2022年1月12日水曜日

丹後王国

 ウィキペディアにあります。

門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。

丹後王国


そうだろうかということです。天武天皇の時代、出雲の勢力は大きかったと思いますが、天武天皇亡き後の持統天皇以来、藤原京・平城京時代は、衰退気味であったと思います。その後、平安京遷都により復権したような印象を受けます。

出雲氏は,天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする氏族です。平安京以前に,山陰道の出雲地方から丹波を経て京都(山背国愛宕(おたぎ)郡出雲郷)へ移住し,大きな勢力を築いていたといわれています。氏の名から出雲郷の地名が生まれ,現在でも出雲路(京都市北区)や出雲路橋という名が残っています。
京都と出雲氏の関わりについて知りたい。 

このブログでも京都と出雲のことを記事にしています。
遷都と宗教 

賀茂斎院跡(櫟谷七野神社) 

出雲から京都に出てくるときには、その通過点の確保が大事になります。つまり丹後というか丹波の地域が重要になります。 「丹後王国」に関連した『日本海域の古代史』門脇 禎二、東京大学出版会 (1986/11/29)を借りてきました。

252ページより、記紀の丹後関係記事の特色が書かれています。

丹波関係の記事の編年割付は、「日本書紀」では大きくは三期にわかれていて、ひとつは崇神紀・垂仁紀に集中しており、次は雄略紀から安閑紀にかけて、そして天武紀以後である。

雄略天皇は天武天皇と考えるので、崇神天皇もそう考えられます。「神」の天皇は、天武天皇のイメージを持っているとして良さそうです。先の門脇本、254ページに、丹波関係記事の配置の表があります。一元/六〇年の区切りで見ています。書紀は60年を基本に記述されているとの理解があるのだと思いました。表の崇神紀10年「四道将軍の派遣」とあります。北陸・東海・西道・丹波ということで、丹波が重要視されているように思われます。また表の崇神紀60年に、「出雲振根の告訴・丹波氷上の氷香戸辺の言上」とあります。出雲の神宝を献上させたところ、出雲の対応で内紛が起こり、ヤマトが介入したが、丹波の氷香戸辺が話をおさめたというようなことのようです。崇神紀には宗教がらみの記事が6年にあって、天照大神と倭大国魂の二神の折り合いが悪い話が出てきます。これで思うのが、丹波の元伊勢伝承です。『丹後王国物語-丹後は日本のふるさと-』せせらぎ出版 (2013/11/30)の引用です。

伊勢神宮(三重県)の内宮に天照大神、外宮に豊受大神が祀られています。神宮関係の資料である『止由気宮儀式帳』(804年成立)によると、雄略天皇の時代に天照大神が天皇の夢に現れ、「高天原からこの地に鎮まったが、朝夕の大御饌(食事)を安らかにとることができない。そこで丹後国の比治の眞奈井にいる大御食津神である豊受大神(等由気大神)を自分の元に呼び寄せてほしい」とお告げしたとあります。そこで天皇は丹後から豊受大神を伊勢に遷したとしています。 現在、伊勢で祀られている豊受大神が、もともとは丹後の神であることを伝えているのが元伊勢伝承です。

丹後には、各地に豊受大神が祀られているそうです。書紀では雄略天皇のところには書かれていないようです。天照大神も問題有りの神様で、仲裁的に丹後国が関与した話に思います。 『丹後王国物語』の漫画に

丹後は古代「タニハの国」と呼ばれていました。この地でたわわに実る稲補を見たトヨウケ大神様が、「あなにえし、たには」と喜ばれ「たには」と名づけられたのです。場所は京都府の北の部分、有名なものに日本三景のひとつ天橋立があります。

