聖徳太子が存在しないとすれば、飛鳥時代とは何かということになります。
倭国の中心は吉備の国にあり、その後、前期難波宮に移ったとして、飛鳥の地をどう考えるかということになります。
吉備の国が中心とすると、現在の明日香村は周辺の地域に思われます。飛鳥地方に変わった石造物が残っています。七世紀頃のもののようですが、日本では通常見られない造形のもので、その時代のみでその後は廃れてしまいます。朝鮮半島由来の土俗信仰に基づくものか?ということです。これを考えると、朝鮮からの渡来人は倭国の中心に住居を構えることは難しく、周辺地域に配置され、文化習慣が違うので集団で住んだのではと想像します(イメージは現在の横浜や神戸の南京町)。また山に近いところなので、農業生産力があまり無さそうなところです。それ以外のこと、たとえば工人集団として、物作りで生活する必要があります。その一つとして石造物が造られたのではと思います。多くは花崗岩で硬く、当時としてはレベルの高い物のようで、軟質の凝灰岩製ではないようです。
また近江大津宮というところがあった地域で、大津北郊域の住居跡には床暖房のオンドルなどを持つものが見つかっています。この地も琵琶湖西岸で農業生産力が無さそうな地域ですが渡来人一世の配置された地域に思われます。朝鮮からの生活習慣を持ち込んだオンドルなども二世の時代には廃れたことは、飛鳥の石造物も日本の中では受け入れられずに廃れたということと同様だと思います。微妙な地域差もありそうです。
飛鳥寺の場所(チェックマーク)緑に示された際にあるように思います。都があるような所には思われません。
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