2023年1月31日火曜日

「甲子年」の銘文入り鉄刀 熊本で発見、604年製作か

 日経新聞に出てました。他の新聞ではもっと速かったようです。 

兵庫県養父市の古墳からも西暦608年が有力視される「戊辰年」の銘文が入った鉄刀が出土している。熊本市の熊本城調査研究センターの林田和人主査は「異なる場所で同じ時期に同じような鉄刀が見つかった。当時の社会状況などを調査する手がかりになる」と話す。

阿蘇の地も何らかのつながりがあったことをしめしています。邪馬台国と古墳時代をつなぐもののような気がします。

詳しくは以下。熊本日日新聞 | 2023年1月27日 21:34  

古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土 製作年月日か 江田船山古墳に続く県内2例目、国内では8例目


2023年1月20日金曜日

奈良盆地の図、奈良湖

 『“地形と気象"で解く! 日本の都市 誕生の謎 歴史地形学への招待』竹村公太郎、ビジネス社 (2021/6/1)を借りてきました。奈良盆地での文明誕生のことが述べられています。奈良盆地で水田開発が行われたとして、古代の図が示されています。以下の図の引用のようです。

奈良湖推定図 

時空トラベラー、奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜より)


以下、図のところの説明です。

(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)

先の本では、異常なほど直線型をした河川とあります。川は蛇行するので直線は人工的な物であり、干拓された証拠であるとのようなことが書かれています。確かに図では直線が目立ちますが、この図はどのように作成されたか不明です。現在の地図に痕跡とか残っているのか、ぱっと見ではわかりません。断定して良いものかと思います。しかし、ある程度の土木技術があれば排水の制御が可能になり、盆地で水田開発が行われるでしょう。もちろん、他の地域の盆地でも開発されていて、奈良だけが優れていたわけではなく、発展可能性ある地域の1つであったと思います。

「時空トラベラー、奈良盆地の原風景」の図をもう一つ引用します。

奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図 

大和川を経由して河内平野から外海へ出て行けそうな図です。とくに法隆寺が水辺近いところにあったことを始めて知りました。水運を考えれば、古い時代にこの地が栄えたことが考えられ、変なところではなかったと思います。

「時空トラベラー」では、万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌で「海原は鴎立ち・・」とあります。カモメがいたということです。これは奈良湖をイメージするものです。七世紀くらいには、奈良湖の痕跡があったことを考えておかないといけないのではとも思います。

2023年1月17日火曜日

興福寺と栄山寺の八角堂

 『光明皇后 - 平城京にかけた夢と祈り (中公新書)』、瀧浪貞子、2017/10/25、の中に 興福寺北円堂について書かれています。36頁。

北円堂は元明太上天皇と元正天皇が、不比等のために右大臣長屋王に命じて建立させたもので、不比等が亡くなった年(養老四年〔七二〇〕)の十月十七日、「造興福寺仏殿司」が置かれている。じつは、これが正史『続日本紀』に登場する興福寺の初見であり、仏殿司は北円堂造立のための役所として設置されたものであった。不比等の追善供養を目的とする「仏殿」の造営が国家的事業として行われているところに、生前の不比等の役割、立場が示されている。・・・

興福寺北円堂(ウィキペディアより) 

似てるなと思うものに、栄山寺の八角堂があります。 ウィキペディアの説明では

天平宝字4年から8年(760年-764年)の建立と推定され、藤原武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂が建立したと伝えられる本瓦葺の八角形の建物。平城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築として稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築である。


藤原仲麻呂が、不比等・武智麻呂と続く藤原氏の正統性を示すものとして八角堂を建立したように思います。

法隆寺の夢殿も八角形です。ひょっとして、聖徳太子以来の正統性を藤原氏は示したかったのかもしれません。

2023年1月16日月曜日

長屋王邸の場所

 平城京で長屋王邸の場所は、 『光明皇后 - 平城京にかけた夢と祈り (中公新書)』、瀧浪貞子、2017/10/25、 18頁に藤原不比等邸の地図があり、わかります。似たもので、 詳しい平城京の図が以下にありました。 

この図はhttp://www9.plala.or.jp/kinomuku/1top/heijyokyo.gif 図はここから

この薬師寺の紹介で出てくる地図を見ると、藤原不比等邸が平城宮の東側にあり、後に皇后宮、法華寺になって、ここで首皇子、光明子が育ったということです。この近く、平城宮の東南方向に長屋王邸があります。平城宮に近接した場所で長屋王の変が起こったことになります。驚きです。 このあと、不比等邸は光明子が引きついでいます。当然のような気もしますが、このことは以下よりわかるそうです。、

『平城宮・京跡出土木簡とその歴史環境のグローバル資源化』の121頁に

八月十日 聖武天皇の夫人藤原光明子を皇后とし、左京三条二坊一・二・七・八坪を皇后宮とする。 a〔続日本紀〕天平元年八月戊辰(十日)条
詔立二正三位藤原夫人一為二皇后一。