潟湖があり、古代文明が発達しそうな場所です。しかも、

『丹後国風土記』逸文には、天橋立の東の海を「与謝海」、西の海を「阿蘇海」というとあり、「二面海雑魚貝など住むが、蛤は少ない。」と記述されています。

「阿蘇」がつく地名が出てきました。稲作文明が九州から伝わった痕跡のように思いたいですが、無理っぽいとは思います。どの程度遡れるかわかりませんが、阿蘇からこの地にやってきた人がいる可能性はあります。

タイトルの王国の話とずれてますが、もう少し。『日本海域の古代史』の後半部分324ページの「出雲の王から出雲の国造へ」で

「出雲国造神賀詞」というのが残っていますが、それによると、出雲国造として出雲の神々一八六社すべてのッ祭祀権をとりまとめ、天皇を守るむねの賀詞を奏上し、そして、出雲のオオモナチ神の和魂(にぎたま)を「皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り」大和の三輪山の神奈備、葛城山の神奈備、雲梯(うなで)神社の地(高市郡)、飛鳥の神奈備のそれぞれに鎮座させた、というのです。
つまり、この範囲にはいっているのは飛鳥と藤原京ですから、その周りに出雲の祭祀権を差しあげ服属を誓ったのはいつかというと、飛鳥か藤原に都があった時期ということになると思われます。こういうことから私は、出雲は「蝦夷」や「隼人」などの世界を除けば、日本列島でヤマト朝廷の支配下にはいるのが一番遅かった地域であって、早くみて六世紀のおわり、おそらく七世紀はじめころではないか、というふうに考えております。

「出雲国造神賀詞」のことから、都があった時期を考えると七世紀後半と考えるのが妥当と思えます。出雲と天武天皇の宗教的な一致があったのは確かそうで、持統天皇の代になり、ズレが目立ってきた想像します。

2022年1月10日月曜日

『これでも言語学』

 『これでも言語学 ―中国の中の「日本語」』牧秀樹、開拓社 (2021/5/25) の最後の方だけ見ています。 17章に中国語の仮説が述べられています。

Zhangらによる2019年のNatureというジャーナルに掲載された Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northan China in the Late Neolithic(シナ・チベット語の起源が後期新石器時代の北部中国にあるとする系統発生的証拠)という論文の中でも、シナ・チベット語は約5900年前に出現し、後に、西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、東方と南方に移動して中国語となった集団に分岐した可能性が高く、シナ・チベット語族の発祥地と時期について提案されている二つの仮説(北方起源仮説と南西起源仮説)のうち、北方起源仮説では、約4000~6000年前に中国北部の黄河流域に出現したとされ、南西起源説では、9000年以上前に東アジアの南西部に出現したとされています。

つまり、中国語とチベット語は、もともとは、同じ祖先に属しており、6000年ほど前から、二つに分かれ始めたということです。これらのいくつかの要素を考えると、中国語も、もともとは、SOV言語で、何らかの理由で、SVOに変わったのではないかと仮説を立てることができそうです。それが、、中国語動詞・前置詞移動仮説の中身です。実際、Li(1990)は、現代中国語の基本語順は、現代日本語同様、SOVだと提唱しています。

Liの文献は、参考文献で挙げられている Li,Y.-H.Audrey(1990)Order and Constituency in Mandarin Chinese,Kluwer,Dordrecht. と思います。中国語動詞・前置詞移動仮説については省略。

18章で、日本語が通って来たかもしれない道として

・対馬ルート:朝鮮半島から対馬経由で西日本に入るルート
・北海道ルート:シベリアからサハリン経由で北海道に南下したルート
・沖縄ルート:台湾付近から琉球列島に入るルート

が挙げられています。私個人の曲解かもしれませんが、中国語がSOVの時代に、中国からダイレクトに日本にやってきたと考えてもおかしくはありません。

基本的な知識がないのだろうと思います。何を行ってるのか意味不明のところがあります。sovからsvoに変化したのは甲骨文字から漢字の文字の使用によるということのようです。この辺はうれしいところです。消化不良ですが、今後の課題で、メモ書きとします。 このブログでもSVOでだいぶ書いてました。

日本語の起源 

アジアの言語の起源 

英語の語順から思うこと 

中国語のSOV 

言語とコミュニケーション 

「中国語は英語に似ている?」 

中国語の膠着語としての痕跡? 

