梵字の五十音図を見ました。
梵字は表音文字です。ひらがなの「か」をローマ字で表せば、「ka]となります。「き」はローマ字では[ki]ですが、梵字では[ka]+[i]で「き」になります。
ローマ字の[ka]では「k」+「a」の子音+母音の組み合わせですので、横書きで左から右方向に向かう並びになります。ひらがなであれば特に方向は関係なく縦書きでも問題ありません。梵字も同様のようです。梵字について、五十音図でかなりわかりますが、表音文字で「あ」、「か」、「さ」、・・・の「あ」の行が基準になり、子音に相当するものが「い」行、「う」行とついています。ひらがなであれば、「か」の列、こちらをか行というのかもしれませんが、縦の列の文字からは「k」音を感じることはできません。梵字であれば、子音の字形のどこかに母音を示すものがついて、縦横の関係でなんとなくわかるような気がします。梵字では母音に相当するものが日本語のあ~おの五音より多くありるので、縦に伸びることが考えられ、実際はもっと多いはずで、違いはありますが、かなの五十音図は基本は梵字の悉曇学にあるようです。
ひらがなは漢字の草書体から取り入れられたというのが定説ですが、納得しにくいところがあります。この梵字の五十音表を見ていて、「つ」のところです。拡大します。
「つ」は手元の五體字類を見ると、門、川、都、徒、津などから取り入れられたようですが、梵字からではという気がします。「つ」は梵字の下の部分ですが、「う」の字も梵字の上部が点になったように思われます。「す」の字も下の方のくるっと回ったところなど似ています。
漢字は直線的であり、梵字は曲線的なようです。これを考えると
漢字→カタカナ
梵字→ひらがな
ということになります。無理を承知で言ってますが、部分的には梵字が仮名に取り入れらた可能性はゼロではなく、仏教を日本へ持ち込んだ時に、梵字の簡略化されたものが用いられたものの、日本では種子《しゅじ》として諸仏諸尊をあらわしており、神聖なものとして、利用が制限されてしまった可能性はあります(単なる想像です)。紀貫之の土佐日記も何かしらの制約があったのではと思います。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2018年10月26日金曜日
2018年10月25日木曜日
インダス文明の衰退原因について
環境人学と地域、インダス 南アジア基層世界を探る、長田俊樹編、京都大学出版会発行
を見ています。インドについて古い本を見ていると、かなりの認識の差があり判断をあやまる可能性があります。インダス文明とはインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および平行して流れる川のあたりに栄えた文明とされています。
タイトルの衰退原因ですが、
1.アーリア人侵入破壊節
2.メソポタミアの貿易停止説
3.社会的文化的変容説
4.森林破壊大洪水説
5.インダス川の河流変化説
6.インダス川自然ダム水没説
7.サラスヴァティー川消滅原因説
8.気候変動説
があげられています。
1の説には、イギリスの考古学者ウィーラーで、モヘンジョダロにおける虐殺跡とされる人骨の発見である。これと「リグ・ヴェーダ」の中の記述の「砦」などと結びついて生まれた説という。この説はa)アーリア人の侵入した年代とインダス文明の衰退した年代にはかなりの差があること、b)モヘンジョダロで発見された人骨は決して虐殺されたものではないこと。c)「リグ・ヴェーダ」は神話であり、これがどこまで史実を示しているかということがあるとのことである。
最終章においてもアーリア人侵入破壊説の否定が述べられている。この本は2013年に出版されたのであるが、2011年にもまだ旧態依然として訂正されていない穀物倉の写真があると書いてあり、一度定説化したインダス文明像を覆すのは大変であるとのことです。海上交通とインダス文明という章立てやネットワーク共同体としてのインダス文明なども述べられています。私の理解するところ、中央集権的な絶対王権の世界では無かったということだと思います。古代の日本も大和政権が絶対的なものではなかったと考えることに通じていくように思います。
