羅の時代だが、三国時代の新羅の状況に近くて、新羅のことがイスラム世界に知られていたということのようです。朝鮮半島の古図の写真がありますが、写真の詳しいところがわからず、島が多数あるように見え、何の地図だかわかりません。本当だろうかと思います。断定したら間違えそうですが、何かしらのつながりがあったのだろうということです。

話が飛びまくってますが、前提として、ローマ→新羅は、476年に西ローマ帝国が滅亡することにあります。逃れる人たちがいて、その影響が新羅に及んだということです。その逃れてきた人の宝物が古墳に残された。それがトンボ玉などだったということです。これは、ササン朝ペルシャの滅亡が天武天皇につながり、宝物が正倉院に残されたというのと同じ発想です。こうして見ると、国の滅亡が常識外れの移住につながると考えれば、越前・越中・越後の元となる越の国も中国の越の滅亡に関わって日本に逃れてきたとか考えられます。ルートは太平洋岸から四国南を通り、淀川、琵琶湖、北陸を経由して、当時のそれほど先住者のいない地域に落ち着いた?。ゲノム分析がそのルートを示している?。まだまだ妄想ですが。

2022年11月12日土曜日

正倉院の南方の影響

 NHKの日曜美術館で第74回正倉院展の特集がありましたが、その中で 象木﨟纈屛風 (ぞうきろうけちのびょうぶ) がありました。鸚鵡の方ではなく、 下の方の屏風の図をクリックしてください。 象さんの絵が自然です。上部には4羽の鳥、木の上の猿など、日本の風景の中でありそうな感じがしますが、象は日本にはいません。番組で鳥獣戯画や俵屋宗達の図と比較してましたが、あまり似てません。番組で、宮内庁正倉院事務所前所長の西川氏の話では、で足の長さが図では修正されて長くなってるとのこと(動物園の象の前での話)。実際に象を見た人が関係したのではとのことでした。

後の時代では、象の形に正確さが失われてきているというのは、南方の影響が無くなってきたからではと思えてきます。屏風図が朝鮮半島経由とは考えにくいです。

それと、天下の名香木といわれる「全浅香《ぜんせんこう 》」 も出陳されているのを思いだしました。東南アジア産のもので、どのような経路で日本にやってきたか?ということですが、これも南方ルートのように思えます。

前の記事の分布図から直接に南方からやってきた可能性を感じています。
 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

以前にも書いてました。 ササン朝ペルシャの言語と白檀香(法隆寺献納宝物) 

2022年11月11日金曜日

47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源

 日経サイエンス2021年8月号の記事です。日経新聞以下にあります。

渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 

東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。

以上の結果は、渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。

この記事の図です。キャプチャしました。

元図は以下のリンクからです。

この図を見ていて、昔の 奈良県基準の名前相関マップと案外似てると思いました。以下です。再掲します。奈良県基準で1.0、相関が弱いほど白っぽくなります。



この図は奈良県に近いところほど、黒い表示になってます。律令体制が整備され、それによって識別のための名前が作り出されてときの影響(奈良時代の影響)を受けたマップと考えています。ゲノム分析から、渡来人の移動が、太平洋側の四国から始まり、近畿地方、北陸地方に進んだのかと思われ、この痕跡が7世紀にも残っている可能性は十分考えられます。高知県が案外、奈良県に近い理由がわかる気がします。

2022年11月6日日曜日

筑前国嶋郡川辺里戸籍と邪馬台国

 第74回正倉院展で、筑前国嶋郡川辺里戸籍が展示されてました。よく見てなかったのでネット検索で、いろいろ探索しました。

しかし、以前に見てた『正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) 』、丸山裕美子、2010/4/10