アイヌ語の印象 

有声音・無声音とか有気音・無気音とかも書いてます。 2021年9月から10月にかけてです。『これでも言語学』では注目されていないのが残念です。本とか出てても知らないだけかもしれませんが。

2022年1月9日日曜日

はだしの歴史

 タイトルは大げさすぎる気がします。『魏志倭人伝』では風俗として「皆徒跣」とあり、「みな、裸足である」と理解されています(ウィキペディアより)。古い時代だからそうかもしれないと思っていました。ところが、『NHK 8K 国宝へようこそ 洛中洛外図屛風』NHK出版 (2021/10/30)を見ていたら、どう見ても裸足のようです。裏書きでは、上杉本といわれるもので、作者は狩野永徳(1543~1590)、制作年は室町~桃山時代、1565年(永禄8)頃となっています。絵の部分的な解説で

・・・描かれている人たちは、みな、はだし。一説には、草履を描く姿が省略されているのではないか、という見方もあるようですが、そうとは言えないような気もします。実際、みな、はだしだったのではないか。

私もそうかもしれないと思います。草鞋または鞋(わらじ)であれば、ひもの部分があるので、図では線であらわされると思います。
わらじの図 

『洛中洛外図屏風(舟木本)』というのが、e国宝で見ることができます。 国立文化財機構所蔵 国宝・重要文化財 洛中洛外図屏風(舟木本)

草履のようなものを皆が履いています。

景観の情況から元和初年(1615)頃の作とされている。

急激に履き物が普及したのかもしれません。

上杉本の図では、目につきにくい履き物の可能性もあるかもしれません。足半(あしなか)とよばれる半分のサイズのものもあるようです。鎌倉・室町時代の武士階級が大いに利用とのことです。しかしこれでも厚みがあり見えると思います。
足半(あしなか) 

e国宝に『一遍上人伝絵巻 巻第七』があったので、こちらを見ると、何かしら履いている人と履いていない人のかき分けがあるようです。履いている人が多いようですが、乞食風の人は素足で、そうでなさそうな人にもはだしの人がいるように見えます。この図だけで判断するのは難しいですが。
『一遍上人伝絵巻 巻第七』 

鎌倉時代・正安元年(1299)

とあります。履いている人と履いていない人が混在していたことも考えられます。

しかし、根本的には

『100年前の写真で見る 世界の民族衣装』日経ナショナルジオグラフィック社 (2013/7/29)

の本では、気候が温暖そうなところでは、裸足の人が多く出てきています。百年前のことですが、多様な世界があったということです。現在からでは想像がつかないこともあると思いました。室町時代でははだしの人がいておかしくはないと思いました。

話が飛びますが、殿上人という、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者をあらわす言葉があります。想像ですが、これも元々は裸足で昇殿することを禁じたことから、履き物の有無がら階層化したのかとも思えてきます。ゴイサギ(五位鷺)とかも、人間とかに限らず、動物とかにも適用されてるのも関係あるのかもしれません。
殿上人


2022年1月6日木曜日

満洲の地図

 満州のことを知りませんでしたが、『南滿洲鐵道旅行案内』大正六年一月十八日発行、南満州鐵道株式會社がありました。古いガイドブックですが、行きたくなります。 国立国会図書館デジタルアーカイブ

『南滿洲鐵道旅行案内』
書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000008035268

大連駅P.7から 地図は29-34/192
長春駅P.103から地図は114-115/192
の地図を以下に示します。

大連付近図 


長春市街図



長春市(ちょうしゅん-し/チャンチュン-し、中国語: 长春市、拼音: Chángchūn、英語: Changchun)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。総人口約749万人(2017年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっている。住民は漢族、満族、朝鮮族、回族、モンゴル族、シベ族など38の民族から構成される。(ウィキペディア「長春市」より)

