2021年12月11日土曜日

『日本書紀』の「日本」

 『日本書紀』のタイトルにどうして「日本」がついているのかということです。『古事記』的な名前で良かったはずです。

『物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム』、 中公新書1372、小倉貞男、中央公論新社 (1997/7/25)にヴェトナムの名前の由来書いてあります。参考になりました。

「ヴィェトナム」(VIET NAM)という国名は、ヴェトナム自身がつけたものではない。はじめてヴェトナムを統一した王朝に対して、中国の清朝が名付けさせたもおである。このときヴェトナムは自ら国名をつけることができなかった。
「ヴィェトナム」は漢字で「越南」と書く。
一八〇二年五月一日、ヴェトナム最後の王朝となるグエン(阮)王朝が樹立された。史上はじめて全土を統一したグエン・フック・アイン(阮福映)は、自ら即位して皇帝を名乗り、年号をジャロン(嘉隆)と定めた。清朝とは朝貢関係にあったので、ジャロンは全土を平定したことを清朝に報告し、国号を「ナムヴィェト(南越)」としたいと願い出た。ところが、清朝はジャロンが国王となったことは認めたが、「南越」という国号を使うことを許可しなかった。これには中国側に理由があった。紀元前二〇七年、中国の秦朝末期の混乱期に、中国南部に秦朝に対して反逆した政権が誕生した。国号を「南越」と名乗り、いまの広東を首都・番禺とよび、広大な中国南部一帯を支配した。・・・(清朝はこれをきらったということである)・・・中国はなんといってもアジアの秩序を取り仕切っている帝国である。その中国が、「ヴィェトナムを名乗れ」というのだから仕方がない。「華夷秩序」の世界では中国の意向に絶対に逆らえない。「華」つまり中国の朝廷はつねに世界の中心である。当時は「アジア」という概念がなかったから中国の朝廷イコール世界の中心、指導者である。中国と国境を接している国々も、接していない国々も、「夷(えびす)」は、みな中国のご機嫌をとらなければならなかた。

朝鮮についても同様のことが書いてあったのですが、どこかわからなくなってしまいました。ウィキペディアの「李氏朝鮮」より引用します。

高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[11]

「華夷秩序」の世界で、国名を中国に認めさせるのは大変なことだとわかります。『日本書紀』も本当は「倭国書紀」であったかもしれません。国号を「日本」とするために、その正統性を主張するためのものとして、『日本書紀』が編纂されたということだったとあらためて思います。『日本書紀』の潤色問題も、正統性の邪魔になるところで行われていることになります。

2021年12月10日金曜日

魏志倭人伝の貫頭衣とアオザイ

 ウォーキングで、着込むと汗で蒸れるので、その対策が課題です。脇にスリットを入れればよいかと考えて、ベトナムの民族衣装であるアオザイに興味を持ったと思います。アオザイをウィキペディアで見ると、アオババというものもあるようです。リンクのチャイナドレスでは、中国の北方民族の衣装がチャイナドレスに影響を与え、それがベトナムのアオザイに伝わったとあります。しかし、アオババなど非常に風通しがよくて、南方系の服に思えます。古い時代からこのようなスタイルの服がこの地にあったと思います。それとズボン的なものでは裾をめくるのが面倒くさいはずで、アオザイ的な服装の方が水田稲作に向いているように思えます。ベトナムは漢字で越南です。中国越地方の南の意味です。中国南部とつながりがあります。水田稲作とつながりがありそうです。

魏志倭人伝ですが、ネットにありました。

古代史レポート、魏志倭人伝より 

その引用です。

その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。

貫頭衣もアオザイと同じで正装であって、面会の時に、詳しく尋ねていたのかもしれません。使いに対して礼節をもって対応する人の礼装の様子を描いていたような気もします。 またその後に続いて、以下のようなことが書かれています。

稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。

中国・海南島と同様との記述があります。つまり、これが正しければ、倭国も南方系の影響のある地域と認識されたということになります。邪馬台国が近畿か九州かという時に、九州の方にあったと考えるのが自然に思えてきます。また、稲作と貫頭衣の伝播が一体としてあったことも考えられます。

2021年12月8日水曜日

朝鮮半島の前方後円墳

 『「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書)』高田 貫太、KADOKAWA (2019/9/20)を図書館から借りてきて読んでます。 「異形」というのは大業なタイトルに思えますが、新しい前方後円墳の考え方が述べられています。 24ページ引用

この新たな議論の指摘で重要なことは三つある。ひとつは古墳の墳形大きさに、前方後円墳を頂点とする相当に厳密で一元的な政治秩序をよみとろうとすることはむずかしいのではないか、ということである。二つめは古墳造営の背後に、倭王権(構成する有力)のみならず、列島各地の地域社会の自律的で競合的な政治経済的な活動がみとめられる、という点である。そして三つめは、その競合的な関係の中で、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳という、おおむね共通のコンセプトを共有しながらも相互に思想的な差異をふくみこむモニュメントが、日本列島各地にさかんに造営された、ということだ。

