2023年4月16日日曜日

支石墓、日本人のルーツ

 『縄文のビーナス 遺伝子から辿る日本民族の原像』古村恭三郎、郁朋社 (2018/11/21)を借りてきました。日本への江南からのルートのことがあったのでメモ書きです。

この本では、遺伝子の話があり重要ですが、飛ばします。日本人のルーツとして、先住の縄文人とそこへやってきた渡来人について北方説と南方説があり、その論点が述べられています。その中に支石墓があります。 著者は南方説を取っており、長江流域よりきたとしています。支石墓にはテーブル型と碁盤型があって、朝鮮半島の北はテーブル型で南は碁盤型とのことです。テーブルというのは薄い石板を支石で支える形、碁盤型は碁盤のイメージで大きな塊の上の石を小さな石で支えるような形です。この碁盤型が長江よりやってきたとの考えです。

支石墓について、平成26年度の支石墓の謎というシンポジウムのPDFがありました。写真とかあり、わかりやすいと思います。 

日本の支石墓も朝鮮半島(韓半島となってましたが一般的だろうかなとは疑問に思います。本のタイトルでも朝鮮語ではなく韓国語ばかりで、北朝鮮の方と言葉が違うのかなという気がします。微妙な使い分けがあるようですが、わかりません。)から伝来したようなことのようです。 支石墓の分布図が上記の本にあります。支石墓の謎のPDFにもあったのですが、ネット上でないかと思ったら、支石墓が世界遺産になっているようで、その紹介の「世界遺産 和順支石墓遺跡」のところ、以下に分布図がありました。 海岸と川に沿って分布する支石墓 

世界遺産 和順支石墓遺跡は以下 

朝鮮半島の西南端に突出していて、単純には長江からの伝来を、感じます。 またウィキペディアでは中国には支石墓はないと断言しています。支石墓の謎のPDFでも、

長江流域の石棚が韓半島南部に伝達したという説(陳2003)がある。いわゆる南方ルートを意識したものであるが、実証されていない。

とあります。平成26年なので、2014年の話です。以下の記事もあります。

西南学院大名誉教授・高倉洋彰氏 「支石墓」から見る古代の交流 

の記事で

済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。  中国浙江省温州市は温州ミカンの原産地として知られる。その隣に瑞安というところがある。跳魚(ムツゴロウ)の産地で、有明海と同様の潟スキーもある。「炸煮跳魚」という飴煮状の料理を食べたが、黒い外観と白い肉、そして味はまさにムツゴロウだった。アゲマキや白玉団子もあり、佐賀の雰囲気だ。箕子麺という平たい麺があったが、名古屋のキシメンのルーツは、案外この辺りにあるのかもしれない。

瑞安には、不思議なことに支石墓が集中している。しかも、済州島の支石墓に酷似していた。  瑞安の近くには棋盤山という地名もある。「碁盤」に近いのは偶然だろうか。ともかく、中国・温州から海岸沿いに北上し、寧波から舟山列島を経てさらに北上すれば済州島に行けないこともない。  かつてこうした交流路があったのだろうか-。支石墓分布をみていると、想像が膨らんでくる。

長江・支石墓の検索すると 古代東アジアの墳墓構築における地中水対策と変遷 がありました。 この中の、「はじめに」で

特に土を盛り上げた墳墓は、地中水対策などの観点から地下埋葬 (黄河流域、朝鮮半島北部を含む半島の大部分)と地上埋葬(長江下流域、朝鮮半島南西部、北部九州)に別れることなどである。