長春を新京という名前に変えたのは、いかにも満州国は日本のものだという感覚の地名ですが、整然とした都市計画の町に驚きました。円形の広場を直線の道路でつなく形に当時の最先端を目指している気迫があります。日本が満州から撤退するというのは無理な状態であったと感じてしまいます。この地図を見てると、白村江の戦いでもやはり朝鮮半島に、撤退できないほどの権益があっって起こるべくして起こったのかもしれないと、あらためて思われます。

2022年1月4日火曜日

銅鼓の鳥

 銅鼓に鳥の紋様がメインで出てきます。どうしてかわかりませんでしたが、古い時代の水田稲作の風景があったのかもしれません。

NHK Eテレ・東京 1月1日(土) 06:05〜06:25で、舞楽が放送されていました。

古来より宮廷で育成され、1400年の歴史を誇り日本の芸能の原点とも言える舞楽。その伝統を今に守り伝える宮内庁式部職楽部の出演で、新春にふさわしい悠久の時の流れを感じる雅(みやび)な音楽と、あでやかな舞を堪能する。舞楽は左方の舞(おもに中国から伝わったもの)と右方の舞(おもに朝鮮半島から伝わったもの)に大別される。今回は左方の舞「承和楽」(しょうわらく)、右方の舞「新靺鞨」(しんまか)をお送りする。 https://tver.jp/episode/94213786

「承和楽」の方ですが、紅い衣装でかぶり物が鳥のようでした。イメージとして鳥の「トキ」の舞のように見えました。古い時代には、「トキ」が水田に関係していて、これが舞に、五穀豊穣のシンボル的な意味を持って取り入れられたと思えます。個人的な感想です。タイトルの「承和」は平安時代の年号で古代とはいえないので銅鼓と直接の結びつきはありませんが、一瞬これはと思いました。以下の説明があるので鳥と感じても良さそうです。

舞楽では、目も覚めるような明るい色・柄の装束に、鶏のとさかのような被り物である「鳥甲(とりかぶと)」、足首で紐を結んで着用するスニーカーのような履物「絲鞋(しかい)」など、いわゆる「和服」とは全く違うデザインのものが使用されるほか、高い鼻に大きな目など外国人の顔の特徴を強調した面も登場します。 https://www.nhk.jp/p/nippongeinou/ts/5K1GW1XVN4/blog/bl/pNAbVv6VMl/bp/pPljdb4nrL/

銅鼓の鳥も「トキ」のような鳥に思えます。銅鼓では鳥がメインのようにありますが、銅鐸では皆無ではないようですが、それほどではないようです。 農耕祭祀儀礼にくちばしの長い鳥が出てきてもおかしくはないとはいえると思います。

「トキ」と水田 

追記:銅鼓の鳥のタイトルで、鳥の図がありませんでした。『ベトナム銅鼓図録』六興出版 (1990/4/10) A-1-1の部分図です。 下の方のくちばしの長い飛んでいる鳥が円周上に配置されています。その上に鹿、多分祭祀儀礼の様子が表されているようです。


追記2:NHKの放送の「承和楽」ですが、見直したら、くちばしのついた被り物ではありませんでした。しかし、緑色の絨毯の上で舞っています。稲穂がみのる前の田んぼのイメージがあるように思えなくもありません。

2022年1月1日土曜日

銅鼓と銅鐸の紋様

 『歴史発掘⑧祭りのカネ銅鐸』佐原 真、講談社 (1996/7/29) に銅鐸の写真が多く掲載されています。 のこぎりの歯のようなギザギザ紋様が出てきます。これは銅鼓でもあります。似ているのも偶然のようにも思えます。しかし、上記の本で53ページに[紋様の方が絵よりも大切]として、

