遣隋使が可能な条件として、途中の交通路と通訳(当時の日本では中国語が話されておらず、おおよそアイヌ語の古語であったと思っています)が必要に思われます。そのきっかけを考えてみました。
まず阿蘇山の噴火があります。この地にいた渡来系の人たち(かなりの複数)は、どこかに難を逃れることを考えると思います。生産力に余裕のある地域として近くには見当たらず、吉備国にやってきたのではないでしょうか。五月雨式に吉備国に移住し、「あそ」の集落を作り、そこで鍛冶や焼物などの技術を伝え、地域の発展に貢献したと思われます。吉備国には生産余力があり、受け入れることが出来たのだと思います。この時に、吉備の首長は、避難してきた交通路を用い、おそらく渡来系の人の中に当時の中国の人と会話能力を持った人がいて、通訳として遣隋使を派遣することを考えたのだと思います。返使として裴世清がやってきた道中などで、通訳の人との間で出自が話題となり、阿蘇山がでてきたと考えられます。返使には山が噴火することの知識がなく、強い印象が唐側の記録に残ったのでしょう。阿蘇の人たちがきっかけとなり、倭国の首長が使いを送ることを考え、移住してきた人のノウハウ(まだ倭国と認識されていなかった中間地の国々との宿泊の交渉など)を頼ることができたからと思えます。本当に思いつきで、阿蘇山の噴火がその当時あったのか、移住したとしてその痕跡があるのかとか、まったく無いので、証拠探しが必要です。しかしありうる話と思われます。
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