あくまで個人的な理解です。
古墳時代は、吉備か畿内かの地域で始まったと思います。鉄器など用い、ある程度の規模の水田が開発され、生産力拡大により、大きな集団がまず成立しました。生産余力があるので、近辺も開発され、水田の造成しやすい所に拡張されていきます。おそらく、ある程度の人手を集中して棚田などが開発されていき、稲の生産が順調井なれば、また遠いところへと延伸していき、地理的条件の良いところ(扇状地の根元などか)ではより大きな水田が開発されていったと考えられます。生産力の大きいところでは、開発のリーダーである首長が死ねば、祀るか業績を顕彰することで大きなお墓が作られたと思います。それが前方後円墳にあたるもので、巨大な労力を要し、人力だけでなく、馬などの家畜を利用し、おそらく棚田が開発されていたと思われるので、階段状の棚田をイメージし、技術的には吉備か畿内の技術的な支援を得て造成されたと想像します。その時には、各地域の棚田が村として成立し、ネットワークが完成し(石棺などの大きな物も運送できるネットワークになっていた?)、人の移動が容易になっていたと思われます。これは空海が高野山と京都を移動するのに、観心寺・大和飛鳥の川原寺(弘福寺)・東大寺・東寺と中継ポイントを作って、食料と宿の確保を容易にしたことから、類推されます(観心寺の出来た理由)。棚田の生産性が低くてもネットワークの維持ということで、違う価値観で棚田が存在できたとも考えられます。古墳時代の画期は、馬を利用することで人力から棚田開発のレベルを上げたというイノベーションにあると思えます。牛馬による開発と思っていましたが、牛については骨などが発掘されていないようで、いつ頃に導入されたか不明ですが、馬については馬具が古墳で見つかるので確実であろうと思われます(1より)。
時代的にはいつかわかりませんが、鉄器の存在も大きいと思われます。今でも包丁を使っていると切れ味が悪くなってきます。研ぐことになりますが、古い時代に良い砥石がなかったのではと思います。鉄器をメンテするには、焼鈍しでまず軟らかくして、刃の修正を行い、そのままでは長く使用できませんので、焼入れで硬くして使用します。熱処理をして修正しながらでないと継続的に使用できません。鉄器の利用し続けるには職人的な人を必要とします。最初は商業ベースの鍛冶屋さんはいませんので国家的な集団の中で確保しなければならなかったと思います。古墳時代には鉄器の継続使用のシステムが完成していたと思われます。
またネットワークの発達で、人の移動が活発になり、言語的には日本語の元となったアイヌ語の古い時代のものが広い地域に成立したことも想像させます。ついでですが、古墳時代からその後の条里制の律令制の時代への変化ですが、文字の導入がイノベーションになったかもしれません。(農地開発の何らかの技術革新が何かあったはずです)。渡来人が文字を持ち込み、人数的には比率は小さかったものの影響力は大きくて、アイヌ語の祖先と朝鮮語の祖先の言語が衝突して日本語の最初のものができたと考えます。条里制の時代に牛が導入されたことが画期となった可能性もあります。後の「東日本の馬、西日本の牛」ということにつながっているかもしれません。平安時代には牛車であって、馬車ではありません。どうも農村には牛がいるイメージが私には強くあります。午の字を「うま」と理解しますが牛から角をとったことからと聞いたことがあります。昔、うま小屋と聞いて、馬がいるのかと思ったのが、実際は牛であったことがありました。牛と馬が同じようなものと考えられていたのか、それとも最初は馬だったのが、後に牛に変化したからかもと考えられますが、千数百年前に遡る話になるのかとも思います。まだまだ大雑把で、多分あちこちに間違いがあるはずですが、現在の古墳時代のイメージです。
1.列島の考古学 古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社
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