とあります。最後の表で、遼東の支石墓半島の支石墓から、碁盤式支石墓(朝鮮半島南部、北部九州)に影響を与えた矢印がしめされています。

表の体裁上、長江流域の江南土墩墓から北部九州の墳丘墓への細い矢印は省いた。

とあります。これが、最終的に長江ルートになっているかもしれません。 ややこしくなってきました。長江ルートはありそうだとのことで打ち切りとします。

2023年4月13日木曜日

朝鮮語と日本語の分岐点

 『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10) の中に、金大中大統領訪日、金大統領の国会演説の一部が載ってました。朝鮮語と日本語は似ている例です。ほかにもあると思いますが、ネットで同文を探し[注1]、グーグル翻訳しました。ハングルがわかりませんので、アルファベットです。以下、文字のズレがありますが、示します。太字で対応がわかると思います。


han-il yang-gug-eun hamkke ulal-altai gyetong-ui
韓日  両国   共に、 ウラル・アルタイ系統 

eon-eoleul sayonghago iss-eumyeo
言語   使用 して お 

bulgyowa yugyomunhwado gong-yuhago issseubnida.
仏教や  儒教 文化  共 有 して い ます


朝鮮語と日本語は、単語・発音・接尾辞などちがいますが、枠組みは同じです。似ていると感じます。どこかの時点で分かれ、別の道を歩んでると考えられます。

共に漢字の文化圏にあるので、単語に漢字からの伝来を感じます。中国の影響がありそうですが、それでも語順の並びが同等であることは大きいです。朝鮮語の発音も中国の発音の有気音・無気音の影響か、日本の有声音・無声音とは違いますが、二次的な問題に思えます。

使用する単語とか、有気音・無気音と有声音・無声音などの違いは時間経過で変化すると思いますが、言語の枠組み的なものは変化が小さいように思われます。金大統領の話の千五百年はどうかはわかりませんが、元々は同じような言語が分離され、発音や単語が別々に変化しても言語のフレームは残ったと考えたいです。著者のタイトルに合わせれば、「国家はことばを変える」ということでしょう。同一のような言語が、朝鮮語と日本語に分かれたのはいつの時代かということになります。

想像の話になりますが、歴史のわかる時代では、白村江の戦いのころではと妄想します。イメージはNATOです。これは軍事的な同盟組織で、第三国(者)による攻撃から互いに防衛するためのものです。当時も百済はゆるやかな倭国連合体の一員であって、唐・新羅からの攻撃に対抗したのですが、倭国側は寄せ集めで大敗しました。倭国は朝鮮半島から除外され、言語的には別れていったように思います。この時には、おそらく統一された日本語のようなものもなかったとは思います。朝鮮語の発展の歴史もしりませんので、妄想段階のお話です。

言語的に証明するものはありませんが、つながりを示す文化的なものはありそうに思われます。以前に 「朝鮮半島の前方後円墳」 

で書いてました。

前方後円墳の時代、朝鮮半島にもあったということは埋葬文化に共通するものがあったということです。朝鮮半島南部と北九州が同一の海洋文化圏として機能していたと想像されます。唐との戦いも。百済という倭国連合への侵略に対する防衛であったと考えられます。

[注1]:以下より取り込みました。 民団新聞 

◆過去を直視し未来志向関係を

尊敬する議員の皆様。

韓国と日本の関係は、実に長くかつ深いと言えましょう。われわれ両国は千五百年以上に及ぶ交流の歴史を持っています。  数多くの人々が韓半島から日本に渡りました。韓日両国は共に、ウラル・アルタイ系統の言語を使用しており、仏教や儒教文化も共有しています。徳川三百年の鎖国の時代にも、日本は韓国と、頻繁に往来しました。  それに比して、歴史的に日本と韓国の関係が不幸だったのは、約四百年前に日本が韓国を侵略した七年間と、今世紀初めの植民地支配三十五年間であります。・・・

2023年4月11日火曜日

アルタイのデニソワ人

 アルタイつながりですが、『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書, 2683)』篠田謙一、中央公論新社 (2022/2/25)を借りてきて読んでます。

41頁にデニソワ人のことが書いてあります。

デニソワ洞窟は、ロシアと中国そしてモンゴルの国境に近いシベリア西部のアルタイ地方にある洞窟です。二〇一〇年に、この洞窟から出土した指の骨(デニソワ三号)と臼歯(デニソワ四号)のDNAが分析され、その結果からネアンデルタール人ともホモ・サピエンスとも異なる未知の人類のものだということが判明しました。デニソワ人と呼ばれるようになったこの未知の人類は、形態的な特徴が不明なまま、DNAの証拠だけで新種とされた最初の人類です。

