古墳時代の生産と流通、和田晴吾著、吉川弘文館発行
この本に阿蘇ピンク石が載っています。その少し前からの抜き書きです。
古墳時代後期のところから
①古墳秩序の変化
古墳時代後期(五世紀後葉~六世紀後葉)に入ると、古墳の築造状況に大きな変化が現れた。中期に偉容を誇った大型前方後円墳やその古墳群が急速に衰退・消滅する一方で、新たな墓域に中小の前方後円墳が築かれだすとともに、これまで首長の下にあって、弥生以来の伝統的な墓制(方形周溝墓や方形台状墓。一部に円形)を採用してきた共同体上層部の墓が一斉に円墳化するのである。群集墳と呼ばれる小型の円墳群が広汎に出現したのである。中略。五世紀末から六世紀初頭ごろを中心に、王権は大きく動揺し混乱したのである。この状況が克服され、中央集権的体制づくりが本格化しだすのは、後期中葉後半(六世紀第2四半期)からのことである。(和田二〇〇四)
②埋葬施設と棺の変化
ところで、この変革期には、古墳の埋葬施設関係にも大きな変化が起こった。前期以来の長大な竪穴式石槨や粘土槨が衰退し、中期を代表した長持形石棺が消滅する一方で、畿内でも新たに伝わった横穴式石室が定着し、内部に家形石棺という新形式の棺を配置する墓制が生み出されたのである。
(2)阿蘇ピンク石製石棺
まず石棺では、阿蘇ピンク石製石棺が作り出された。阿蘇石といえば、これまでは灰石が用いられてきたが、この時期には熊本県宇土市産するピンク石(地元では馬門石と呼ぶ)が開発され、刳抜式石棺が作られた(渡辺ほか一九八九)。最初は舟形石棺として作られ、竪穴式石槨の中に納められたが、まもなく新来の横穴式石室に納められるようになると、石室の平らな床にあわせて棺の底が平面化するととみに、すべての稜線が直線化した。この形態が家形石棺である。
この石棺の最大の特徴は、その分布にあり、製品が地元に一例もないのに対し、舟形石棺は奈良県東部に四ないしは五例、大阪府の古市古墳群に二例、岡山県に一例、家形石棺は奈良県に二例(一例は後期後葉)、滋賀県に三例(一例は推定)も出土しているのである。石材産地は九州であるが、突起をはじめとする蓋の形式は畿内的で、使用地も畿内であることから判断すれば、この石棺は、畿内の意図のもとに九州で作られ、畿内まではこばれたと考えられる。竜山石を利用できない、奈良県東部を中心とする畿内の一部勢力が、石材を九州に求め、長持形石棺とは異なる独自の型式の舟形石棺・家形石棺を作り出した可能性が高い。この時期、畿内の一部勢力はそれだけ九州の有明海沿岸勢力と強いつながりをもったのである。しかし、王権が安定し、竜山石が再び利用されだし、新たに二上山白石の開発が始まると、阿蘇ピンク石製石棺は衰退する。ただ、この石棺の下で生まれた家形石棺の型式は、後の畿内的家形石棺の基本形となった。
とあります。この本の少し前のところに、古墳時代の前期のところで、石棺が遠くから運ばれるのには、石棺の被葬者がその製作地の一族または近い関係の人でなかったかということが述べられています。つまり阿蘇のピンク石製石棺の被葬者は阿蘇の出身の人ではないかということです。阿蘇からこれらの地域に移住した人は遣隋使の前の頃と考えると、阿蘇山の噴火で避難した人たちに思えてきます。このあたり妄想になります。吉備の地区の「あそ」だけでなく、各地に移住したと考えられます。阿蘇から移住し、のたれ死にした人は痕跡は残りにくいですが、功成り名を遂げた人はお墓が出来ます。生まれ育ったところに埋葬されるのが理想ですが、その子の二世の代では墓参りが大変で何とかしたいと思うでしょう。阿蘇山を持ってくるわけにはいかないので、その一部の阿蘇のピンク石製石棺を持ってきて、埋葬する事で我慢してもらおうということです。三世の時代になると、そこまでの思いがなくなり、大変な労力を要するので、近くの竜山石で良いだろうとなり、継続しなかったと思います。ここでピンク石製石棺の分布ですが、私には岡山県が少なく、離れた地域に多いように思われます。つまり、阿蘇から避難してきた人で必要な人は吉備国、それほでない人は周辺地に配置されたように見えてきます。つまり倭国は吉備が中心であったことを間接的に示しているように思われました。この考え方にまだまだなところはあります。古墳前期にも阿蘇灰石が畿内に運び込まれています。この時は阿蘇山の噴火と言えないように思われますので(しょっちゅう阿蘇山が噴火するとは考えられないので)、人の移住がどのように行われたか想像できず、思いつきの話ではあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