2022年2月12日土曜日

倭国の鉄の増産

 『倭人と鉄の考古学』村上 恭通、青木書店 (1999/5/1)

の中に、鉄の特産地の芽生えとして、参考になりそうな記述があります。

しかし、この時期の中国山地における製鉄はその生産量以上に評価すべき点がいくつもある。一つは沖田奥遺跡(西斜面地区)を含む総社久代製鉄遺跡群にみられるように、7世紀中葉以降、製鉄炉、木炭窯の数を増し、鉄生産の大規模化をはかっていくことである。また一つは中国地方には複数の炉形がありながら、炉の両小口側に溝、土擴をもつタイプに収斂され、後に各地に広がる製鉄炉の基盤を築き上げる点である。これらを踏まえ、また律令期以降、鉄の貢進地となる中国山地は畿内政権側も鉄の生産地として認める段階に入っていたと思われる。鍛冶および製鉄業におい中国山地の担った役割は大きい。

白村江の戦い以降の鉄不足に対応していると思います。

この引用のあとに、朝鮮半島の製鉄技術との関連がよくわからなく、今後に期待されるようなことが書いてあります。この本の出版は20年以上前ですので、新たな発展があるはずですが、現時点ではどうなってるかわかりませんのでメモ書きです。

岡山県域の製鉄炉、すなわち大蔵池南、沖田奥遺跡(西斜面地区)、緑山例は、溝のなかに炉底を設ける長方形の箱形炉であること、複数の炉が近接すること、そして広い作業場を備えるという点で共通している。・・・

とあるので、この地域の遺跡も含まれるかもしれません。出雲の製鉄との関係も気になります。

2022年2月11日金曜日

神武東征の鉄不足

 『鉄の考古学』窪田蔵郎、 雄山閣 (S48/5/25)を図書館から借りてきました。 「古代の文献に見る鉄器」にいろいろかいてあります。 神武天皇が道臣命(大伴氏の先祖)に命じて、八十梟師(やそたける)の残党を、忍坂の大室屋で饗応し、歌を合図に討伐した話があるようです(日本書紀 巻第三 神武天皇紀)。一応、だまし討ちを天皇がさせたということになってます。この時の歌についてですが、

「忍坂の大室屋に・・・みつみつし久米の子等が、頭槌(くぶつつい)、石槌(いしつい)もち 撃ちてし止やまむ」が古墳期ごろの、鉄剣時代とはいえ不足しがちな刀剣事情を的確にとらえている。つまり、頭槌剣は鉄製のもので、従軍中のごく少数の豪族、貴族がもち、一般の兵士つまり久米の子たちは石棒や木刀を使用していたのだろう。そして銅剣が現れていないが、このころにはすでに銅剣は儀器としての形式的なものとなり、実戦用としてはまったく用いられなくなっていたと思われる。

神武天皇を天武天皇と考えた場合、実際に書紀が編纂された時代にも、まだ鉄剣が不足していた事態があったのではという気がします。『続日本紀』元明天皇の霊亀元年(七一五)五月条に

又五兵之用。自古尚矣。服強懷柔。咸因武徳。
今六道諸國。營造器仗。不甚牢固。臨事何用。
自今以後。毎年貢樣。巡察使出日。細為校勘焉。
(http://www.umoregi.com/koten/syokunihongi/pdf/6.pdf )レ点とかはつけれませんでした。

とあります。日本語訳では

また、五兵(弓矢・殳(つえぼこ)・矛・戈・戟)の使用は古くから久しく行われている。強敵を服従させ、従順なものを手なずけるのも、みな武器に因っている。ところが、いま六道(七道のうち西海道を除く)の諸国において、営造する武器は、充分しっかりしたものではない。いざという時どうして役に立とうか。今後は毎年、製造した武器の見本を提出させ、巡察使が出向いた時、詳しく見本とひき比べて調べよ。(『続日本紀(上)全現代語訳』、宇治谷孟、講談社学術文庫、1992/6/10)