ここから、議論が始まるということです。確かに古墳造成は祭祀儀礼の一つですが、しょっちゅうあるものではありません。大林組の試算で長期間かかるとしたデータがありますが、すべて人力の現実的で無いものです。倭王権が長期にわたって支配してるとは思えません。銅鐸などでは毎年のように使用されるでしょうが、別物とすべきと思います。 地名についてわかりにくいですが、朝鮮半島南部と北九州のつながりについて述べられていると理解しました。 この地域は案外広い海峡の両側にあります。瀬戸内海や有明海・八代海の比ではありません。海洋文明があったということで、倭国の前方後円墳もこの地域に影響を与えたということでしょう。倭国はこの地域に鉄の入手を強く求めたことが想像されます。 問題に思うのは、水田稲作です。朝鮮半島から北部九州に伝来したとの説です。朝鮮半島で稲作が始まったわけでなく、中国から伝わったと考えられます。どのように朝鮮半島に伝わったのか示されていません。書くまでもなく常識的なことかもしれませんが、個人的には?だと思います。

八世紀には、渤海使が日本に来ています。渤海は朝鮮半島の北の国です。朝鮮半島の沿岸沿いではなく直接に日本海を経てやってきたようです。下記の本では、能登半島や、敦賀など。距離的には、中国と九州西部間の距離に見えます。時代が違いますが、中国から直接に稲作が日本に伝わったこともありうると思いました。
『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科、平凡社 (2006/11/11)、
「渤海の対外交易」の地図のところでは朝鮮半島の東西の海は、東海[日本海]、西海[黄海]と標示されています。『「異形」の古墳』を見ていて、朝鮮半島の歴史は政治問題化しそうで微妙なところがあるようです。

2021年12月6日月曜日

青銅器分布の継続性

 青銅器の分布で、銅鐸・銅剣・銅矛で、地域間の偏りがある図をよく見ます。 NHK For School の動画で、銅鐸・銅剣・銅矛の説明がありました。 祭祀儀礼に使用されたと説明があります。動画の中でも地域分布が示されます。 動画での銅剣では、よくわかってないので間違ってるかもしれないですが、双環柄頭短剣のように見えます。デジタル大辞泉では、双環柄頭短剣は

中国北方に分布するオルドス式短剣に似た特徴をもつ。平成25年(2013)に滋賀県高島市の上御殿かみごてん遺跡で紀元前4〜3世紀のものとみられる鋳型が発見された。

とあります。他にも出土してるのかもしれませんが、知識が古いままで時代遅れの知識なのか、よくわかりません。 問題のありそうな話題で、とんちんかんなことを言ってるかもしれません。分布図の例が、
野洲川下流域の弥生遺跡群のホームページ 

にあります。ほかにもありそうですが、検索上位のものです。分布範囲は作図者によって変わりそうですが、大雑把には地域間での違いがあることがわかります。この分布を見ていて、時代を経て、古墳時代にも地域のまとまりが維持されているようで、さらに、律令制の直前でも残っていたような気がします。陸上交通が未発達の段階では、領域の変化はほぼ無かったのではないかと思えます。

2021年12月4日土曜日

土蜘蛛(土蜘)

 能の演目の一つです。能をわかってませんので、詳しく考えたいのですが、メモ書きとします。 話は、

病に伏せる源頼光のもとに怪しげな僧があらわれ、蜘蛛の糸を投げかけるが、頼光に切られて逃げ去る。頼光の部下が血痕を見つけ、怪物の後を追って葛城山に行くと、土蜘蛛の精が現れて、格闘の末退治される。(能鑑賞二百一番、金子直樹、淡交社 (2008/10/7)より

この本の解説には

典拠となった『平家物語』剣の巻では、土蜘蛛の塚は京都の北野だとされており、今でも北野天満宮近くに伝承の塚が二カ所残っている。ところが能では、塚の在り処を大和の葛城山だとしている。「土蜘蛛」とは昔からその地に住んでいて、新しく支配者になった大和朝廷に服従しなかった人たちのことで、なかなか従わない古くからの民を土蜘蛛という化け物に見立てた、統制の戦いを表現しているとも考えられる。

とあります。ウィキペディアを見ると、主君は、「藤原兼家→道長→頼通」で、父は源満仲で、多田満仲とも呼ばれます。多田とは多田銀山があったところで、満仲は多田源氏の祖とされます。アメリカのゴールドラッシュの時のインディアンと土蜘蛛が似ているような気がします。大和朝廷の時代はそうであったとは思いますが、平安時代でも同様のことがあったのではとの妄想です。

『平家物語』剣の巻が、なかなかわかりませんでした。諸本あり、含まれてない本で探していたかもしれません。
『平家物語ハンドブック』、小林 保治 (編集)、三省堂 (2007/2/25)
を見て、どのあたりにあるかわかりました。
『新潮日本古典集成、平家物語 下』、水原 一、巻十一剣の巻下
に確かにあります。塚穴に入っていた蜘蛛を退治したという話です。ただ虫を退治しただけには思われません。