デニソワ洞窟からはネアンデルタール人だけでなく、ホモ・サピエンスがつくった遺物も見つかっており、少なくとも異なる三種の人類によって利用されたことがわかっています。・・・

遺伝の話が続いたあと、

ネアンデルタール人と私たちが、数十万年間にわたって交雑を繰り返していた可能性があるということです。

ホモ・サピエンスの出アフリカの定説も見直しの可能性があるようです。

45頁には

デニソワ人の正体
デニソワ洞窟からは、二〇一八年にさらに驚くべき発見が報告されています。この洞窟で発見された九万年前のものとされる一センチメートルほどの長幹骨の破片(デニソワ一一号)から抽出されたDNAが分析され、この人物がネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親から生まれた混血であることが判明したのです。骨の厚さから一三歳前後と推定されており、ゲノム分析の結果、女性であることがわかりました。デニソワ洞窟からはネアンデルタール人とデニソン人のゲノムが見つかってますから、両者が交雑したとしても不思議ではないのですが、その直接的な証拠が見つかるのは奇跡的なできごとというべきでしょう。

48頁で、

デニソワ人の分布を証明する直接的な化石証拠は、今のところデニソワ洞窟とチベット高原だけですが、彼らがより広範囲な地域に分布していたことをうかがわせる証拠が、ゲノムの解析結果から得られています。・・・

また、チベット高原の現代人が持つ赤血球を調べることで、その中で働く遺伝子の変異がデニソワ人に由来することも判明しています。この変異は酸素の少ない高地で有利になるもので、ホモ・サピエンスが高地に進出する際に、この変異した遺伝子を交雑によってデニソワ人から受け取ったと考えられます。

ホモ・サピエンスはアフリカ出立して、進化しながら各地域に広まったのではなく、先達の適応した遺伝子を取り込みながら広がったということです。進化は一直線上でなく、からみながらだったということを考えれば、言語の進化も同様に思えてきます。

ウラル・アルタイ言語の元がネアンデルタール人からかと思いそうになりますが、65頁には

ホモ・サピエンスの持つ言語能力に関係するといわれているFOXP2遺伝子を取り囲んでいるゲノム領域では、ネアンデルタール人由来のものがまったく見られないことが判明しており、そこから言語に関する遺伝子領域が、ネアンデルタール人と私たちの違いを生み出している可能性も指摘されています。さらに、遺伝子の発現を制御する調節領域では、ネアンデルタール人由来の遺伝子が排除される傾向が強いことも明らかになっています。

残念ながら『人類の起源』で前半1/4ぐらいのメモ書きです。 もう少し読めればと思います。

2023年4月10日月曜日

ウラル・アルタイ語

 以前に 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) で匈奴の話がありました。冒頓単于の時代、強大な版図を持っていて、その時の言語は何だったか疑問でした。 シルクロードがあるので、ウラル・アルタイ語に関係するのかと思ったのでしょう。『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10)を借りてきました。

ウラル・アルタイ語がどうして出てくるのかの疑問にこたえてくれました。ウラルとはウラル山脈でユーラシアとアジアを分ける山脈です。アルタイ山脈は、西シベリア、モンゴル、カザフスタンにまたがる山脈で、その山麓でモンゴル語とトルコ語の諸方言が話されているとのことですが、どうしてこの地域が注目されたかについて書かれていました。 北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人のタッベルトがいた。ロシア人の悪口が書いてあって、自分たちは手を汚すことなくシベリア開発をすすめ、

第二次大戦後は60万人もの日本人がシベリアの開発に大きく貢献したのである。

とか書いてます。タッベルトに戻って、シベリアでの言語をまとめ、この人が戻って一族がフォン・ストラーレンベルクの名で爵位を得た。その名を冠して、ストックホルムで著書が出版されたとのこと。

