七五調の起源
短歌の形式では、五七五七七と句を連ね、三十一字でつづります。 七音と五音が、どうして出来たかが謎でした。和歌というのが「やまとうた」と言われ、古来よりあったとされますが本当だろうかと思います。 音楽では二拍子は行進曲にあり、左右の足の動きと連動しています。三拍子はダンスで三角形のステップのようなイメージです。四拍子は四角形の移動のイメージです。多分、違うと思いますが、踊りに合わせた拍子は間違いないと思います。五と七ですが、3+2とか3+4とかの変拍子的なイメージになり、直感的ではありません。
謡曲では、一区切りを一六分割して、四拍の四倍にします。16分割の中で、7+5=12として使用し、残り4個は音を伸ばしたり、休止符的な使い方をするようです。仕方なくしてるようで変則的です。
五と七に結びつくものは何だろうと疑問に思っていました。
漢詩に五言絶句とか七言絶句とかあります。この数字と関係あるのかなと少し気になってましたが、そのことを書いている本を見つけました。 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)です。
52頁に、「漢詩はかっこいい!」として、
我が国で『古事記』や』『日本書紀』が書かれていた時代、東アジア世界の中心は中国であった。
国家としての独立性や威厳を誇示するには、中国に対してその力を見せつけねばならない。しかし、それを見せようとする時、まず必要なのは言語の力であった。当時すでに二千年以上の歴史を有して、非常に高度な文学理論などさえ生み出していた中国に対して、漢字を借りてようやく歴史や文字の表記方法を芽生えさせていた日本は、いまだ中国からの影響を逃れることができなかった。
奈良時代から「国風暗黒時代」と呼ばれる平安時代初期まで、我が国のエリートたちは、漢詩や漢文の素養を身につけ、そして中国人に評価される作品を書くことに熱中した。
そうすることが、日本の国力を中国に見せつけることになるからである。 ーーー以下、阿倍仲麻呂の例とか省略
和歌を書く伝統とは別に、漢詩を書くことは、当時、最も重要な才能であったのである。
続いて、「漢詩に見せかける技」として
さて、漢詩には、漢魏六朝の時代までに作られた古体詩と呼ばれるものと、唐代初期に完成された近体詩と呼ばれるものがある。
古体詩は、「四言古詩」「五言古詩」「七言古詩」に分類され、それぞれ一句の字数が四,五、七で書かれているというだけで、平仄《ひょうそく》や韻律に規則がない。
これに対して、近体詩は「五言絶句」「五言律詩」「五言排律」「七言絶句」「七言律詩」「七言排律」とあって、それぞれ一句を五字にするものと七字にするもの、また絶句は四句、律詩は八句、排律は十句以上の偶数句で構成され、句法や平仄、韻律には厳格なルールがある。
ーーー阿倍仲麻呂の漢詩については省略。
南朝宋の鮑照の古体詩の例があり、五七五七五七七七の形であって、これを速須佐之男命の歌と比較しています。こちらは五七五七七です。
このように並べてみると、一見、まるで漢詩のように見えるのではないだろうか。<ひらがな>も<カタカナ>もなかった奈良時代、日本語は漢字で書くより他に方法はなかった。しかし、五七の調べで書かれた和歌の音を一つずつ漢字で当てて書く万葉仮名の歌は、実は、まるで漢詩を書いているように見せかける技でもあったのだ。
中国語は、単音節のイメージです。漢詩とは親和性が高かったので漢詩に、日本語の音を当てはめ、取り込まれて和歌が成立したように思えます。