2023年8月25日金曜日

古代の経済成長

 『世界を動かした日本の銀(祥伝社新書 675)』ISBN-13 978-4396116750

を図書館で借りました。この本の宣伝文句は

リアルな数字で知る「真実」 近世まで最貧国だった日本は、いかにして経済大国になったのか? 磯田道史教授は、そこには石見銀山の銀が大きくかかわっていると言う。さらに、日本の銀は中国の貨幣経済化を促してヨーロッパにも影響を与えた、とも(「世界を動かした日本の銀」)

です。銀に注目することで、世界のつながりがわかります。 その本の36ページに、日本の経済指標の推移のグラフがあります。

730年から1874年の、日本の一人あたりGDPを総人口やGDPとともに示したものです。900年ぐらいまで、GDPは緩やかに上昇し、一人あたりのGDPも上昇しています。おそらく、田など耕作面積が増えたことで経済成長していったのでしょう。渡来人や大陸からの技術導入も寄与したかもしれません。

以下続きます。この部分が重要と思われますが、引用の元図のコピーが以下です。赤矢印のところです。



図の出所は 『経済成長の日本史―古代から近世の超長期GDP推計 730-1874―』高島正憲、。ISBN-978-4815808907

こちらでは、

8世紀から15世紀の古代・中世前半における日本の経済成長は、古代前半に成長の画期を確認することができる。奈良時代に中央集権国家を確立した律令国家は、社会経済における制度を整備し生産力の拡充をはかり、その努力は耕地面積・生産量の上昇にあらわれていたように一定の成果を生んだことは推計結果からも明らかである。ただし、古代の社会経済は、その制度機能の脆弱さにより国家のパーフォーマンスが低下して以降は目立った経済成長はおこることはなかった。一人あたり総生産で見るかぎり、その成長は停滞的なものであり、その状態は14世紀まで続いた。人口と総生産は全体としては成長が加速することはなく、ゆるやかな成長を続けていた。

この赤の部分が、多分、中国からの影響だと妄想されますが、国別比較の図がありますが、見ても中国のデータがないのでわかりません。残念です。 図ので出所は同じ本です。



2023年7月31日月曜日

埼玉県の行田市の稲荷山古墳出土鉄剣

 「ブラタモリ#242」で埼玉県の行田市の特集でした。2023年7月15日の放送で忘れてしまいそうです。 行田市には前玉(さきたま)神社があり、ここが埼玉の地名の発祥ということです。 行田市のHPにマップがあります。ありがたく、このPDFを見ます。 行田まち歩きマップ (PDFファイル: 8.4MB) 

QRの前玉神社の解説動画があります。 

前玉神社は古墳の上にありとのことで、古墳で行われていた祭祀儀礼が神社形式に移行したことを想像させます。古い神社であろうとは思われます。

丸墓山古墳の解説動画が次にあります。QRコードがあります。 

名前からわかりますが、円墳です。105mとされる大型の古墳です。

丸墓山古墳が、全国でもっとも大きい円墳であること、埼玉古墳群でもっとも盛土量が多いことも忘れてはならない。同時期の大王墓、真の継体陵と考えられる大阪府の今城塚古墳が全長190、後円部径100mであるから、円丘部のみを比較した場合、稲荷山古墳、二子山古墳と続いた大型前方後円墳が、丸墓山古墳の段階で円墳となること、丸墓山古墳が二子山古墳の前方に築造されたこと、唯一葺石《ふきいし》をほどこす古墳であることなどの点が疑問とされる。この疑問は、『日本書紀』安閑天皇元(534)年に記された武蔵国造の争乱と関係しそうである。
(埼玉県の歴史散歩、山川出版社 (2005/2/15)200頁より)

さて、稲荷山古墳出土鉄剣が有名ですが、銘文の漢字に「杖刀人首」と読めるところがあることから、中央政権に仕えたことがわかるとのことです。

今まで、考えてなかったのですが、この地域が利根川流域にあり、水運により、利根川を下り、鹿島神宮・香取神宮を経由し、熱田神宮、伊勢神宮とルートが出来ていて、中央とのつながりを持っていたのかもと思いました。