いろんな話が出てきて、「ウラル・アルタイ語」の元は、「トゥラン語族」と言われており、これはフリードリッヒ・マックス・ミューラーによるとして204頁に

形態論的類似 さて、ミュラーの『言語の科学についての講義』では、トゥラン諸語は「アーリア語やセム語」のように、同系の語族(family)というよりは語種(class)もしくは語群(group)と言うべきもので、系譜的類似というよりは形態論的類似を共有すると言っている。この指摘は、言語は類型論的な共通性によってグループをなす私の主張に近い。こうしたトゥラン語群はさらに北方群と南方群に分けられ、北方群は時に「ウラル・アルタイ」もしくは「ウグリア・タタール」とも呼んでいる。南方群に入るのはタミール、ブータン、タイ、マラヨ、ポリネシアであると述べている。

これらトゥラン諸語は、アーリアやセムとは異なり、遊牧民であるから、「かって政治的、社会的文化的核が形成されたことがない」と言っている。

マックス・ミュラーの「トゥラン語群」は、屈折語を原理とする印欧語に対立する、あるときは、そこにはいれなかった、膠着原理にもとづく雑多な諸言語をまとめて呼ぶという便宜的な性格が強い。ミュラーは膠着型の言語が発展して屈折語に移ったとという考えを示している。

蔑称として「トゥラン」で、207頁に

ヨーロッパでは言語の生存競争に勝ち抜き、偉大なヨーロッパ文明の担い手、印欧諸語の共通起源を立証した、印欧語比較言語学が印欧語と印欧文化の優秀性と、それを担ったアーリア民族をたたえるとともに、その影の面として、印欧語のすぐれた特徴を欠いた言語、非アーリア諸族に刺激を与えないではおかなかった。・・・

この後に、ハンガリーに生じたトゥラン主義と続きます。印欧語に対立するものとして生まれたとのようです。ハンガリー語やフィンランド語は非ヨーロッパ言語で起源を探す中でウラル・アルタイ語にたどり着いたようです。

ウラル・アルタイ語の話はここまで。以下、屈折語と膠着語の説明メモです。

ここで屈折語についての解説が前の方にあります。フンボルトによる類型です。99頁。

「屈折」とはラテン語のflexio(曲げる)を漢字で翻訳したことばで、最近は日本語でもとりいれてフレキシブルなどと使う。では何を「曲げる」かと言えば、ある単語の中味である母音を変化させることを言う。日本語の単語には、このような方式はない。日本語では単語はどのような環境の中でも変わらず一定していて、どんな文法要素が後につづこうと、ヤマ、カワ、ウミ、モリのように、一定の変わらぬ形であらわれる。ところが英語ではそうではない。簡単な例を出すと、
   foot - feet
   man - men
がそれで、[fut](足)の語頭と語末の子音をそのままにしておいて、単語の中味そのものである[u]を[i:]に入れ替えると複数になる。ーー日本語では、ヒトビトとかヒチドモとかで後に継ぎ足すなっど例が示されるーー

こうした、単語の中味の母音そのものを変える(曲げる)ことによって名詞を動詞にしたり、形容詞を名詞にしたりすることさえやる。例えば
  food ー feed  食べ物 ー 食べさせる
  hot ー heat  熱い ー 熱さ
のように、はじめのf音、語末の子音はそのままにしておいて、中味の母音を入れ替えれば形容詞が名詞だの動詞になる。

膠着型
このように、複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾を「くっつける」方法をフンボルトは「膠着」と呼んだのである。「膠着」という訳語は、agglutinierendのラテン語の語根になっているgul(s)を「膠」と訳したところにはじまる。ヒトビトのように、「くっつけること」を「膠でくっつける」と訳したのであるが、この膠はノリであってもかまわないのだから「ノリづけ」と言ったほうがわかりやすい。

モンゴル出身の相撲力士の日本語が流暢との話題が出てきます。モンゴル語はわかりませんが、言語としての枠組みが両者で似ていて、単語を入れ替えるだけで成立しやすいのではと妄想します。そうであれば、単語が似ているとか似ていないということはそれほど問題ではなくなります。