を見ています。インドについて古い本を見ていると、かなりの認識の差があり判断をあやまる可能性があります。インダス文明とはインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および平行して流れる川のあたりに栄えた文明とされています。
タイトルの衰退原因ですが、
1.アーリア人侵入破壊節
2.メソポタミアの貿易停止説
3.社会的文化的変容説
4.森林破壊大洪水説
5.インダス川の河流変化説
6.インダス川自然ダム水没説
7.サラスヴァティー川消滅原因説
8.気候変動説
があげられています。
1の説には、イギリスの考古学者ウィーラーで、モヘンジョダロにおける虐殺跡とされる人骨の発見である。これと「リグ・ヴェーダ」の中の記述の「砦」などと結びついて生まれた説という。この説はa)アーリア人の侵入した年代とインダス文明の衰退した年代にはかなりの差があること、b)モヘンジョダロで発見された人骨は決して虐殺されたものではないこと。c)「リグ・ヴェーダ」は神話であり、これがどこまで史実を示しているかということがあるとのことである。
最終章においてもアーリア人侵入破壊説の否定が述べられている。この本は2013年に出版されたのであるが、2011年にもまだ旧態依然として訂正されていない穀物倉の写真があると書いてあり、一度定説化したインダス文明像を覆すのは大変であるとのことです。海上交通とインダス文明という章立てやネットワーク共同体としてのインダス文明なども述べられています。私の理解するところ、中央集権的な絶対王権の世界では無かったということだと思います。古代の日本も大和政権が絶対的なものではなかったと考えることに通じていくように思います。
2018年10月18日木曜日
都市国家
梵字入門(応用編)、松本俊影編、三密堂出版
この本の最初に梵字の歴史について記述されているところ丸写しです。
1,インドの変遷(梵字に関係ある部分のみ)
梵字の歴史を語るに先だって、インドの古代の様子を簡単にたどって置きたいと思う。インドの文明を建設した人種はアーリア民族であるが、この民族はもとからインドにいたわけではない。紀元前二五〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域には原住民による高度の都市文明が発達し、一種の象形文字もあった(但しこの文字は未だ解明されていない。)。この文明をインダス文明と呼ぶが、前二〇〇〇年頃、アーリア人が中央アジアのオクサス川流域方面からインダス川流域へ侵入して来て定住し、ドラヴィダ族等その地方の原住民を服属させて奴隷とした。こうしてインダス文明は破壊された。それ以後はアーリア人中心の文化に移る。始めアーリア人は半農半牧の民であったが、川の恵みによって農耕の生活に変わっていった。この頃、リグ・ヴェーダ(前一五〇〇~一〇〇〇)が成立。前一〇〇〇年頃、その勢力は東のガンジス川流域へと拡大していき、都市国家が成立。それにつれて部族長であるラージャの権力が増大し、インド人の間に階級が生じてきた。これをカースト制度という。その制度はバラモン(僧族)を最高身分として、次が軍事面の指導者である王や武士階級、第三が農工商を営む普通の人民で、これらの三階級はアーリア人であるが、最下位の奴隷はアーリア人以外の征服されたドラビタ族(*最初と表記が違っています。)等の人達で、 種々の賤業苦役に従事させられた。結婚、職業などにも強い制約をもった世襲の厳しい身分制度であった。こうした制度を認め、僧族偏重のバラモンの説く教に反抗の声があがるのは当然であって、その支配に反対する宗教革新運動を展開したのが仏教とジナ教であった。釈尊(前五六六~前四八五?)はこの時期に在って、人間の平等と八正道をおこなうことによって苦を解脱することが出来ると説き仏の慈悲を説いた。仏教が特に士族に支持されたのに対し、ジナ教は商人階級に支持をえた。・・・・以下略。
仏教の話も面白く、カースト制度が紀元前からというのは驚きですが、都市国家というのに興味が引かれます。初期には都市国家であるのは、ギリシャでアテネやスパルタがあったように、都市国家ができて文明が発達していくのが一般的ではないかと思われます。日本の場合も皇国史観にこだわりすぎていて、古い時代にすでに統一されていたような錯覚を持っていますが、少なくとも奈良時代より前は、日本でも都市国家のようなものがあって、ある程度文化的な面(祭祀儀礼など)では共通するところがあっても、ほかの面では、ばらばらであったと考える方が無理がないです。