この本の口絵写真にありました。文字を読むには酷なサイズですが、 奈良博収蔵品データベース 

にある表装の写真がそれのようです。こちらを拡大すればましになります。今回の出陳されたものとは違うようです。

検索していて、肥君猪手(ひのきみのいて)という人物の名を見ました。正倉院展目録をにらんでも名前が見つかりません。 先の本の81頁に

川辺里五〇戸のうちには、嶋郡の大領肥君猪手の戸も含まれている。大領は郡司のトップである。郡司は大領・少領・主政・主帳で構成されるが、大領と少領は「郡領」ともいい、国造の系譜を引く地方の有力氏族が優先的に任じられることになっていた。「君」という姓は地方の有力貴族であったあかしであるし、「肥」とい氏名は、中部九州の「火」地域(後の肥前・肥後)、つまり阿蘇山にちなむ地域名に由来する。

これから思うのは、遣隋使の時代です。 肥君猪手の祖先が肥国から筑前にやってきて、遣隋使の返使の裴世清が九州に来たときに、対応したと妄想されます。自己紹介で火の国出身であると告げたとき、火とは何かという話になり火山の阿蘇山の話題が出て、その話が、『隋書』の「倭国伝」に記したのではということです。隋や唐の出現で中国の統一され、九州の中心が北九州に変わりつつある時代になっていくのを感じます。時代を遡れば邪馬台国が中九州にあっておかしくないということになります。まだまだ先は長いですが。

以下、自分でも「肥君猪手」を探索したメモです。 国立国会図書館のリサーチ・ナビから「正倉院文書を調べる」を見ていって

奈良時代古文書フルテキストデータベース から「肥君猪手」で検索して以下のPDFが見つかりました。活字版であるので、原版が多分探せば見つかるとは思いますができてません。 

129/657です。肥君猪手は大宝2年で53歳です。ウィキペディアにあるように、白雉元年(650年)頃です。

猪手は、海外交通の要衝である糸島半島の韓亭・引津亭を支配する一族の首長であり、海上商業や製塩にも従事していたと考えられている[1]。
肥君の本拠は、肥後国八代郡の氷川流域であったが、筑前国の嶋郡には6世紀頃に進出してきたと推定されている。

以上、ウィキペディアにのってました。

常識がないので、戸籍とかみても理解不足です。先の本には大宝令の戸令を知ってないといけないとのことです。抜き書きです。
年齢区分で
三歳以下は  「緑」
四歳からは  「小」
十七歳からは 「少」
二十一歳から 「丁」
六十一歳から 「老」
六十六歳以上 「耆」
養老令では変更があり、「緑」→「黄」、「少」→「中(男)」となる。このうち、「丁」(男性)が税金を全額負担する課口で正丁といわれる。男性の場合、「老」は老丁または次丁tおもいい、だいたい正丁の半額の税金を負担し、少は少丁といって、税金の負担は正丁の四分の一であった。

壹 貳 參 肆 伍 陸 漆 捌 玖 拾

2022年11月5日土曜日

第74回正倉院展

 毎年の恒例で出かけてきました。集中力が無くなってきてるのか、後半の文書の部分が流すような感じになってしまいました。やはり、正倉院展は視力5.0の世界の印象でした。当時の人は眼がすごく良かったのではと想像します。若い新興日本の時代を感じます。 今、図録で見てますが、宮内庁のHPにありました。

北倉24 白石鎮子 辰・巳(宮内庁のHPより) 

前回の出陳は1988年となってます。10年ぐらいの周期と聞いたことがありますが、いろいろあります。ローテーションは無いようです。 このレリーフですが、辰・巳が絡み合ってよくわかりません。会場では説明図がありました。想像ですが、糸の絡んだ状態からのイメージで生まれたのかと思います。当時は織物の知識が共通認識としてあったことが考えられます。