2023年3月31日金曜日

ガラスの知識

 以下の本からのメモ書きです。 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19)

8頁、「ガラスの原材料と生産」です。

ガラスはシリカ(SiO₂)(二酸化ケイ素)を主成分とし、溶融剤を加えて作られる。溶融剤は、シリカ原料を溶けやすくし、ガラスの粘度を下げるなど作業性を良くする働きがある。シリカに溶融剤とさらに着色剤などをいれて高温で加熱すると、これらの材料からガラスへと変化する。一度ガラスへと変化すると、冷えても、また再溶融しても、ガラスはガラスのままである。

シリカの代表的なものは石英《せきえい》である。石英は岩石や砂、土などの中に広く分布し、ガラス原料として適したものとしては珪石《けいせき》や珪砂《けいさ》がある。溶融剤には、鉛やソーダなど様々な物質がそれに使われる。シリカと溶融剤からガラスを生産するには、おおよそ一二〇〇度以上の温度を必要とする。これはちょうど鉄の製造において必要な温度である。つまり鉄生産技術のない日本では、弥生時代にガラスの原料からの生産技術は無かったことがわかる。

一方、一度作られたガラスを加熱して鋳型などで形を作り直すのは八〇〇度程度から可能である。これは実は青銅器の製造温度と重なるのである。

鉄の製造技術はないが、温度の低い青銅器の製造技術がある、というのは古代において中心的な文明の周辺にある諸文化においてみられる状況である。そのような周辺の社会において、高度な文明から入手したガラスを利用して、独自のスタイルのガラス製品が製作(再加工)されていくのである。まさに我々の弥生時代の文化がそれに当てはまる。

13頁に溶融剤が地域によってさまざまであることが書いてます。

例えば古代ローマやエジプトなど地中海沿岸ではナトロン(天然ソーダ)を溶融剤として使用し、ナトロンガラスが作られた。

一方で中国の戦国時代から漢代には、バリウムを特徴的に含んだ鉛バリウムガラスが作られた。このためガラスの化学分析をすると、その基礎ガラスの化学組成から、このガラス素材がどこで作られたかがわかる、というわけだ。

問題は、「ガラスの生産地=そのガラス製品の製作地」とはならないことがあるとのことです。一次製品とか二次製品とかは考古学の手法によってクリアになるとのことです。

今まで気にしてなかったですが、陶磁器も焼成温度とかで関係ありそうです。釉薬とかにガラス質のものが含まれると一二〇〇度とかの温度が作れないと出来ないことになります。

2023年3月24日金曜日

ガラスの来た道

 『ローマ文化王国ー新羅』の可能性がありますが、

新羅のトンボ玉のことがあり、 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) を借りてきました。

後半に新羅のガラス器のことがあります。214頁から

中国大陸全体が動乱の時代であったこの魏晋南北朝と同じ頃、朝鮮半島では三国が鼎立する初期国家時代、三国時代(四世紀頃~六六八年)を迎えていた。この三国時代の古墳から多数の西方製ガラス器が副葬品として出土している(表8)。大半が新羅《しんら》の都である慶尚北道慶州とその周辺の古墳から出土しており、高句麗《こうくり》・百済《くだら》の墓からいまだ出土していない。出土した慶州の古墳は王陵と王族の墓がほとんどで、五世紀後半頃から六世紀前半までに築かれた積石木槨墓《つみいしもっかくぼ》であった。王陵の皇南大塚南墳北墳から出土した一二点をはじめ、約一〇基の古墳から二〇点強のガラス器が出土した(図59)。

図や表は省略してます。少し飛ばします。

新羅の古墳から出土した文様を持つガラス器は、皇南大塚北墳出土の円形切子杯(ササンガラス器)以外は、その器形と類例から後期ローマンガラスであると考えられている。多数の類型品がユーラシア各地から出土しており、特に黒海沿岸、南ロシア、カフカスといった地域に出土が多い(由水一九九二b)。