追記:H30.10.24
この梵字入門の本は古いので、アーリア人が侵攻してきたことやカースト制度については現代では認識が違ってきているようです。
この本の最初に梵字の歴史について記述されているところ丸写しです。
1,インドの変遷(梵字に関係ある部分のみ)
梵字の歴史を語るに先だって、インドの古代の様子を簡単にたどって置きたいと思う。インドの文明を建設した人種はアーリア民族であるが、この民族はもとからインドにいたわけではない。紀元前二五〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域には原住民による高度の都市文明が発達し、一種の象形文字もあった(但しこの文字は未だ解明されていない。)。この文明をインダス文明と呼ぶが、前二〇〇〇年頃、アーリア人が中央アジアのオクサス川流域方面からインダス川流域へ侵入して来て定住し、ドラヴィダ族等その地方の原住民を服属させて奴隷とした。こうしてインダス文明は破壊された。それ以後はアーリア人中心の文化に移る。始めアーリア人は半農半牧の民であったが、川の恵みによって農耕の生活に変わっていった。この頃、リグ・ヴェーダ(前一五〇〇~一〇〇〇)が成立。前一〇〇〇年頃、その勢力は東のガンジス川流域へと拡大していき、都市国家が成立。それにつれて部族長であるラージャの権力が増大し、インド人の間に階級が生じてきた。これをカースト制度という。その制度はバラモン(僧族)を最高身分として、次が軍事面の指導者である王や武士階級、第三が農工商を営む普通の人民で、これらの三階級はアーリア人であるが、最下位の奴隷はアーリア人以外の征服されたドラビタ族(*最初と表記が違っています。)等の人達で、 種々の賤業苦役に従事させられた。結婚、職業などにも強い制約をもった世襲の厳しい身分制度であった。こうした制度を認め、僧族偏重のバラモンの説く教に反抗の声があがるのは当然であって、その支配に反対する宗教革新運動を展開したのが仏教とジナ教であった。釈尊(前五六六~前四八五?)はこの時期に在って、人間の平等と八正道をおこなうことによって苦を解脱することが出来ると説き仏の慈悲を説いた。仏教が特に士族に支持されたのに対し、ジナ教は商人階級に支持をえた。・・・・以下略。
仏教の話も面白く、カースト制度が紀元前からというのは驚きですが、都市国家というのに興味が引かれます。初期には都市国家であるのは、ギリシャでアテネやスパルタがあったように、都市国家ができて文明が発達していくのが一般的ではないかと思われます。日本の場合も皇国史観にこだわりすぎていて、古い時代にすでに統一されていたような錯覚を持っていますが、少なくとも奈良時代より前は、日本でも都市国家のようなものがあって、ある程度文化的な面(祭祀儀礼など)では共通するところがあっても、ほかの面では、ばらばらであったと考える方が無理がないです。
追記:H30.10.24
この梵字入門の本は古いので、アーリア人が侵攻してきたことやカースト制度については現代では認識が違ってきているようです。
2018年10月17日水曜日
鴨稲荷山古墳の石棺
近江、石の文化財、瀬川欽一著、サンライズ出版
を図書館から借りてパラパラと読みました。石造物について丁寧に書かれいて勉強になりそううです。その中で、
近江に各地から持ち込まれた石材として
笏谷石(越前凝灰岩)や和泉石(阪南市にある葛城山系の砂岩)などが入って来ているようです。和泉石は安土桃山時代を迎えた頃より、淀川水系を舟で琵琶湖に大量に運び込まれて湖岸地方を中心に、これ以降の供養塔となる一石五輪塔として近江の墓石の大半を占めていくようになります。・・・石棺の項で
滋賀県で最も有名なのは、高島町大字鴨にある稲荷山古墳の石棺で、大和時代の継体天皇の父にああたる彦牛王の墓という伝説があります。この石棺は、家形石棺といって、石室は近江では出ていない白色凝灰岩が使われていて、大和の国の二上山山麓から近江までわざわざ運ばれています。たぶん水運によって運ばれたものと思われますが、伝説として残る6世紀前半の彦牛王の湖西における権力の偉大さと、政治的な大和朝廷との結びつきの強固さをうかがうことができます。