関東造盆地運動により、この地域が平坦地ができて、農耕に適した地域として開発されて、古代より発達したのかもとも思えます。

酒巻古墳群(酒巻21号墳)*解説動画 

利根川のそばにあります。

2023年7月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味

 7月4日のクローズアップ現代で放送されていました。

吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査を再開しました。調査している場所は、33年前から「謎のエリア」として注目されていた日吉神社境内地跡地です。今回の調査は、5月3日に開始し、6月3日まで実施しました。調査は、一旦中断し、雨期や猛暑の期間を避け、9月から本格的に再開します。9月からはさらに調査範囲を広げて、「謎のエリア」の解明を進めていきます。https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00385779/index.html

石棺墓には、無数の「×(バツ)」が刻まれていて、これは何だろうということで、1つの説として星を表しているのではないかということです。

クローズアップ現代のQRコードのリンクです。 

割れた2枚の石はもともと1枚だったとか、大きい×は明るい星であるとか、ありましたがそうだろうと思います。

古代には天文の知識が重要視されていて、話が飛びますが、天武天皇の天文や遁甲(とんこう)の術につながるように思います。

忘れてしまいそうですが、メモ書きです。

2023年4月26日水曜日

倭国の想像図

 『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書, 2683) 』篠田謙一、中央公論新社 (2022/2/25)の中にある核ゲノムの都道府県別SNP解析(p.198)を見て、以前の図を思い出しました。

ブログは以下の記事。 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

図は以下。 

ゲノム県別図

参考図 邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図

魏呉越の図


邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図です。

ゲノム図が七世紀の時代をあらわしていると考えると、下の想像図が描けます。 渡来人に近い橙色の地域を見ていくと、四国太平洋側、和歌山県、奈良県、滋賀県、京都府、石川県のところになります。青の線で結びました。天武天皇の新勢力と見なします。一方、倭国吉備説で考えているので、赤の楕円が倭国になります。岡山県付近が倭国の中心になります。楕円の大きさは適当で、イメージで、もう少し広いかもしれません。遺伝子的には若干、渡来人さが天武天皇派より2段ほど劣るところです。青の破線は出雲と連携してるかなとのことで書き加えました。天武天皇派が倭国を包囲して、最終的に日本に統一されます。岐阜県や愛知県も倭国であって分断されていたかもしれません。

倭国地図






2023年4月22日土曜日

ウラル・アルタイと相撲?

 近鉄南大阪線当麻寺駅より當麻寺に歩いて行く道中に葛城市相撲館「けはや座」があります。相撲の開祖「當麻蹶速」を顕彰する目的で平成2年の5月にオープンしました、とのことです。

当麻蹴速《たいまのけはや》については、

『日本書紀』によれば、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、蹴速は宿禰に腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて勝者の野見宿禰の土地となったという[1]。

「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。(ウィキペディア「当麻蹴速」より)

相撲の開祖となってますが、「捔力」と表現されていて、相撲とは思えませんので格闘技の開祖的な人だと思います。勝った野見宿禰が出雲の出身だということが問題です。出雲が相撲の本場の地であることをイメージさせています。現在の相撲ではモンゴル出身の力士が活躍していますが、モンゴルには相撲の素地のようなものがあり、力士が飛行機でやってきます。昔であったら、船でやってくることになります。到着地が出雲とかであって、出雲の地が日本での相撲の隆盛地になったのではと想像します。 各地域の相撲の様子です。ウィキペディアです。
モンゴル相撲 

トルコでもヤールギュレシというものがあるそうです。 

これらの地域をみて、相撲がウラル・アルタイ言語の地方にある格闘技かと思いまし。しかし、そうではなく各地域にあるようです。

インドとかはクシュティー 

中国ではシュアイジャオ 

相撲がウラルアルタイの文化にあるとは言えそうにないです。

『日本書紀』の垂仁天皇ですが、もちろん三世紀とか四世紀の話ではありません。七世紀の話を過去に想定して展開したものですが、だれをモデルにしたかは不明です。しかし、先代の崇神天皇の時にも、出雲とつながりのある三輪山の話があります。一連の出雲と関係した話の中で、野見宿禰が出てくるので、話の都合上、出雲出身としただけかもしれません。対戦の日も「垂仁天皇7年7月乙亥」とラッキーセブンになってます。継続した展開の中で相撲の話を入れておこうとしています。