北倉97 臈蜜 ろうみつ

種々薬帳に見える薬物。トウヨウミツバチの巣である蝋を丸餅状に固めたもの。薬用としては軟膏の基剤など。(宮内庁のHPより

目録に

奈良時代においては薬用のほかにも蝋型鋳造における原型や艶出し、・・多くの使用法があった。

とあります。もう少し古い時代に入ってきていた可能性もあります。当時の鋳造技術に興味を持ちます。

南倉13 銀壺 

詳細はこちら(宮内庁のHPより)がいいです。

銀製の大型の壺。甲・乙同形のものが一双として伝わっている。表面には騎馬人物や動物を線彫りし、地全体を魚々子〈ななこ〉で埋めている。

魚々子という丸の紋様ですが1個1mm以下です。近づいて見なければわかりませんというのは私のことで、昔の人は遠くからでもこの紋様が見えたということでしょう。似たようなもので、滋賀院門跡で信長寄進の大鏧子(きんす)(きんす)を見ましたが、こんなこまかい模様はありませんでした。役割が違うのかもしれませんが。

ほかの展示されている細かい紋様も現代と基準のレベルが違っていたとすれば当然のような気がします。細かい紋様が好まれた奈良時代には老眼の人間とかいなかったのかと思います。

大歌白絁衫 おおうた しろあしぎぬのさん  (宮内庁のHPより

目録では、

「大歌」とは、古来より宮廷に伝わる伝統歌謡で、宮廷の重要な節会《せちえ》などに際して催され、舞を伴うものもあったという。『東大寺要録』には、大仏開眼会の次第が記されており、それによれば、大歌は、伎楽などの様々な外来の楽舞《がくぶ》に先んじて最初に演じられている。このことからも、大歌が宮廷楽舞の内で重要度が高いものであったことがうかがえる。

側面にスリットがあると解説にあり、展示では見てもわからず、ひょっとして古来の貫頭衣のものを受け継いだものがあるのかもと思いましたが、そうではなさそうです。

伎楽面
呉女  (宮内庁のHPより

呉公  (宮内庁のHPより

目録解説では

伎楽とは、「呉」(中国江南地方)において、諸地域の楽舞を集約して形成された仮面劇で、推古天皇20年(612)に百済の味摩之(みまし)が日本に伝えたとされる。

とあります。本当にそうなのかとは思います。『日本書紀』の仏教伝来と同じく、唐に対する忖度のようなものがあったように思います。呉から直接に伝わったとする方が自然です。呉女の面ですが、讃岐国(現在の香川県)から献納されたことがわかるとあります。呉と近い関係を持っていた地域と想像されます。

2022年9月7日水曜日

松本清張の古代史

 松本清張の著作は多く、マニアでなければわかりにくいものがあります。 図書館で見つけたガイドブックの本で概略を知ることができました。

『文豪ナビ 松本清張 (新潮文庫)』、新潮社 (2022/8/1)

分野別にまとめられ、その中の古代史の部分で五冊紹介されています。(選・解説:原田実)

  1. 『陸行水行』―別冊黒い画集 (2) (文春文庫)
  2. 『古代史疑』(中公文庫)
  3. 『天皇と豪族 清張通史(4)』 (講談社文庫)
  4. 『私説古風土記』(松本清張全集〈55〉邪馬台国.私説古風土記、文藝春秋 (1984/4/25)か?)
  5. 『ペルセポリスから飛鳥へ』日本放送出版協会 (1988/5/1)

注目すべき5の解説コピーです。

戒厳令下のイランを歩いた古代史紀行 『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)