もとの古墳は全長45メートルの前方後円墳で、石棺の長さは2.3メートル、幅1メートル30センチ。棺外と棺内のそれぞれにあった豪華な副葬品が、古代朝鮮半島の新羅国にある墳陵の副葬品と似ていることから、近江に特徴的な渡来人の文化を示す例でもあります。
とあります。
伝説的な話はおいといて、陸路を二上山から運んできたとは思われません。湖上のルートが古い時代から確立していて、それが継続していたように思われます。
を図書館から借りてパラパラと読みました。石造物について丁寧に書かれいて勉強になりそううです。その中で、
近江に各地から持ち込まれた石材として
笏谷石(越前凝灰岩)や和泉石(阪南市にある葛城山系の砂岩)などが入って来ているようです。和泉石は安土桃山時代を迎えた頃より、淀川水系を舟で琵琶湖に大量に運び込まれて湖岸地方を中心に、これ以降の供養塔となる一石五輪塔として近江の墓石の大半を占めていくようになります。・・・石棺の項で
滋賀県で最も有名なのは、高島町大字鴨にある稲荷山古墳の石棺で、大和時代の継体天皇の父にああたる彦牛王の墓という伝説があります。この石棺は、家形石棺といって、石室は近江では出ていない白色凝灰岩が使われていて、大和の国の二上山山麓から近江までわざわざ運ばれています。たぶん水運によって運ばれたものと思われますが、伝説として残る6世紀前半の彦牛王の湖西における権力の偉大さと、政治的な大和朝廷との結びつきの強固さをうかがうことができます。
もとの古墳は全長45メートルの前方後円墳で、石棺の長さは2.3メートル、幅1メートル30センチ。棺外と棺内のそれぞれにあった豪華な副葬品が、古代朝鮮半島の新羅国にある墳陵の副葬品と似ていることから、近江に特徴的な渡来人の文化を示す例でもあります。
とあります。
伝説的な話はおいといて、陸路を二上山から運んできたとは思われません。湖上のルートが古い時代から確立していて、それが継続していたように思われます。
2018年10月14日日曜日
芦浦観音寺と秀吉の朝鮮出兵
芦浦観音寺は滋賀県草津市北部の芦浦町にあります。国会図書館のデジタルライブラリーで「近江:歴史と文化」川勝政太郎著の中に載っていました。
秀吉の時代に船奉行を命ぜられ、琵琶湖の水運を一括差配するようになったということです。この本には
近世の琵琶湖の湖上通行の実権を握っていたことは有名だが、湖上通行の許可と通交税の徴収によって大きい権力と経済力を持ったのである。叡山焼打ちのあと、坂本にいた西川氏出身の詮舜《せんしゅん》は観音寺に入り、秀吉の征韓の軍に、琵琶湖の水手《かこ》200人を集めて水軍を組んで参加した・・・
とあります。
秀吉の時代であっても、対外的には琵琶湖の水運に利用価値があったということだろうと思います。遣隋使や遣唐使の時代であればなおさら琵琶湖の水運の利用が重要であったと思います。
芦浦観音寺のpdf
追記:H30.10.29
船奉行は12名いたと何かに書いていました。それほど有力では無かったかもしれません。
秀吉の時代に船奉行を命ぜられ、琵琶湖の水運を一括差配するようになったということです。この本には
近世の琵琶湖の湖上通行の実権を握っていたことは有名だが、湖上通行の許可と通交税の徴収によって大きい権力と経済力を持ったのである。叡山焼打ちのあと、坂本にいた西川氏出身の詮舜《せんしゅん》は観音寺に入り、秀吉の征韓の軍に、琵琶湖の水手《かこ》200人を集めて水軍を組んで参加した・・・
とあります。
秀吉の時代であっても、対外的には琵琶湖の水運に利用価値があったということだろうと思います。遣隋使や遣唐使の時代であればなおさら琵琶湖の水運の利用が重要であったと思います。
芦浦観音寺のpdf
追記:H30.10.29
船奉行は12名いたと何かに書いていました。それほど有力では無かったかもしれません。
2018年9月30日日曜日
犬上御田鍬