古墳の埴輪での力士像では、裸にふんどし姿に見えますので、北方系ではなく南方系に思えます。捔力の対戦は格闘技であって相撲での対決ではなさそうですので、野見宿禰が南方出身とは考えにくいです。絶対的にそうだとは言えませんが、イメージとしては出雲出身に思えます。

當麻寺金堂の四天王像が頭にあっての偏見かもしれませんが、出雲の地域からの影響があったかもしれないという思いつきの話です。

2023年4月16日日曜日

支石墓、日本人のルーツ

 『縄文のビーナス 遺伝子から辿る日本民族の原像』古村恭三郎、郁朋社 (2018/11/21)を借りてきました。日本への江南からのルートのことがあったのでメモ書きです。

この本では、遺伝子の話があり重要ですが、飛ばします。日本人のルーツとして、先住の縄文人とそこへやってきた渡来人について北方説と南方説があり、その論点が述べられています。その中に支石墓があります。 著者は南方説を取っており、長江流域よりきたとしています。支石墓にはテーブル型と碁盤型があって、朝鮮半島の北はテーブル型で南は碁盤型とのことです。テーブルというのは薄い石板を支石で支える形、碁盤型は碁盤のイメージで大きな塊の上の石を小さな石で支えるような形です。この碁盤型が長江よりやってきたとの考えです。

支石墓について、平成26年度の支石墓の謎というシンポジウムのPDFがありました。写真とかあり、わかりやすいと思います。 

日本の支石墓も朝鮮半島(韓半島となってましたが一般的だろうかなとは疑問に思います。本のタイトルでも朝鮮語ではなく韓国語ばかりで、北朝鮮の方と言葉が違うのかなという気がします。微妙な使い分けがあるようですが、わかりません。)から伝来したようなことのようです。 支石墓の分布図が上記の本にあります。支石墓の謎のPDFにもあったのですが、ネット上でないかと思ったら、支石墓が世界遺産になっているようで、その紹介の「世界遺産 和順支石墓遺跡」のところ、以下に分布図がありました。 海岸と川に沿って分布する支石墓 

世界遺産 和順支石墓遺跡は以下 

朝鮮半島の西南端に突出していて、単純には長江からの伝来を、感じます。 またウィキペディアでは中国には支石墓はないと断言しています。支石墓の謎のPDFでも、

長江流域の石棚が韓半島南部に伝達したという説(陳2003)がある。いわゆる南方ルートを意識したものであるが、実証されていない。

とあります。平成26年なので、2014年の話です。以下の記事もあります。

西南学院大名誉教授・高倉洋彰氏 「支石墓」から見る古代の交流 

の記事で

済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。  中国浙江省温州市は温州ミカンの原産地として知られる。その隣に瑞安というところがある。跳魚(ムツゴロウ)の産地で、有明海と同様の潟スキーもある。「炸煮跳魚」という飴煮状の料理を食べたが、黒い外観と白い肉、そして味はまさにムツゴロウだった。アゲマキや白玉団子もあり、佐賀の雰囲気だ。箕子麺という平たい麺があったが、名古屋のキシメンのルーツは、案外この辺りにあるのかもしれない。

瑞安には、不思議なことに支石墓が集中している。しかも、済州島の支石墓に酷似していた。  瑞安の近くには棋盤山という地名もある。「碁盤」に近いのは偶然だろうか。ともかく、中国・温州から海岸沿いに北上し、寧波から舟山列島を経てさらに北上すれば済州島に行けないこともない。  かつてこうした交流路があったのだろうか-。支石墓分布をみていると、想像が膨らんでくる。

長江・支石墓の検索すると 古代東アジアの墳墓構築における地中水対策と変遷 がありました。 この中の、「はじめに」で

特に土を盛り上げた墳墓は、地中水対策などの観点から地下埋葬 (黄河流域、朝鮮半島北部を含む半島の大部分)と地上埋葬(長江下流域、朝鮮半島南西部、北部九州)に別れることなどである。