これまでは東地中海地中海、またはライン川流域などで作られたローマンガラスがこの地まで運ばれたと考えられていた。が近年行われたこれらガラス器の化学分析から、皇南大塚南墳出土ガラス器が中央アジアにおける製作の可能性が浮かび上がってきたのである(谷一・工藤二〇一一)。とはいえ器形は明らかに後期ローマンガラスの形式を継いでいる。このため、ローマンガラスの工房の工人が中央アジアに移住して製作を行ったのか、といった疑問も生じる。中央アジアのガラス製作の詳細は不明であり、謎が深くなるばかりである。

続いて、ガラス器の搬入ルートです。

この新羅の五~六世紀半ばの古墳からは、ガラス器以外にも西方系の遺物が多数出土している。ーーー例については省略ーーー

新羅自体はその馬具や金製装身具などからも北方遊牧騎馬集団との密接なつながりがあると考えられており、これらガラス器や搬入金製品も北方遊牧騎馬集団とのつながりの中でもたらされたと考えられるものである。ーーー省略ーーー

当時ガラス器だけでなく多数の西方の文物が、草原ルートで新羅にもたらされたと考えられている。またオアシスルートで中央アジアに入ってのち、天山山脈近辺で北上し草原ルートに合流するルートも考えられよう。中央アジアで製作されたガラス器ならば、製作地の場所次第でどちらのルートを通ったか明らかだろう。

シルクロードのことは、最初の3頁にあります。 地図があるので見れば良いのですが、 オアシスルートは、中央アジアのオアシス都市を結ぶルートです。海上ルートは船を使うルートです。草原ルートは一応文章を写します。

草原(ステップ)ルートは黒海沿岸を起点とし、南ロシアの草原地帯からカザフ高原、アルタイ山麓、モンゴル高原を経て中国の北方長城地帯に至り、平城《へいじょう》(現在の大同)に達するルートである。ユーラシアの大草原(ステップ)地帯を通るため、この名が付いている。

これらのルートは組み合わせて使われる場合もあるとのことです。

シルクロードの先はどうなってるか、新羅の朝鮮半島にどのように入ってきたか、草原ルートから中国には入らず高句麗をへてもたらされた可能性も十分にあるとのことです。 ただ、金官伽耶の遺物に鮮卑族とのつながりがあり、北朝の鮮卑族を経由した可能性もあるとのことです。

ようやくトンボ玉の話になります。トンボ玉は装飾珠と表記されています。三国時代の装飾珠について、219頁です。

この他、西方製ガラス製品として装飾珠が出土している。その数量は多くない。最も興味深い装飾珠は、慶州の味趨《みすう》王陵地区C地区4号墳(五~六世紀)から出土したものだろう。王とみられる被葬者がつけていた首飾りの珠類の一点として出土した。直径一・八㌢のガラス珠は、紺色ガラス地に白い鳥・人面・花の枝などが文様として象嵌されている。この珠は黒海沿岸や、地中海周辺における製作などが想定されるものである。ガラス器と同様、ローマ文化圏で製作された珠が新羅に伝来したものだろう。アジアではこのような文様を持つモザイク珠は日本の香川県多度津町盛土山古墳(五世紀)や、ジャワ島(六世紀)で出土している。この他、縞文の珠が、百済の忠清南道公州市武寧王陵や南西部の墳墓、慶州の古墳などから一〇点ほど出土している(古代歴史文化協議会編二〇一八)。縞文の中でも雁木文の珠の類例は広くアジア各地でも出土しており、日本の福岡県こうしんのう塚古墳(六世紀)や、ベトナムのオケオ遺跡などから出土している。特に雁木文の珠は西方製だけでなく、南海製の可能性も考えられる。

これらの装飾珠は東南アジアから出土していることから、海上ルートでも伝来も考えられている。しかし人面装飾のあるモザイク珠は、ガラス器などとともに草原ルートを経て新羅へもたらされた可能性が高いのではないだろうか。
ーーー新羅では六世紀半ば以降に出土しなくなった話になりますが、省略ーーー