遣隋使では犬上御田鍬という人がいます。御田鍬は田を鋤くということで、牛馬を使ったハイテクなイメージを持ちますが、こちらは置いといて、犬上の方です。犬上氏は古代豪族で、本拠は近江国犬上郡です。現在の滋賀県東北部の地名です。犬上氏は八世紀以降は衰えた。とのことです。日本海側からやってきた渡来系の人に思われます。遣隋使は瀬戸内海を航行するので、どうしてこの地域の人が選ばれたのか不思議です。小野妹子との繋がりを考えました。小野氏は琵琶湖の南、犬上氏は琵琶湖の北です。おそらく琵琶湖岸を陸路でつながっていたのでは無く、湖上を船で行き来していたと思います。ある程度はなれた地域の運航で、造船や操船の技術に長けていたはずです。遣隋使も海外ですので船の技術が必要で、それに犬上氏や小野氏などの古代豪族が対応できたのではと思いました。つまり遣隋使の主となる人は、通訳的な人ではなく、船の技術を持っていた人達ではないかと思いました。犬上氏などは中国に行くとしたら日本海側からの方が便利のはずで、船の問題が無ければ選ばれなかったような気がしてきました。
2018年9月29日土曜日
小野神社
小野神社は、各地にありますが、ここでは滋賀県大津市小野にある神社です。境内社 として小野篁神社がありますが、一見こちらがメインに思われます。向かって左手に本社というか本殿があります。祭神の米餅搗大使主命は日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けているそうです。社殿前には狛犬の代わりに石の鏡餅が左右に飾られていて、そうかと思います。この地は昔の小野一族の本拠地で、地名や名字などの小野の発生地と案内板に書かれていました(注1)。近くに古墳群があり、少し離れたところにある小野妹子神社には唐臼山(カラウスヤマ)と称する古墳があったとされ、全然でたらめの話には思われません(注2)。現在の社殿は新しそうですが、建物の外に柱が据えられ、これが棟持ち柱に見えるので、神明造でした。私は伊勢神宮だけ神明造があるものと思い込んでいたのでびっくりしましたがそれほど珍しいことはなさそうです。ウィキペディアでは、明治時代になり伊勢神宮をまねたものがあるそうです。伊勢神宮の独占ではなさそうですが、この辺は私には良くわかりません(注3)。小野神社は目立ちたくないのかひっそりとある感じです。一方、小野篁が神社の社格をあげるなど貢献があったことで、篁神社が中心になったのかなとは思います。この小野篁神社の本殿は、古い趣があります。南北朝前期とされ、重要文化財になっています。横から見ると流れ造りで正面三間(柱の間隔が三個)すが、お参りする向拝の部分が一間になっているのはこの地方の特徴だそうです。この地域の大工が主となって建てるので、ほかの地方から応援を頼んだとしても、地方性が出てくるのだと思います。小野道風神社も同じ形式のようです。カエルと柳の木がありました。この話もすっかり忘れていました。案内板とか良く読まないと意味わからない人が多いとは思います。遣隋使の小野妹子が実際にどこの人かは不明ですが、それらしき人がこの地に関係していたかもしれません。大津の地が琵琶湖の西と東をつなぐ結束点にあったことは確かで、日本海側からやってきた渡来人が住み着いた場所にはなると思います。小野妹子がこの地で無くても大問題にはならないとは思います。
注1:国史大辞典で「小野」の項を見ると
1.兵庫県の中西部に位置する市。加古川の中流で明石・西沿いに通じる街道沿いの要地。青野原鶴池で旧石器時代の石片が発見されたほか、粟生・新部のなどの弥生遺跡、王塚・大塚などの古墳や焼山ほかの郡集積など、考古的遺跡・遺物が多い・・・・
2.京都府の古地名。「和名類衆抄」によると、山城国には愛宕郡小野郷(京都府左京区修学院北方の地域)、宇治郡小野郷(京都市山科区小野)の2ヵ所があって、丹後国には竹野郡小野郷(現在地は不明)がある。・・・
3.滋賀県滋賀郡志賀町の地名(現大津市)。西近江路沿いで琵琶湖西端に位置し、近淡海国造の根拠地、古代の小野氏の出身地と推定される。小野妹子墓と伝承を有する唐臼山古墳をはじめ、小野神社古墳群、石釜古墳群、道風神社古墳群・大塚山古墳群などが集中しているが、それらの築造年代は不詳である。弘仁ごろには小野氏宗族は小野を離れ、京師に止住したものと思われる。・・・
とあります。
注2:小野妹子は不明ですが、その子の小野毛人《おののえみし》の墓誌が山城国愛宕郡の墓から出てきたそうです。小野毛人墓誌(国宝?のちの奈良時代に作られたらしいです)。
