2017年11月30日木曜日

志賀の大仏《しがのおおぼとけ》

 崇福寺跡に向かう途中にあります。元の山中越え(志賀の山越)で、大津の入り口に位置するこの場所と対で京都の北白川に石仏があるそうです。この石仏は、高さ3.1メートル、頭部は耳も彫り出された厚肉彫りの阿弥陀如来像です。十三世紀頃に作られたと説明板にありました。しばらく道を進むと、切通しのようなところがありました。鎌倉七口といわれる切通しがどんなものかわかりませんが、鎌倉時代の痕跡のように思えてきました。鎌倉の玄関にある長谷の大仏のミニチュア版のように見えないこともありません。承久の乱(一二二一年)のあと、朝廷の監視のために六波羅探題がおかれますが、京都にダイレクトに入るための道として、このころに整備されたのではと妄想します。

石像阿弥陀如来座像

このような場所はどこにでもあるのかもしれませんが。



2017年11月29日水曜日

国宝 六道絵 滋賀・聖衆来迎寺

 国宝がブームのようで、最近良くテレビとかで放送されます。タイトルのは滋賀・聖衆来迎寺のものです。
   京都国立博物館、開館120周年記念 特別展覧会 国宝
   2017年10月 3日 ~ 2017年11月26日
で展示されていました。
 この聖衆来迎寺は、織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちの時に、延暦寺の念仏道場であったのにもかかわらず、除外され、その結果、多くの文化財が残った。その一つが鎌倉期とされる国宝のようです。除外された理由ですが、森蘭丸の父の墓がこの寺にあったためとの説があるそうです。蘭丸の父、森可成《もり よしなり》は、信長の命で、宇佐山に城を作り、現在は宇佐山城跡(志賀城跡)となっています。姉川の戦い(一五七〇年)で、信長が苦戦し、京都に退却した時に、森可成は坂本(現大津市坂本)で戦死、浅井・朝倉軍は宇佐山城に迫ったが、出城《でじろ》(端城《はじょう》)で、武藤五郎右衛門《むとう ごろうえもん》らによって、くいとめられたとのことです。その後、優勢となった信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山延暦寺の焼き討ちを、宇佐山城を拠点として行ったと伝えられる。とのことです。
 引用は、滋賀県の歴史散歩(上)大津・湖南・甲賀、山川出版社。
 国宝として残るには見えない歴史があるんだと、引用の本を見ていて思いました。わかりきったことかもしれませんが、メモ書きです。

追記
上記の本と内容が少し違う本を見つけました。私の読み違いかもしれません。
戦争の日本史13
信長の天下布武への道、谷口克広著、吉川弘文館
この巻末の略年表からの抜粋したものを以下に示します。森可成の部分を追加しています。


2017年11月28日火曜日

崇福寺跡(天智天皇関連)

 大津宮遷都翌年の六六八年(天智天皇七年)に、天智天皇の命により建立したとされる。扶桑略記に、大津宮の乾(西北)とあることから、この寺院から大津宮の位置を特定するために探索されたとのことである。現在、この地に確定している。尾根を削り、伽藍が建てられ、三カ所に分かれている。北側の尾根が弥勒堂跡、中ほどが小金堂、講堂、三重塔の中心部で、塔心礎から発見された舎利容器等は国宝となっている。南尾根には金堂跡とされるところに崇福寺旧址の石碑がある。こちらは、延暦五年(七八六)に桓武天皇が天智天皇の追悼のために建立した梵釈寺跡と推定されている。崇福寺は延暦年間に十大寺に選ばれ栄えたとのことであるが、桓武天皇のバックアップとしか思えず、室町時代には廃寺となったとのことである。桓武天皇が、天智天皇の後継であることを強く意識していたのであろうと思われる(桓武天皇行幸を参照)。崇福寺は尾根が南北に位置していて、おそらく東側の琵琶湖から眺めることができたと思われる。四天王寺が海側から見て伽藍配置が一直線上にあるのを思い出す。琵琶湖の対岸の石山の方に国府が推定されていて、ここからかっての近江朝廷を感じることができる景観を作っていたと思う。このこだわりから天智・天武の対立が強かったことを示しているのかもしれない。

 あまり関係ないですが、崇福寺跡の紅葉。


桓武天皇行幸
以下、滋賀県百科事典、一八七頁の引用である。
 奈良時代の天皇が天武天皇系であったのにたいし、光仁天皇・桓武天皇など奈良末・平安時代の天皇は天智天皇系であり、このことが桓武朝において、近江国への特別な対応が見られることになる。梵釈寺の建立や古津から大津への改称などはその例であるが、桓武天皇の近江行幸もその現われとみることができる。八〇一年(延暦二〇)、八〇三年(延暦二二)、八〇四年(延暦二三)と晩年には連続して近江への行幸を行っているが、とくに八〇三年には、三月・四月・閏一〇月と三度も行幸している。三月・四月は可楽崎(唐崎)であり、閏一〇月は蒲生野である。蒲生野の行宮では「山々も麗しく野も平くして、心も穏やかである」と詔している。おそらく天智天皇の蒲生行幸とのかかわりがあってのことであろう。

2017年11月26日日曜日

名字と方言の分布の違いの説明図

 今までの記事を私のイメージで模式図にまとめました。
 古墳時代の長方形は、日本を表していて、何らかの状態があったと思いますが、白紙の状態です。次に律令制が近畿地方を中心に始まったのが二段目です。ブルーがその地域です。西日本に発生したと考えています。次が律令制が失敗し、農民の逃亡などで、拡散する状態を示しています。この時に日本語の基本的な西日本の方言の分布になったことを示しています。