とあります。最後の表で、遼東の支石墓半島の支石墓から、碁盤式支石墓(朝鮮半島南部、北部九州)に影響を与えた矢印がしめされています。

表の体裁上、長江流域の江南土墩墓から北部九州の墳丘墓への細い矢印は省いた。

とあります。これが、最終的に長江ルートになっているかもしれません。 ややこしくなってきました。長江ルートはありそうだとのことで打ち切りとします。

2023年4月13日木曜日

朝鮮語と日本語の分岐点

 『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10) の中に、金大中大統領訪日、金大統領の国会演説の一部が載ってました。朝鮮語と日本語は似ている例です。ほかにもあると思いますが、ネットで同文を探し[注1]、グーグル翻訳しました。ハングルがわかりませんので、アルファベットです。以下、文字のズレがありますが、示します。太字で対応がわかると思います。


han-il yang-gug-eun hamkke ulal-altai gyetong-ui
韓日  両国   共に、 ウラル・アルタイ系統 

eon-eoleul sayonghago iss-eumyeo
言語   使用 して お 

bulgyowa yugyomunhwado gong-yuhago issseubnida.
仏教や  儒教 文化  共 有 して い ます


朝鮮語と日本語は、単語・発音・接尾辞などちがいますが、枠組みは同じです。似ていると感じます。どこかの時点で分かれ、別の道を歩んでると考えられます。

共に漢字の文化圏にあるので、単語に漢字からの伝来を感じます。中国の影響がありそうですが、それでも語順の並びが同等であることは大きいです。朝鮮語の発音も中国の発音の有気音・無気音の影響か、日本の有声音・無声音とは違いますが、二次的な問題に思えます。

使用する単語とか、有気音・無気音と有声音・無声音などの違いは時間経過で変化すると思いますが、言語の枠組み的なものは変化が小さいように思われます。金大統領の話の千五百年はどうかはわかりませんが、元々は同じような言語が分離され、発音や単語が別々に変化しても言語のフレームは残ったと考えたいです。著者のタイトルに合わせれば、「国家はことばを変える」ということでしょう。同一のような言語が、朝鮮語と日本語に分かれたのはいつの時代かということになります。

想像の話になりますが、歴史のわかる時代では、白村江の戦いのころではと妄想します。イメージはNATOです。これは軍事的な同盟組織で、第三国(者)による攻撃から互いに防衛するためのものです。当時も百済はゆるやかな倭国連合体の一員であって、唐・新羅からの攻撃に対抗したのですが、倭国側は寄せ集めで大敗しました。倭国は朝鮮半島から除外され、言語的には別れていったように思います。この時には、おそらく統一された日本語のようなものもなかったとは思います。朝鮮語の発展の歴史もしりませんので、妄想段階のお話です。

言語的に証明するものはありませんが、つながりを示す文化的なものはありそうに思われます。以前に 「朝鮮半島の前方後円墳」 

で書いてました。

前方後円墳の時代、朝鮮半島にもあったということは埋葬文化に共通するものがあったということです。朝鮮半島南部と北九州が同一の海洋文化圏として機能していたと想像されます。唐との戦いも。百済という倭国連合への侵略に対する防衛であったと考えられます。

[注1]:以下より取り込みました。 民団新聞 

◆過去を直視し未来志向関係を

尊敬する議員の皆様。

韓国と日本の関係は、実に長くかつ深いと言えましょう。われわれ両国は千五百年以上に及ぶ交流の歴史を持っています。  数多くの人々が韓半島から日本に渡りました。韓日両国は共に、ウラル・アルタイ系統の言語を使用しており、仏教や儒教文化も共有しています。徳川三百年の鎖国の時代にも、日本は韓国と、頻繁に往来しました。  それに比して、歴史的に日本と韓国の関係が不幸だったのは、約四百年前に日本が韓国を侵略した七年間と、今世紀初めの植民地支配三十五年間であります。・・・