小野小町の出生地や墓は全国に多数あり、国史大辞典では、小野氏は、神職として全国に広がっている家柄で、社寺の縁起とも関わり深い。小町伝説の展開にも、小野氏が大きな役割を演じていたのではないかと考えられる。と書いてあります。
また、「滋賀県の歴史散歩(下)」唐臼山古墳について1734年(享保19)の「近江輿地史略、滋賀郡小野村」の項には「妹子の旧跡知る者なし」とあり、1882年(明治15)の「近江国滋賀郡小野村誌」にも、唐臼山古墳に関する所伝は見えない。大正時代になってから、小野妹子の墓との見解が生まれたとのことです。この古墳から七世紀前半の頃の須恵器が発見されたことから、小野妹子神社が創祀されたと書いてました。
注3:「復元思想の社会史」、鈴木博之編、建築史料研究社という本に、熱田神宮のことが書かれています。元々尾張造だったのが、明治になり神明造に変更しようとして、明治22年に伊勢神宮のコピーを考えていたようです。伊勢神宮の知るところとなり、反発があったようで、明治24年には改造一部変更案で双方受け入れ、明治26年、熱田神宮は伊勢神宮を模した改造を行ったとのことです。この本に伊勢神宮と熱田神宮の図面があり、小さいですが同じように見えました。現在の熱田神宮は戦災で焼失し、式年造替後の古い内宮正殿を移築した物であると書いています(この本は2006年発行)。伊勢神宮は「唯一神明造」とされますが、伊勢神宮の差別化を図るために皇国史観の時代、建築史家の伊藤忠太の唱えたもののように書いています。
注1:国史大辞典で「小野」の項を見ると
1.兵庫県の中西部に位置する市。加古川の中流で明石・西沿いに通じる街道沿いの要地。青野原鶴池で旧石器時代の石片が発見されたほか、粟生・新部のなどの弥生遺跡、王塚・大塚などの古墳や焼山ほかの郡集積など、考古的遺跡・遺物が多い・・・・
2.京都府の古地名。「和名類衆抄」によると、山城国には愛宕郡小野郷(京都府左京区修学院北方の地域)、宇治郡小野郷(京都市山科区小野)の2ヵ所があって、丹後国には竹野郡小野郷(現在地は不明)がある。・・・
3.滋賀県滋賀郡志賀町の地名(現大津市)。西近江路沿いで琵琶湖西端に位置し、近淡海国造の根拠地、古代の小野氏の出身地と推定される。小野妹子墓と伝承を有する唐臼山古墳をはじめ、小野神社古墳群、石釜古墳群、道風神社古墳群・大塚山古墳群などが集中しているが、それらの築造年代は不詳である。弘仁ごろには小野氏宗族は小野を離れ、京師に止住したものと思われる。・・・
とあります。
注2:小野妹子は不明ですが、その子の小野毛人《おののえみし》の墓誌が山城国愛宕郡の墓から出てきたそうです。小野毛人墓誌(国宝?のちの奈良時代に作られたらしいです)。
小野小町の出生地や墓は全国に多数あり、国史大辞典では、小野氏は、神職として全国に広がっている家柄で、社寺の縁起とも関わり深い。小町伝説の展開にも、小野氏が大きな役割を演じていたのではないかと考えられる。と書いてあります。
また、「滋賀県の歴史散歩(下)」唐臼山古墳について1734年(享保19)の「近江輿地史略、滋賀郡小野村」の項には「妹子の旧跡知る者なし」とあり、1882年(明治15)の「近江国滋賀郡小野村誌」にも、唐臼山古墳に関する所伝は見えない。大正時代になってから、小野妹子の墓との見解が生まれたとのことです。この古墳から七世紀前半の頃の須恵器が発見されたことから、小野妹子神社が創祀されたと書いてました。
注3:「復元思想の社会史」、鈴木博之編、建築史料研究社という本に、熱田神宮のことが書かれています。元々尾張造だったのが、明治になり神明造に変更しようとして、明治22年に伊勢神宮のコピーを考えていたようです。伊勢神宮の知るところとなり、反発があったようで、明治24年には改造一部変更案で双方受け入れ、明治26年、熱田神宮は伊勢神宮を模した改造を行ったとのことです。この本に伊勢神宮と熱田神宮の図面があり、小さいですが同じように見えました。現在の熱田神宮は戦災で焼失し、式年造替後の古い内宮正殿を移築した物であると書いています(この本は2006年発行)。伊勢神宮は「唯一神明造」とされますが、伊勢神宮の差別化を図るために皇国史観の時代、建築史家の伊藤忠太の唱えたもののように書いています。
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