2017年11月23日木曜日

林・小林仮説

 小林がどうして生まれたかの仮説です。近くに小さい林があって、小林の名字を取り入れたというものではありません。大まかな流れです。おかしなところも多々あると思います。
一,律令制度開始により、林という名字が使われるようになった。
    考えているのは越前。越中など、富山県・石川県・福井県あたり。
  参考 名字:林と小林

二,すぐに口分田の不足とか、律令制の問題が起こった。

三,対策として三世一身法(七二三)、墾田永年私財法(七四三)が出される。
  これは、開墾した者にはその世代から三世代、そして永久に所有を認めるもので、開発主体は上級貴族・大寺院とのことです。律令制下、過剰な負担に耐えかねて、浮浪や逃亡が多かったようです。

四,越前、越中、加賀の地域で、寺社や上流貴族の新田開発計画に乗ったか乗せられたかして、林グループが信濃へ集団移住、さらに甲斐国にも進出。国司の制度とか甲斐国にも遅れて出来た。

五,この地域で、心機一転、名字を林の子孫の意味の小林として土着した。
 西日本から多数の人間が山梨県に移ったことになり、西日本風の方言を当然のごとく使った。それが、現在まで、名字や言葉に残っているのが甲斐国、山梨県でしょう。
 これが、荘園になっていくのですが、鎌倉時代以降に武士の時代になり、土地の所有者が変わってしまい、わからなくなったとは思われます。しかし日本史総覧#の主要荘園一覧に、甲斐国では京都の寺社とか出てきているように思えます。東大寺とか出てきておれば確実だと思いますが、残念なところです。
 正倉院展で、何かしら毎年展示されているようです。今年は、国司と東大寺の間で領地の争いがあった例##が展示されてました。土地が深刻な問題であったと想像されます。おそらく逃亡したとされる農民なども計画的に移住して開墾していった地域と、渡来人の移住した地域では、違いが出てくるのだと思われます。甲斐国では逃亡や浮浪の農民が、多数、移住していって、影響を受けるのではなく与えたと思われます。日本史通覧###には、正倉院文書の例として山城国で、四十一人中二十一人が近江や筑紫へ浮浪逃亡しているとあります。この時代、民族の大移動に近いことであったのかもしれません。西日本でも未開発の所に広がっていったのかもしれません。

#日本史総覧
 日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
##第六九回正倉院展図録
###図説、日本史通覧六九頁、帝国書院

2017年11月22日水曜日

山梨県の名字とハ行転呼音現象

 山梨県の名字を調べようと思い、図書館で
   県別名字ランキング事典、森岡浩著、東京堂出版、2009年10月印刷発行
を、借りてきました。山梨県のところを見ると、渡辺が一位で、二位が小林です。渡辺は富士吉田市に特に多いということです。富士吉田市は山梨県の東南に位置し、富士山の近くで、農耕に名は向かない土地のようで、渡辺はもう少し後の時代であろうと思われます。小林は全県に分布するようです。隣の長野県を見ると小林がトップで、二位の田中に二倍以上の差があるそうです。長野県から小林が伝播したことを想像させます。
 また山梨県に戻りますが、他県ではあまり多くない名字が多く見られるのが特徴とのことです。読み方についてのところ、驚きました。第六〇位の藤原です。これを普通はフジワラと読みますが、山梨の電話帳では八六パーセントがフジハラと登録されているそうです。藤原だけでなく、梶原の七一パーセント、萩原の七九パーセントがハラの方とのことです。「今日は」は発音ではコンニチワです。このハ行音がワ行音に変わるのが、ハ行転呼音現象というそうで、西暦一〇〇〇年頃からとのことです。(ここは、図説 日本語の歴史、今野真二著、河出書房新社、六五頁より)。つまり平安時代以前の状態がこの地に残っていると言うことです。甲斐の国司の初見が天平三年(七三一)と遅いこととの関係があると思われます。律令制が始まってから、小林グループが山梨県へやってきたことを暗示します。
 ついでに、ランキング事典で、林の多い地域をメモっておきます。各県で一〇位以内です。富山県二位、石川県六位、岐阜県四位、滋賀県九位、京都府九位、和歌山県六位、山口県七位、徳島県七位、です。メジャーな名字なので、かなり広がっています。期待の福井県は一三位でした。

2017年11月21日火曜日

上野・下野と甲斐の時代順

 甲斐の方が先で、その後に上野・下野だと言ってましたが、違うかもしれません。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_18.html

日本史総覧の国司の所見順を見ると、上野・下野が和銅元年(七〇三)に対して、甲斐は天平三年(七三一)で遅いです。律令制としての始まりは三〇年ほど違います。近江国でも近江朝廷があったので、国司の初出が早いように思いましたが、和銅元年です。ばらつ愛きがあるのかもしれません。信濃も和銅元年ですので、信濃→上野・下野のコースがあり、甲斐からのコースが関係が薄いように思われて来ました。
 名字の各県別のデータを思い出して見ました。各県と周囲の県との名字で関係がどの程度あるかを見てます。山梨県は少し変わっていました。群馬県も見ましたが、どちらも奈良県とは薄い関係のようなので、奈良時代にこだわるものではないと思われます。
 山梨県が、福井県→岐阜県→長野県や三重県→静岡県と結びついていることがわかり、西の方との関係が強そうなことは図で出ているようです。岡山県も関係ありそうです。この辺は誤差かもしれません。謎は残ったままです。



 群馬県の図からは、茨城県の方とのつながりもあり、西は長野県の方ともつながりがあるようですが、山梨県・静岡県の方はそれほどでもないことはわかります。
 所見年代は国司一覧より。このような本があることを知りませんでした。
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行