2021年12月3日金曜日

前方後円墳、馬、製塩土器

 河内湖のことを探していて図書館で

大阪府立狭山池博物館図録18平成28年度特別展『河内の開発と渡来人 –蔀屋北遺跡の世界-』 蔀屋北(しとみやきた)遺跡

を借りてきました。 古墳時代から奈良時代にかけてがわかる蔀屋北遺跡のことが特集されています。

「第5章河内馬飼い」で、[A]讃良郡と馬飼いのことが書かれています。

五世紀の河内湖周辺には馬具・馬骨・馬歯の出土する遺跡が数多くみられます。馬とかかわりがある集団は古くから広範囲に居住していたようです。ところが、その実態はよくわかっていません。・・・・『日本書紀』履中天皇5年条、淡路島で狩猟嫉したときが目の縁に入れ墨をした馬飼の話が最も古い記事で、・・・百済に、欽明天皇七年条に「良馬七十匹、船十隻を贈る」、同十五年条は「馬百疋、船四十隻を贈る」、同十七年条は「兵仗と良馬を贈ること甚多なり」とあります。馬を輸出するほどに飼育が広がった可能性があります。 天武天皇十二年条には、天皇の詔で大和馬飼造・川内馬飼造・娑羅羅(さらら)馬飼造・菟野(うの)馬飼造などに、それぞれ連性(むらじせい)を与えています。・・・

次の[B]「仔馬の語る牧の実態」では、『日本書紀」天武天皇十三年条に、馬は軍事上重要であると書いてあるそうです。 『日本書紀』全文検索で見ると多分以下のところのようです。

「凡政要者軍事也。是以、文武官諸人務習用兵及乘馬。則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。其有馬者爲騎士・無馬者步卒、・・・

天武天皇は馬を重視していたことがなんとなくわかります。 仔馬の骨も見つかっていることから、馬を育てていたことや馬具なども作っていたことがわかるそうです。 その次の[C]「馬具と馬装」では、

百済南部の栄山江流域を中心とする全羅南道一帯は、渡来文化の故地として注目されているのですが、馬具が出現する時期が、わが国より遅れることがわかってきました。・・・

このあたり、現在はどうなっているのだろうと思います。

さて重要と思われる[D]馬の飼育に不可欠な塩について書かれています。

河内湖周辺遺跡で馬骨・馬歯や馬具が発見されることに伴って、塩をつくるための土器がたくさん見つかります。このような大量の塩を必要としたのは馬だと考えられています。奈良時代の『養老令』第二十三巻の「廐牧令」に、官馬には、毎日馬の大きさに合わせ、馬草以外に稲・豆などとともに一定量の塩を与えることが記されています。それは、馬が汗かきで、多くの水分と塩分を必要とするものの、飼料からは塩分補給ができないからです。また、馬から皮革を得る場合にも、皮なめしなどに大量の塩が必要だったようです。

参考:『養老令』第二十三巻の「廐牧令」

単純ですが、巨大な前方後円墳を築造するには、人手では無理→馬など使う→大量の塩が必要→塩が用意できる地域でないと無理→土器と製塩の条件のところ→瀬戸内海の吉備の地域が有利→吉備の前方後円墳が発達
となったのではということです。

前方後円墳の土木技術が、転用されて、吉備と河内の連合勢力により、難波の堀江の開削とか前期難波宮などのインフラ工事につながり、まだこのときは海洋国家でしたが、天武天皇の時代になりインフラの目標が道路整備に向かい、すべての道はヤマトに通ずるといいう律令制を目指したのではないかというストーリーになります。

2021年12月1日水曜日

持統天皇と河内湖

 『大阪のトリセツ』昭文社 旅行ガイドブック 編集部、2020/11/01に、「こんなに違った古代の大阪!」ということで地図があります。河内湾→河内潟→河内湖→今は平野部の図です。この変遷の図が東大阪市のサイトにあります。キャプチャーしました。以下です。 東大阪市のサイト、概要の3ページ 



現在では想像できないような変化があり、西暦400年頃が近そうですが、わかりにくいです。持統天皇の名となった鸕野讃良皇女から讃良郡の古い時代の地図は、讃良郡条里遺跡があり、近くに蔀屋北遺跡があり、それからおおよそわかります。



図は、蔀屋北(しとみやきた)遺跡現地説明会資料  より。

蔀屋北遺跡周辺古地図です。讃良郡条里遺跡が近くにあります。 古墳時代中・後期の大規模な集落跡が発見されています。

何を言いたいのかと思われますが、持統天皇が古墳時代から奈良時代につながる地域の出身で、個人的には、古墳時代と律令制の時代が分離していましたが(不連続に思っていたのが)、この遺跡と持統天皇の存在からつながりを感じました。