ということです。隼人や蝦夷の反乱に対して対応できていなかったように思われます。神武天皇の話も、古墳期ではなく、書紀の時代をかなり反映されているように感じました。ひょっとして、反乱でも石棒とか使われていた可能性もあり得ます。

神武天皇が飴を作るという話があります(神武即位前紀戌午年十月)。飴は「たがね」と読んでいます。意味は「アメ」になっています(『日本書紀①』新編日本古典文学全集2、小学館、1994/4/20)。「アメ」で天下を平定するとなってますが、どうだろうと疑問に思います。「たがね」を金属製品と理解する方が、この場面にあってると感じます。全体として、鉄不足がテーマになっているとすると、『鉄の考古学』の文が気になります。忍坂の久米の子等のあとに、

また、鉄鏃については同書の神武東征の描写、「八月甲子の朔戌辰天皇、かの菟田の高倉山の峰に上りまして、域の中を見下ろしたもう。時に国見岳の上に八十梟師有り。また女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置き、墨坂に赫炭を置く。その女坂、男坂、墨坂の名は、これによりて起これり」と記されている。この赫炭は木刀や竹鏃の仕上げ処理に使用される一方、戦闘資材の剣や鏃を補給するための場所であって、鉄鋋(てってい)や折れた刀、徴発した農具などを小炭で焼いて応急的に鍛造していたものと思われる。

鉄不足の中での戦いを表しています。さらに、『鉄の考古学』では、

韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を用いて日本統一を完成したという。 このような縁起談があることは、これも当時における鉄製武器の不足状態を端的に示しているものではなかろうか。つまり、鉄器は存在していたが、まだ量的に極めて少なく偏在していたことがわかるのである。

鉄剣の力は大きいという事です。長々と書いてきましたが、天武天皇の時代に、白村江の戦いで、鉄の入手が絶たれて、鉄不足になっていた可能性がでてきます。 節刀というのを思い出しましたが、これも鉄剣が貴重であるからこそ、天皇が自分の護身用としての刀を与えるという重要な儀式になると思われます。

布都御魂(ふつのみたま)ですが、(ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%AD%82)

建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。

節刀

節刀(せっとう、せちとう)は、日本の歴史において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀。標の太刀(しるしのたち)、標剣(しるしのつるぎ)とも。「節」は符節(割り符)のことで、使臣が印として持つ物の意。任務を終了すると、天皇に返還された。(ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%80)

2022年2月8日火曜日

秋田県域の原始~古代の略年表

 『秋田のトリセツ』昭文社 (2021/8/27)にあった略年表です。秋田県が主で他の地域がないのでわかりにくいですが参考になります。(720)年を入れました。

西暦元号できごと
3万年前米ヶ森遺跡(大仙市)などで細石刃が使用される
1万2000年前岩瀬遺跡(横手市)で爪形文土器がつくられる
5500年前県北部で円筒土器、県南部で大木式土器がつくられる
4000年前大湯環状列石(鹿角市)や伊勢堂岱遺跡(北秋田市)などでストーンサークルがつくられる
2200年前星宮遺跡(大仙市)で稲作が始まる
647大化3渟足柵が築かれる
658斉明4阿倍比羅夫、齶田の蝦夷を服属させる
708和銅元出羽郡が建郡
709和銅2出羽柵が築かれる
712和銅5出羽国が建国
(720)養老4(按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されたと陸奥国が報告)
721養老5出羽国が陸奥按察使(むつあぜち)の管轄となる
804延暦23秋田城制が停止、秋田郡が設置される(国郡制の施行)
878元慶2元慶の乱
939天慶2天慶の乱
1051永承6前九年合戦(1062年まで)
1063康平6清原武則、鎮守府将軍に任じられる
1083永保3後三年合戦(1087年まで)
1189文治5奥州合戦で藤原氏が滅亡。大川兼任が挙兵