これからの調査研究になりますが、トンボ玉も海上ルートの可能性もありそうです。

しかし、この本では草原ルートのことが詳しく述べられています。熟読していないので、ミスってるかもしれませんが、80頁には

紀元前三世紀を過ぎると強大な国家が登場する。西方社会の巨大化していく国家がローマであり、東方のそれが漢えある。さらにその頃、中央アジアにおいても遊牧騎馬民族を出自とする巨大国家パルティアが登場、北方草原地帯には遊牧騎馬民族国家匈奴が登場し、ユーラシア全体のつながりとシルクロードの発達の上で重要な役を演じる。

パルティアのところは省略します。

さらにユーラシアの北方草原地帯には強力な騎馬遊牧集団である匈奴がその勢力を広げていた。匈奴はモンゴル高原を本拠地とする遊牧騎馬集団で、中央アジアの草原ステップ地帯を強力な政治力ではじめて統括した。前二〇九年には冒頓単于《ぼくとつぜんう》によって統一され、オアシス諸国家を抑えた匈奴は強大な勢力となった。ユーラシアのハイウェイである草原ルートとオアシスルートの双方を抑え、東西交渉にまさに大きな役割を担ったのである。

匈奴を中華思想の影響で蛮族という偏見を持っていました。ウラル・アルタイ語族とか軽視してましたが、間違ってたと思います。

2023年3月22日水曜日

桃太郎伝説と温羅(うら)伝説

 桃太郎伝説と温羅伝説がコンパクトにまとまっています。 岡山シティミュージアムのところにありました。


桃太郎=吉備津彦、鬼=温羅の戦いと混然一体となった話です。 今までの記事で、桃太郎伝説の影響を受けてしまってるかもしれません。エンタメ的な話になっていて、観光とかでは良いのですが、大和朝廷とか渡来人の扱いなど迎合しているところとか、郷土愛的なものとか混ざっています。ギャップは感じます。思い込みを排していかないといけないとは思います。

以下の本に書いてあったのをメモ書きします。

『民俗学読本―フィールドへのいざない―』髙岡 弘幸 (著, 編集), 島村 恭則 (著, 編集), 川村 清志 (著, 編集), 松村 薫子 (著, 編集)、晃洋書房; A5版 (2019/11/10)

「桃太郎」と伝説の「語り直し」
として、孫 嘉寧 氏が書かれています。

桃太郎伝説は、岡山県だけでなく、香川県にもあり、熊野神社に伝わる鬼退治によって地名が鬼無《きなし》になったという地名説話からとのこと。桃太郎の鬼退治に結びつき、神社も熊野権現桃太郎神社となったなどのことからの展開です。

「初めてこの地域の桃太郎伝説を唱えた人」という2人のキーパーソンが書いてあります。

岡山の温羅伝説桃太郎=吉備津彦説は、岡山の彫塑・鋳金家の難波金之助によって初めて提唱されたのである。難波氏は1930年に『桃太郎の史實』を著し、歴史文献や地元の口伝などの考察から、全国的に有名な桃太郎の鬼退治という説話の原型が岡山の温羅伝説であると提起した。

香川の鬼無ー女木島桃太郎伝説は、香川の小学校校長の橋本仙太郎によって最初に体系立てて提唱されたのである。橋本氏は1930年に新聞『四国民報』(のちの『四国新聞』)に「童話『桃太郎』の発祥地は讃岐の鬼無」という記事を連載し、地名と桃太郎の内容を関連付けて鬼無とその周辺を桃太郎の舞台と説いた。

ともに1930年の意味があるのかということについてですが、
岡山では、この年は、昭和天皇の行幸と陸軍特別大演習が控えており、郷土意識が高まった。岡山の伝説と桃太郎の説話を結びつけるのは、当時の皇国史観に合っていた。1930年代から日本は国際観光局を設立し、瀬戸内海での観光誘致合戦のようなものがあったのではとのことが書いてました。省略します。