清張の推理小説『火の路』(単行本一九七五年)には、現奈良県明日香村飛鳥の古代石造物はイランから伝来したゾロアスター教に基づいて造営されたと唱える人物が登場する。NHKテレビは『清張古代史をゆく』という番組でこの説をとりあげた。
一九七九(昭和五十四)年に出た本書は、その番組の取材のためのイラン紀行を記した「旅の章」とゾロアスター教古代日本伝来説の検証を記した「考察の章」からなる書き下ろしである。
「旅の章」について、清張によるイラン現地のさまざまな遺跡・史跡に関する記述に時は、その周到な調査ぶりに驚くしかない。古代イランの地下式横穴墓と南九州における地下式横穴古墳との比較、紀元前のアケメネス朝ペルシアのキュロス大王の墳墓と高句麗の広開土王(三七四~四一二)の墳墓(将軍塚)のピラミッド状構造の比較など、イラン現地で確認した東アジアの古代文化の類似に関する観察も数多く記されている。 「それらの記述からは、ゾロアスター教古代日本伝来説は、清張による古代文明東西 交通の構想の一部にすぎないことがうかがえる。
「考察の章」について、清張は『日本書紀』に、ゾロアスター教を国教としていたササン朝ペルシアからの渡来人に関すると思われる記述があることに注目する。飛鳥の古代石造物は彼らがもたらした技術と思想によって作られたというわけだが、その造営施工者と、飛鳥のゾロアスター教系文化の終焉のいきさつについて、本書では『火の路』の登場人物の説とは異なる回答を用意しており、読み比べても面白い。
なお、本書「旅の章」は一九七八(昭和五十三)年九月の記録だが、当時のイランはイスラム革命(一九七九年1月)前夜の世情不安期で、本書でも戒厳令下での取材の困難さが随所で語られている。そうしたルポルタージュ的要素も本書の魅力と言えよう。

はらだ・みのる
一九六一(昭和三十六)年、広島県生れ。古代史研究家。著書に『江戸しぐさの正体―教育をむしばむ偽りの伝統』『オカルト化する日本の教育』『偽書が揺るがせた日本史』などがある。

以前に『火の路』を読み始めて挫折しましたが、『ペルセポリスから飛鳥へ』の方を読むべきだったかと思いました。

2022年9月2日金曜日

七夕伝説と椿井文書

 彦根の隣・米原に残る七夕伝説?があり、以前にどうだろうと思っていました。以前のブログで何か書いてるかと探しましたが無いようです。

滋賀県米原市の琵琶湖岸付近に「七夕伝説」の残る地域がある。「天野川」という名の川をはさんで、「彦星塚」と呼ばれる石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、「七夕石」と言い伝えられる自然石が、それぞれ両岸の神社に祭られている。天文研究者は「天野川を『天の川』に見立て、彦星塚を牽牛星のアルタイルに、七夕石を織女星のベガとして配置したのではないか」と指摘。13日には、七夕石のある蛭子(ひるこ)神社(同市世継)で短冊祈願祭が営まれる。  彦星塚は、天野川左岸の朝妻神社(同市朝妻筑摩)にある高さ約1・9メートルの石造宝篋印塔。七夕石は、右岸の蛭子神社にある高さ60センチほどの自然石をそのまま置いたとみられる石塚。2つは、川をはさんで約500メートルの距離にある。

蛭子神社に残る縁起によると、蛭子神社がかつて「世継神社」と呼ばれていた頃の祭神は雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)。平安時代初期に興福寺の僧が2人を合祀したとある。また、彦星塚を星川稚宮皇子の墓、七夕石を朝嬬皇女の墓とする言い伝えもあり、天野川という川の名前などもあって、この地に七夕伝説が生まれた。
七夕伝説残る近江・米原の「天野川」両岸に彦星と織姫祭る神社。13日に短冊祈願祭 

石造宝篋印塔は鎌倉時代以降のものですのでそれほど古くはありません。しかし七夕伝説に意味があるのだろうと思っていました。

最近、以下の本を見ていきさつを知りました。『椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) 新書』、馬部隆弘、中央公論新社 (2020/3/17) 182頁からです。

