2022年2月27日日曜日

安政の大地震

 安政では安政の大獄が浮かびますが、安政の大地震もかなりのものであったようです。
『すごろくで学ぶ安政の大地震』石川寛 (監修), 平井 敬 (著)、風媒社 (2021/11/30)
に双六で解説がありました。 安政の大地震とは、安政元年(1854)に冬の安政東海地震と、翌日の安政南海地震のことです。別の日ですが、一体のものとして考えられています。マグニチュード8.4と推定されているとして、死者数千人の被害で、翌安政2年には江戸に安政江戸地震が起こっています。

相次ぐ災害や討幕運動に加えて外国からの開国圧力にさらされた幕府は疲弊し、やがて時代は明治維新へと向かいます。

とのことです。地震はなまずが起こすとしても外敵に相当するので、当時、攘夷運動が起こっても当然のような気がします。安政地震の復興に幕府はかなりの負担になったことも想像されます。幕府は対応がとれなくなってしまったということです。公武合体、大政奉還、江戸城無血開城など、幕府の軟弱さを感じてましたが、安政の大地震で自滅したと考えることもできそうに思われます。しかし、幕末の歴史では、安政の大地震が重要な歴史とされず、無視されてしまってると感じました。明治政府がすごいのではなく、江戸幕府が弱体化してるだけかもしれません。

地震調査研究推進本部というのがあるようです。そこに以下の図があります。

南海トラフで発生する地震の図、過去の地震の発生状況 

図の下が安政の大地震ですが、一番上の684白鳳(天武)地震の赤線があります。七世紀当時の政治経済に影響を与えた可能性もあるのでメモっておきます(地震で体制崩壊もありうるので)。

ウィキペディアに安政の大地震があります。 

2022年2月25日金曜日

乙巳の変の影響

 藤原不比等の日本書紀 にて、乙巳の変が創作されました。

この内容はかなりの問題を持っています。蘇我入鹿が誤っていたとして問答無用で成敗してることになっています。正しければテロ行為であっても許されるということを認めています。『日本書紀』は養老4年(720年)です。天平元年(729)に、長屋王の変が起こります。これは

長屋王が秘かに左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟296頁)

これにより、長屋王および関連する人が自殺しています。問答無用で成敗されています。これはきびしいシステムです。自分では正しいと思っていても、正しくないとされれば上位・下位関係なく殺されるということです。 『続日本紀』天平10年(738年)の秋7月に、これは問題であったということがかいてあります。

ウィキペディアの長屋王の変からの引用です

事件から十年ほどたった天平10年(738年)の秋、左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫が、上記の長屋王の誣告者である右兵庫頭外従五位下の中臣宮処東人を刀で斬り殺す、という事件があった。子虫は当初長屋王に仕えていて、すごぶる厚遇を受けていた。この時、たまたま東人と相並ぶ官司(左兵庫と右兵庫)に任命されていた。政事の間にともに囲碁をしていた(当時、官人や僧侶の間で囲碁はよく行われており、正倉院にも東大寺献物帳所載の木画紫檀棊局などが現存している[43])。話が長屋王のことに及んだので、憤って罵り、遂には剣を抜き、斬り殺してしまった。

『続日本紀』は「誣告」という語を用いており(闘訟律40条逸文には、謀反および大逆を誣告したものは斬刑であるとの記述がある[44])、長屋王の事件が『続紀』編纂の時代には冤罪であることが公然のものになっていた、ということである[45]。

律令体制のためにはテロも辞さないという藤原不比等の意思が反映されているように感じました。

天平元年の4月

舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟301頁)

が気になります。

2022年2月24日木曜日

藤原不比等の日本書紀

 『続日本紀』によれば、『日本書紀』は、養老4年(720年)5月に完成したと伝わる。同年8月に藤原不比等没とあります。『日本書紀』は不比等の遺言のように思えてきます。不比等は律令体制の整備に携わります。養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死とのことです(このあたりウィキペディアより)。 養老年間は元正天皇の時代で、元明天皇から譲位されています。即位の時の詔ですが、理由が弱いように感じました。イメージとしては、邪馬台国の卑弥呼から壹與(台与、いよ、とよ)の時代を想像させます。律令の時代にそぐわないものと不比等が考えたと妄想します。 霊亀2年(716)2月の出雲臣果安の神賀事《かんよごと》で出雲の貢献を述べていますが強気です。同年4月に和泉監《いずみのげん》の設置ものちに廃止されますが、既得権益の勢力に妥協していて、倭国大乱を避けようとしているように思われます。何とかしなくてはという不比等の考えでは、天武天皇の時代の残存勢力の排除、持統朝の確立が養老年間の課題であったと思われます。最初は、『日本書紀』は『古事記』のようなものが考えていたのが、この養老年間の様子を見て、急遽、大幅改訂されたのが、現在の『日本書紀』ではないかと想像されます。歴史では持統朝の前に天武朝があります。この優位を覆すためには、天武朝の前に持統朝の正統性を示す天智天皇の活躍が必要です。そこで、持統天皇の父と、不比等の父、中臣鎌足を持ってきて、乙巳の変・大化の改新の話を作りだしたということです。この神話によって、持統天皇の優位性が示されます。しかし、まだこれだけでは十分ではないのです。『古事記』を利用するため、『日本書紀』との接続をスムーズにする必要があります。『古事記』に出てくる推古天皇は元々持統天皇でしたが、これを、元正天皇と不比等のイメージで語らせたと思われます。不比等の理想の政治の世界が描かれているとして良いと思います。『日本書紀』の展開は不比等のアイデアで大幅変更されます。実際には分担して編纂され、意見の集約とかなく、異論があれば併記し、完成を急いでいたように感じられます。全体の流れは、不比等しか知らなかったかもしれません。『日本書紀』に対する反発は大きかったはずですが、このあたりはまだわかってません。