東北地方の歴史をしらなったですが、予想外に反乱があります。近現代史のところ、戊辰戦争が取り上げられてます。明治の新政府との東北諸藩の戦いですが、前の『鹿児島のトリセツ』でも西南戦争のことが、書いてました。新体制に対する反発が戦いになったのだと思います。古代においても律令体制に対する反発が地方の反乱を招いているのではと感じました。

2022年2月7日月曜日

大伴旅人と日本書紀神話

 神武東征の話だけで、大伴旅人が関係してるのかという気がしてきました。

『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)の中に、養老四年(七二〇)のことがあります。

養老四年二月、隼人が反乱し、大隅国守を殺害する事件が起こった。隼人は、大宝二年にも乱があり、編戸されることに強い抵抗を示していたと思われる。三月、旅人は征隼人持節大将軍となって九州に下った。副将軍が二人(笠御室・巨勢真人)付いているので、軍防令の規定により、一万人以上の兵士が動員されたことがわかる。この任は困難を極めたらしく、同年六月、詔を携えた勅使によって慰問されている。詔は次のように言う。 ・・・省略・・・・ 南九州の暑い夏、何ヶ月も原野を転戦した労苦を「忠勤」としてねぎらわれたのである。なお七月にも再び、将軍旅人以下、船頭に至るまで物を賜うことが行われている。 八月、右大臣藤原不比等が病を得て薨去した。乱はまだ鎮圧されていなかったが、旅人は京に召喚された。不比等薨去にともない、舎人親王(天武天皇皇子)が知太政官事、新田部親王(同)が知五衛及授刀舎人事に就任する。同年十月、旅人は大納言長屋王とともに不比等邸に赴き、太政大臣正一位追贈の勅使となった。

この間、九月には、陸奥国で蝦夷の反乱が報告され、征討軍の人事が行われています。大伴旅人の年表では、この後の動静が不明ですが、

『万葉集』巻九、「高橋虫麻呂歌集」所出の歌・・・(一七五三~四)、(一七八〇~一)に

大伴卿が出てきて、これを大伴旅人とする説があります。蝦夷の反乱は収まってはいますが、バックアップで常陸国にいたということです。

これが正しければ、旅人は、養老年間の後半、文字通り東奔西走だったということになろう。

正史での大伴旅人の初出は

『和銅元年元日、朝賀に際し、正五位上左将軍として、朱雀大路で騎兵を陳列し、隼人・蝦夷らを率いて進んだとされるのが初出である。旅人四六歳。左将軍とは、儀式の時に騎兵を率いる時の将軍名である。左副将軍は穂積老、右将軍は佐伯石湯、右副将軍は小野馬養であった。この年は言うまでもなく、平城京への遷都があり、元明天皇が朝賀を受けた大極殿が平城京のそれか藤原京のそれかには議論がある。

この話から妄想すれば、大伴旅人は若きころから、隼人・蝦夷に対する歴戦の強者であったであろう。とすれば、霊亀元年(七一五)五月に中務卿となる。とあります。これが意味を持ってきます。

前の記事と引用がダブりますが、

中務省は、天皇に近侍して詔勅の起草や伝達、国史の監修などを司り、八省の中でも重要視されていて、中務卿は他省の長官より一階高い正四位上相当官とされていた。従四位上では抜擢といって良いだろう。

神武東征だけでなく、書紀神話全体に関わっているのではと思われます。日本武尊の話など空想物語ですが、リアリティがあります。大伴旅人の体験が神話に取り込まれていると感じました。日本書紀は養老四年(七二〇)です。大伴旅人の若き頃は不明ですが、神話の中に大伴旅人を想像できる部分があるかもしれません。

2022年2月6日日曜日

大伴旅人と神武東征の話

 大伴旅人について調べてみました。 鹿児島の古代から神武東征の話の続きです。 

大伴氏について ウィキペディアでは

「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む[2]。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている[3]。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。