銅鐸は、これまでにおよそ四三〇個みつかっています。そのうち、絵のある銅鐸は五〇個ほどですから、一〇個の銅鐸のうち、絵のある銅鐸は一個強にすぎません。銅鐸に絵を描くことが、それほど大切では無いからでしょう。絶対多数の銅鐸には紋様があります。しかも、それには重要な事実があるのです。  鋳造が失敗し、紋様が見えない場合、鉄の刃物で紋様の線を補っているのです(図87)。一方、鋳造がうまくいかず、絵が見えなくても補刻しません。途中で絵が消えていても、そのままなのです。この違いもまた、弥生人にとっては、銅鐸の紋様こそが大切で、絵はそう大切ではなかったことを示しています。

このあと、紋様については意味がわからないが、絵は理解できるので私たちにとっては重要という話に展開します。しかし、紋様の意味はわかりませんが重要であるということは、銅鼓で重要と思われていたのが銅鐸にもあるということは、農耕祭祀の考えも中国から日本に伝わったということになります。 銅鐸には、連続渦巻き紋という蚊取り線香をつないだ紋様がありますが、この基本形の円を接線でつないだ形が銅鼓にあります。見にくいですが、

銅鼓と古墳壁画の下の図です。 

特徴的な紋様で似ていると思います。 しかし銅鐸にはある流水紋と呼ばれる線の折り返しのようなものはありません。銅鼓には、櫛を使うという発想がなく、日本で新しく生まれた紋様かもしれません。

銅鼓と銅鐸というのも書いてます。 

2021年12月26日日曜日

呉の鏡、画文帯神獣鏡

 呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が出土していると『卑弥呼の時代 (読みなおす日本史)』吉田 晶、吉川弘文館 (2020/4/1)にありました。呉と倭国の関係を示す鏡です。魏と対立する呉は、遼東地域から朝鮮半島に勢力を保持していた公孫氏や高句麗との間に関係を持とうとしていたとあり、

東シナ海を中心に海上を利用して活発な活動を行った呉が、公的に倭国と接触したことを物語る文献上の証拠はまったくない。だが遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が存在する。一つは、山梨県取居原きつね塚古墳出土の赤烏元年(二三八)の紀年銘をもつもので、今ひとつは、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年(二四四)の紀年銘をもつ鏡である。このことは、呉と倭人社会との間になんらかの交通関係が存在したことを物語っている。二面の鏡の存在だけで呉と倭国の公的な交通があったとはいえないが、呉の東シナ海を利用した積極的な海外進出の状況からすると、いつかは倭人社会と接触する可能性のあったことは認めなければならないだろう。 こうした可能性を魏は予測していたとみてよいと思う。ーーー(朝鮮半島との関係などから)ーーー魏としては倭国を是非とも臣属させておく必要があった。卑弥呼に「親魏倭王」という破格の厚遇を与えたのも、これと関連するわけである。

とあります。本の順番とは逆になりますが、

公孫氏政権をめぐる魏と呉の確執が最終的に決着した直後の、景初三年(二三九)六月に邪馬台国と魏の交渉が行われていることにあらためて注目する必要がある。その遣使のタイミングは絶妙でであり、卑弥呼を中心とする倭国の支配層は、右のような(*縦書きでは)東アジアの国際関係とその結果を見究めたうえで、魏への遣使を行ったとみて良いと思う。

のようなこことが記されています。遣隋使の派遣も中国情勢を見ていて決定されたと思われるのと同じで、たまたま偶然にではないということです。呉と倭国の関係の文献はないことに関して、中国三国志で魏が正統とされ、呉とかは諸外国との関係についてのは対象とならずに、記述がないともありました。三国志の世界が離れた日本に影響していたことになります。

ネットで検索すると

呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。
日本で出土する呉の鏡 https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-3

文書からは追えないようですが、呉製の神獣鏡があることから、実際には呉と倭国の間に何らかの関係があったのだろうということは確かです。『日本書紀』が朝鮮半島に偏執していて、その影響を私たちは受けているのかもしれません。