昔のブログ記事です。 現時点でのまとめ 

2022年2月21日月曜日

続日本紀と乙巳の変

 続日本紀の中に「乙巳の変」の痕跡が感じません。
『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ています。

続日本紀の天皇即位の詔でも、天智天皇のことは出てきますが、「乙巳の変」とか述べていないようです。一番単純な考えは乙巳の変がなかったとすることです。文武天皇、元明天皇、元正天皇の時代は、『日本書紀』の編纂過程で、まだ反映されていなかったと思えます。大伴旅人が九州遠征に出かけ、これを神武東征に結びつけたのと同様に、藤原不比等も祖先を大化の改新に結びつけた、これが715-720年ころの状況を示しているということです。もちろん、天智天皇も乙巳の変がなく、白村江の敗戦の時代からはじまれば、単なる戦争犯罪人になってしまいます。天智天皇が親である持統天皇のにとってもよくないでしょう。『日本書紀』に乙巳の変を入れることは大きな意味があります。養老四年(720)の不比等の薨去記事には

大臣は近江朝廷《おうみのみかど》の内大臣・大織冠(天智三年に定めた二十六階の最高位)であった鎌足の第二子である。

さらっと記述されていて、『続日本紀』の編纂者にも乙巳の変は頭にないように思われます。


2022年2月20日日曜日

続日本紀の天皇即位の詔

 詔の中で、どのような天皇が引用されるのかメモです。 文武天皇元年(697)  持統天皇から受け継いだとあります。 元明天皇(707)  持統天皇から文武天皇に、譲位されたことが述べられ、天智天皇の不改常典の話が出て、文武から 譲られて元明天皇になったということです。 元正天皇(715)  先帝の命により受け継ぐとあります。  他の天皇は出てこないです。 聖武天皇(724)  高天の原から始まり、『日本書紀』をふまえたものになっています。ということで、この時点で、持統天皇(アマテラス)が優位、天武天皇(スサノオ)の下位が確定しています。また天智天皇が出てきます。持統天皇の前は天武天皇であったという反論に対し、その前の天智天皇を強調することで、持統天皇と関係の無い天武天皇の皇孫を除外しています。

全体を通して、天皇の詔に天武天皇が出てこず、外しています。理由は不明ですが、聖武天皇の時代に持統系以外の天武系の排除(長屋王か?)が示されているように思われます。 こうして見ると、元正天皇の時が一番微妙です。持統天皇のことも述べていません。反持統天皇派を刺激しないようにしているように見えます。元正天皇の時の年号の養老も美濃国の行幸からできています。壬申の乱の天武天皇が滞在した場所です。何かしらの意味があるように思えます。 その後、長屋王の変、舎人親王に敬意を表するに及ばない(729)などあり、天平に年号が変わり、持統朝が確定するようです。『日本書紀』(720)は聖武天皇即位のためのものであった気もしてきます。

『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ています。

2022年2月19日土曜日

続日本紀の斉明天皇

 『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱っています(ウィキペディアなど)。位階の記事が多く、誰がどうなったかとか注目する人にとっては有益ですが、そうでなければつまらないです。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝がついているものがあります。どのような人だったか傾向がわかります。

『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ていて、注目は天皇との関係を記した薨去の記事です。孝徳天皇、天智天皇、天武天皇の名などが出てきます。しかし、斉明天皇の関係者は出てきていないようです。さっと見ただけで自信はないですが、ほぼないと言えると思います。厳密に見てなくて、斉明天皇の墓の記事を見落とすところでしたが、文武天皇3年10月条に、

天下の有罪の人々を赦免する。ただし十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵《おちのみささぎ》(斉明天皇陵、大和国高市郡)と山科《やましな》山稜(天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営しようとするからである。(25頁)

天平14年5月

越智山陵《おちのみささぎ》(斉明天皇陵、大和国高市郡)が長さ十一丈・広さ五丈二尺にわたって崩壊した。・・・修理させた。・・・(420頁)

墓が実在しても、斉明天皇の存在感は『続日本紀』にはありません。中大兄皇子の称制は、書紀の作り事だと考えているので、当たり前のことですが、『続日本紀』もそう言ってるように思えます。

2022年2月17日木曜日

ヤマトタケルの東国遠征

 『蝦夷の古代史(読みなおす日本史) 』工藤 雅樹 、吉川弘文館 (2019/6/1) の31頁に 古墳文化が東北に及んだが、抵抗もあったという文脈で書かれています。

朝廷の軍勢は出陣した雰囲気は、ヤマトタケル(『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記す)の物語からも想像できる。ヤマトタケルの物語ではヤマトタケルは先に九州の熊襲《くまそ》を討ち、その後で東国遠征を行ったことになっている。そして、東国遠征の物語も『日本書紀』と『古事記』で内容に差があり、『古事記』では遠征の対象は東方十二道(東国のこと)の「荒ぶる神」「まつろはぬ人ども」、すなわち東日本方面の朝廷にしたがわない人たちになっているのに対し、『日本書紀』では、東夷、とりわけ蝦夷を遠征の主たる対象とする物語になっている。

『古事記』と『日本書紀』の違いは何かというと、作成されたのが712年と720年で時代差があります。この8年で東国から東北に勢力範囲が拡大したことでの違いが、それぞれに反映されているのではと想像されます。『日本書紀』は中国の唐に日本をアピールするためのものです。版図が大きいことを示す必要があったのでしょう。そうして考えると、神武東征で九州を出発点にしたのも、目一杯に西方の版図を示そうとしていたことになります。