世継の七夕伝説
『米原町史』に中世史料として収録される「筑摩大神之紀」は、滋賀県米原市朝妻筑摩の筑摩神社に伝わっている。永禄一〇年(一五六七)に奈良春日若宮の神主がまとめた筑摩神社の社伝を、天正九年(一五八一)に椿井懐義が写し、さらに文化一〇年(一八一三)に椿井政隆が再度写したという体裁をとる。
これと一連で偽作されたものとして、すでに第二章で触れた「筑摩社並七ヶ寺之絵図」も存在する。これは、入江内湖における筑摩村と磯村の漁業権をめぐる対立を背景として、筑摩村が有利になるように中世の筑摩村を誇張して描いたものであった。
さらに椿井政隆は、筑摩村以外の村々にも自身が作成したものを浸透させるため、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」と関連づけながら様々な仕掛けをしている。例えば、周辺諸村に「七ヶ寺」を設けることで、各寺に関する椿井文書はそれぞれの村に受け入れやすくなる。『近江町史』の口絵に掲載される宇賀野村の「富永山歓喜光寺絵図」はその典型で、そこには「筑摩七箇寺随一」との位置づけもなされている[図3]。
また、湖北は彼がこだわりを持っていた息長氏の出自の地なので、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」では近世に朝妻川とも天の川とも呼ばれていた川に「息長川」の名称を与えている。そのほか、音が通じる「朝嬬皇女墳」を朝妻川沿いの世継村に設置する。さらにその対岸にあたる。 朝妻村には「星河稚宮《ほしかわのわかみや》皇子墳」を設置している。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、七夕伝説と重ね合わせようとしたのである。
享保一九年(一七三四)成立の『近江輿地志略』には、「朝妻川」あるいは「天川」とみえるが七夕に関する記述はなく、蛭子神社にあたる世継神社も祭神不詳とされる。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は写本も多くみられ、当地に早くから根付いていた。そのため、現在は旧世継村の蛭子神社にある自然石が「七夕石」、旧朝妻村の朝妻神社にある石塔が「彦星塚」と呼ばれるに至っている。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」に描かれる墳墓は実在しないため、いつしか境内にあった適当なものを代わりにあてるようになったのであろう。
問題はこれにとどまらなかった。『近江町史』編纂に伴う史料調査で、蛭子神社から天正一五年(一五八七)に「世継六右衛門定明」が記したとされる「世継神社縁起之事」と題したも のが発見されたのである(近江町は合併して現在米原市)。昭和六二年(一九八七)九月四日の 『中日新聞』(滋賀版朝刊)と同月七日の『毎日新聞』(滋賀版朝刊)の記事では、「星河稚宮皇子」と「朝嬬皇女」の悲恋を知った興福寺の僧が二人を偲んで合祀したのが七夕の由来になったという「世継神社縁起之事」の内容を報じている。とりわけ『中日新聞』の表題は、「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」と衝撃的である。しかし、椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており(図2参照)、「息長川」の名称も登場することから、発見されたものは椿井文書とみて間違いない。
さらに、平成一〇年(一九九八)度から平成一五年度にかけて、滋賀県立大学は「筑摩社並七ヶ寺之絵図」を参照しながら尚江千軒遺跡の調査を行い、平成一六年にその成果を公刊した。 平成二二年三月一日にはその調査を踏まえたシンポジウムが米原市教育委員会の主催で開催され、同時に「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の展示も行われた。こうして「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は、当地において広く市民権を得るようになった。
それ以降、蛭子神社が所蔵する「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の写と「世継神社縁起之事」に基づく七夕伝説が、盛んに語られるようになっている。毎年夏になると、この二つの椿井文書を用いて、古くから地元に伝わる伝説として地元の小学生に解説する様子が新聞の記事となっている。その実態は表5のとおりである。大人が勝手に楽しむ分には構わないが、子供にすり込むのは教育上いかがなものかと思われる。

図や新聞記事の表は省略しています。

220頁にも

そのほか枚方市から交野市にかけては、七夕伝説なるものも広まりつつある。・・・

七夕伝説も古代から何らかのつながりがあると思い込んでましたが、問題だったと思いました。いろいろと遠回りをしてます。この本では椿井文書は、大和・山城・河内・伊賀・摂津・近江に及ぶらしく注意が必要とのことです。