2018年8月10日金曜日

牛の歴史

 馬は古墳で良く出てきます。一方、牛はどうだろうかということですが、牛は六世紀に日本に入ってきたので古墳の時代には関係ないようです。牛についての本はあまりありませんが、たまたま図書館で見つけた
人と動物の日本史2 歴史の中の動物たち、中澤克昭編、吉川弘文館
の中の「農耕と牛馬」のところが面白かったので抜き書きです。
 その前に、明治時代のものですが、東の馬、西の牛とのデータがあります。この七頁・八頁の図です。これを見て、いろいろな東西の日本の違いの分布の一つと考えられますが、単純なものではなさそうです。先の本では牛馬の東西の分布にいたった紆余曲折が詳しく書かれています。

『魏志倭人伝』が倭の地には牛馬なしと伝えているように弥生時代から古墳時代初めの日本列島には牛も馬もいなかった。五世紀になって大和政権が朝鮮半島から軍事用に馬の導入をはかり、その後、倭の五王の使節が中国江南地方から馬鍬を持ち帰った。牛はまだ飼われていなかったので、馬鍬を馬に引かせることになって、馬の農耕利用が始まった。これは福島県を境界領域として関東以西に広まった。六世紀には大和政権や地方首長に招かれた渡来氏族が朝鮮半島から生活用具として牛を持ち込み、彼らの居留地で牛に犂を引かせた。これが日本列島の牛耕の始まりで、この牛を持ち込んだ渡来人は畿内・西日本に多くが分布していたと考えられ、これが「西の牛」の起源となる。七世紀には大化の改新政府が唐に対抗する殖産興業政策の一環として中国系長床犂の普及政策を展開、政府モデル犂を評督となった地方首長に配布した。この政策を拒否できなかった西日本では犂耕の空白地帯がほぼ姿を消すことになるが、大和政権の支配力の弱かった東国では、長床犂普及政策を無視する地域もあったようで、この東西の差が牛馬耕の西高東低状況を基本的に形づくったと考えられる。その後、百済・高句麗の滅亡にともなう難民が日本列島に渡ってくるが、政府は彼らを中部・関東地方に配置した。難民は牛を連れてくる余裕はなどなく、牛の入手が困難な東国では馬に犂を引かせた。これが東日本の馬耕の起源となる。平安時代以降は、蝦夷の馬の受容によって東北地方が馬産地になったこと、中部・関東地方は武士団の勃興とともに牛から馬へのシフトが起こったこと、これとは逆に西日本では田堵=一般百姓の成長とともに馬から牛へのシフトが起こったこと、これらが中世を通じて進行して近世を迎えるころには「東の馬、西の牛」という分布ができあがっていた。近世では加賀藩・薩摩藩などで馬耕の奨励がおこなわれ、牛から馬へのシフトがみられた。土佐藩や北九州諸藩でもそうした動きがあったと推測され、西日本の牛地帯にも馬優位の地域が混在することになる。近代に入ると福岡県の馬耕教師が全国に派遣されて乾田馬耕の普及をすすめた結果、犂を使っていなかった東北地方が馬耕地帯となり、中部・関東地方に点在した鍬《くわ》耕地帯にも馬耕が普及した。満州事変からアジア・太平洋戦争の進行にともなって軍馬の徴発がすすみ、馬の代わりに牛が導入される地方も見られた。これらの牛馬は、戦後の食糧難を克服する過程で大きな役割を果たしたが、一九六〇年代以降の農業の機械化の中で姿を消し、五世紀以降の牛馬の農耕利用の歴史の幕を閉じた。

とのことです。丸写しになりましたが、西日本は大まかに馬→馬と牛→牛、東日本は馬→遅れて牛が導入され馬と牛→また馬に戻るようです。単純な東西分布では無いようです。大化の改新政府とかはなかったという(私の考え)のと整合性が必要ですので、もう少し考える必要があります。
 牛と犂は朝鮮半島からということで、渡来人がどこに持ち込んだのかということがこの本に述べられています。牛に犂などを引かせるのに首木《くびき》を用いる。関西では牛の首にひもで取り付ける形式である。ところが紀伊半島の首木には牛の首に両側からはさむ首かせ棒がついている。これが朝鮮半島の形式なので、この地に渡来人が持ち込んだと考えられる。この地ではこの農具をオナグラやウナグラと呼んで、ウナ+グラで、ウナジ(首筋)に置いたクラ(鞍)の意味で、鞍は背中に置くが、なんと首に置くのかとの驚きがあったという。鞍は背中に置くという先入観を持っていたので、馬や馬鍬よりも後と推定される。ウナはウナズク、ウナダル(うなだれる)、ウナガスなど首筋に関する言葉で、日本書紀ではすでにウナジであり、ウナは六世紀と推定しています。この首木をウナグラと呼ぶ地域がもう一カ所、山口県東部の周防地方である。この二カ所のみが、中国や朝鮮と同じ首引き法という牛の胴体を利用しない方法を残していること、ウナグラという古い時代の言葉を伝えていること、この地域が朝鮮からの伝統を守り続けたのはなぜかということです。この地域の室積湾が、天然の良港であり、ムロツミ(館)が古語で客館を意味し、迎賓施設あった可能性があり、遣隋使の返使の裴世清来たときの秦王国に関係すると考えられる。外交に関わる場所で、通訳としての任務が求められたことで、朝鮮語を使い続けるために、その環境を残したとのことである。私の今の理解では江戸時代の長崎のような外国との窓口のようなところだったのだろうと思います。
 鎌倉時代、東大寺大仏殿の再建の時、近畿地方では木材の調達ができず、この地方から輸送した話を思い出しました。その時は唐突に思っていましたが、今思えば、農具が伝わったのが、二カ所の一つ、木の国(紀伊国)で、もう一つの周防も実質木の国であって、海外に向かう木造船を古い時代から作っていた実績があって当然のように思えてきます。

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