一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や・・・

大伴氏の先祖が、『日本書紀』の神武東征に関与していたようです。

さて、大伴旅人の経歴ですが、『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)では、霊亀元年(七一五)五月に中務卿となる。とあります。その中で

中務省は、天皇に近侍して詔勅の起草や伝達、国史の監修などを司り、八省の中でも重要視されていて、中務卿は他省の長官より一階高い正四位上相当官とされていた。従四位上では抜擢といって良いだろう。

大伴旅人が中務卿の時代に、神武東征について書紀編纂の時期と合っていて、関与した可能性があります。 『続日本紀』では、

和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。(ウィキペディア「大伴旅人」の項)

神武東征のストーリーの旅程のアイデアを出したことが考えられます。

この『大伴旅人(309) 』の四五頁に

旅人の武人としての面を表すものに、正倉院宝物の「東大寺献物帳」(『国家珍宝帳』、天平勝宝八歳<七五六>六月二十一日付)の一節がある。「槻御弓六張」の中に・・・大伴淡等

また「檀御弓八張」の中にも・・・大伴淡等

とある。旅人所有の槻弓(つきゆみ)・檀弓(まゆみ)が、いかなる路をたどってか、光明皇太后によって東大寺に献納されたのである。

ここで、大伴淡等は大伴旅人のことです。これらの弓の中に、他の武人たちの名もあります。旅人については、万葉集の関係で名前が出てきますが、文武に優れた人のよう人のようです。

旅人ですが、多比等との字もあるようです。不比等とペアに思えます。当時のツートップだった気もしてきます。単なる武人というだけでなく、書紀の編纂に関与した優秀な人の可能性大です。

2022年2月3日木曜日

鹿児島の古代から神武東征の話

 『鹿児島のトリセツ』昭文社 (2021/6/18) からの古代年表のメモです。

西暦元号できごと
3万1000年前立切遺跡(熊毛郡中種子町)などに生活の痕跡
2万9000年前姶良カルデラが噴火し、シラス台地ができる
1万3000年前掃除山遺跡(鹿児島市下福元町)や栫ノ原遺跡(南さつま市)などが形成される。
9500年前上野原遺跡(霧島市)などで定住の痕跡
7300年前鬼界カルデラの噴火
前600稲作が始まる
前300高橋貝塚(南さつま市)などで貝輪を加工
2から3世紀松木園遺跡(南さつま市)などで環濠集落がつくられる
5から6世紀板石積石棺墓群がつくられるようになる
682天武11年大隅と阿多の隼人が朝貢を始める
702大宝2年薩摩と多褹の反乱。この頃に日向国から唱更国(のち薩麻国、薩摩国と改称)が分立
713和銅6大隅国が設置される
720養老4隼人、大隅国守を殺害する。大伴旅人を征隼人特節大将軍とする征討軍を派遣(隼人の反乱)
723養老7624人の隼人、朝貢する
730天平2年大隅・薩摩両国での班田制導入を断念
800延暦19大隅・薩摩両国で百姓の墾田を収公し、区分田として班給する
1024万寿元年万寿年間に太宰大艦・平季基、島津荘を開梱し、関白・藤原頼通に寄進
1185文治元年島津忠久、島津荘下司職に補任

続日本紀には、征隼人副将軍の帰還が養老5年7月7日にあります。前年の2月ぐらいからなので、時間がかかっています。養老4年9月には、陸奥国から蝦夷の反乱の報告もあり、混乱の時期にも思えます。 『日本書紀』成立が720年とすれば、反乱鎮圧の影響を受けていることが考えられ、書紀編纂者の意識が九州に向けられたとすれば、日向国が神武東征の出発点になったと考えられます。東征コースを逆にすれば、大伴旅人がヤマトから鎮圧に向かったコースに想定されます。神武天皇が筑紫国に寄り道するとかおかしいなと感じるのも、当時のコースと考えればそうかもしれないという気になります。以前は神武天皇=天武天皇と考えていて、天武天皇が東征のコースを通ったのかと疑問に思っていましたが、今は単なる書記編纂者の空想物語であったであろうということになりました。


図は神武天皇の御東征 : 肇国物語の22頁


表の730年の班田制導入の断念とか、反乱鎮圧の過程で妥協があったように思われます。聖武天皇の即位によってこれが確認された印象です。

2022年2月2日水曜日

祭政一致

 29日放送の『ブラタモリ』(NHK)では、前回の石垣島の訪問に続き、今回は竹富島でした。祭りの多さが驚きで、月に二回ぐらいとのことで、昔はもっと多かったということです。古い時代を残しています。

30日の日経新聞で、たまたま、日曜版で「旅する民俗学者、宮本常一」を目にしました。出雲八束郡片句浦のことが書いてあります。

当地には「四十二浦の潮汲み」という巡礼が今も残る。日本海の浦々の海水を竹の筒に注ぎ、土地の神社に参る習俗である。18世紀初頭にはすでに巡礼者がいた、と古文書は伝える。

伝統の継承を目的とする「島根半島四十二浦巡り再発見研究会」の木幡育夫事務局長によると、眼病治癒の願掛けとして広まったが、戦時中は出征兵士の無事を祈る親族もいたそうだ。・・・

記事で出てきていた『大隅半島民俗採訪録 出雲八束郡片句浦民俗聞書 (宮本常一著作集39)』、宮本 常一、未来社 (1995/3/1)を借りてきました。大隅半島と島根半島の部分二つがまとめられていて後半部分の「信仰その他」です。

〇四二浦の潮汲み 簸川郡東村の一畑薬師は、広く中国地方一帯に信仰せられている薬師さんであるが、特に眼の悪い人の信仰を集めている。その信仰形式はいろいろあるが、このあたりで行われているものに四二浦の潮汲みというのがある。

松江の東の福浦から、島根半島の北岸を大社まで行くと、浦が四二浦ある。その浦々の潮を、竹の筒に一滴か二滴ずつ汲んで集め、かつその土地の社に参り、浦々の家で門付けをなし、最後に一畑へ参るのである。これを四二浦の潮汲みといっている。一まわりで二週間はかかる。それを一〇回もくりかえす人があるそうである。なかなか一人ではできないので、眼の悪い人たちが二,三人くらいで組み、これに目のよいものがついて行くこともある。夜の泊まりはたいてい善根宿であるが、泊める方でも快く泊めてやる。まことに心をうたれる風景である。片句ではたいてい太師堂で泊まっていくそうである。御津から山に上がって尾根伝いに来ると、太師堂はちょうどよい休場になる。

こうして目のみえはじめた人もあるというが、それよりも信仰によって気持ちの救われるのが多いようである。

このあと、付記で、一畑信仰の話が書いてあります。

交易だけでなく、信仰によってこの地域では、人の移動があるのだと思いました。目の悪い人が良くなるようにとの薬師さんですが、『日本書紀』で似た話があります。 垂仁天皇の第一皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は口がきけないのは、出雲大神の祟りとのことで、天皇は皇子を出雲に遣わして大神を拝させた。ところ帰りに話せるようになったという話です。出雲の霊力で口や目が治るのかなと思います。出雲の宗教的な力が絶大であるとのことになるかもしれません。

話がそれてしまいましたが、宮本常一氏の記録は昭和十四年十一月十七日から二十日までの記録ですが、異常に詳細に記されています。やはりこの地域でも行事が多いです。沖縄と似ていて、行事の合間に仕事をしているといった印象を受けます。二つの例だけですが、すべて生活は祭祀儀礼を中心に回っているのが、古代ではなかったかと思います。つまり、祭政一致どころではなくすべてが祭祀儀礼につながると考えた方が良いという気がします。