※ 光明立后の宣命の布告は、二週間後の八月二十四日に、内裏に五位以上と諸司の長官だけを内裏正殿の前庭に召し入れて行う異例の形式で行われた(『続日本紀』 天平元年八月壬午〈廿四日〉条)。立后後の光明子の住まい、すなわち皇后宮は、同年二月まで長屋王宅だった左京三条二坊一・二・七・八坪の没官地が充てられた ことが、二条大路木簡の分析から判明した(「二条大路木簡と皇后宮」奈良国立文化財研究所『平城京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』一九九五年)。ここでは、 当地の皇后宮を示す史料として、その警備担当兵士の歴名木簡を一例として掲げる。

と書いてます。木簡により、長屋王邸が皇后宮になったことなったことがわかるとのことです。

今まで、平城京と平城宮のような都城と宮の違いをわかっていませんでしたが、同じと思ってました。長屋王邸にも家政機関があったことから長屋王邸も宮であったと思えます。古来、宮があって、それが天武天皇の飛鳥浄御原宮から長屋王邸、さらに光明皇太后の紫微中台とかまで続き、律令体制と宮の対立がはっきりしないなか続いていたように思えます。この時代に、蘇我氏の横暴、乙巳の変から大化の改新に至る日本書紀での流れに、長屋王の変が見立てられます。

2022年12月25日日曜日

水の語源

 「ミヅ」と読むようです。 『日本語の起源 ――ヤマトコトバをめぐる語源学』、近藤健二、筑摩新書(2022/1/10)を借りてきました。

日本語の起源は古代中国語にあった。古代中国語音と古代日本語(ヤマトコトバ)の音の対応を数多くの実例に基づき検証。日本語の古層をめぐる新説を提唱する。

とのことです。最初の方に水のことが書いてあります。『日本国語大辞典』に12説あるとのことで、簡単に紹介されています。どれも苦し紛れの説に思えますが、 漢字起源説をとる著者も付け加えるとのことです。

ミヅ(水)
ミ 碧(ヒャク)「あおみどり」
ヅ 水(スイ)「みず」
◆碧水(ヘキスイ)青い水

と示されています。ここでは発音記号はうまく表記できないので省略しています。ヘキスイを中国語の読みでミズと発音したとのようです。説得力が感じられませんが、水を「スイ」と読んでたのは確かそうには思います。私も説を付け加えます。 元々「スイ」と発音していたのを丁寧に言うため、{御「スイ」}と言い始めます。「ミスイ」です。これが「ミズ」に変化しました。今は「ミズ」では丁寧さがなくなり、普通になってしまい、さらに「オミズ(御水)」になっていると考えられます。漬け物が「オミオツケ」になっていったようなものです。将来、「ミオミズ」になれば、証明されたことになりそうです。

しかし、漢字起源説は古い時代まで遡れるかはわかりませんが有力な説です。訓読みと思っていても実は音読みだったということも充分ありえます。

追記:R05.01.01
初詣で、おみくじを見ました。これも「くじ」に「み」がついて、さらに「お」が追加されたものです。水も、もともと神事では神聖なものであったはずなので「ミスイ」のような気が、ますますしてきます。

追記(R050218)

水の読みですが、「みづ」とありました。ローマ字では「midu」で、「mizu」ではありません。

みづでは
(平安時代)みどぅ
(南北朝時代)みどぅ
(室町時代)みず
(江戸時代)みず
とあります。dからzに変化したということになります。

『知らなかった! 日本語の歴史』浅川哲也、東京書籍 (2011/8/12)

「じ・ぢ・ず・づ」の仮名は「四つ仮名」といいます。室町時代の中頃から「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが難しくなり、そのため四つ仮名の混乱が生じます。江戸時代の元禄年間(一六八八〜一七〇三)までには「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが一部の方言を除いてできなくなっていました。

発音の違いに基づく仮名の書き分けが不可能になると、四つ仮名は「仮名遣い」の問題になります。仮名遣いとは正書法としての知識の問題です。四つ仮名の仮名遣いを取り上げた早い例としては『仮名遣近道抄《かなづかいちかみちしょう》』(寛永二年・一六二五)があります。

この中に「ず」と「づ」の例がありました。
「見ず(みず)」と「水(みづ)」です。

「現代仮名遣い」では、原則「づ」を使わないので「みず」で良いのですが、その前の時代は「みづ」で、平安時代以前に「みず」と発音していたことがあったのかということになります。



2022年12月22日木曜日

光明皇后の経済力

 前回に関連して、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話で思ったことです。 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、

「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面を含めて評価する必要がある。

ということです。光明皇后の皇后宮、どこかで読んだのですが、出所がはっきりとはしませんが、ネットで以下にありました。

旧長屋王邸が740年の恭仁遷都までの一時期に皇后宮になったこと 

長屋王の変のあと、高市皇子から長屋王に引き継がれた「功封・功田」はどうなったか疑問に思いますが、光明皇后が長屋邸あとに入ったようです。これと、以前に正倉院展 で見た 相模国封戸租交易帳 

がつながります。舎人親王とかに混じって、光明皇后の名前がありました。関連していると思います。長屋王の変のあと、光明皇后に「功封・功田」の引き継がれたことが想像されます。長屋王の変のあとの処分もほとんどありません。つまり、長屋王の家政機関がそっくり引き継がれているかもしれません。問題は、光明皇后と長屋王の関係では、血統では長屋王が優位にあります。簡単には引き継げないと思われます。そのために、光明皇后の権威付けが必要になって、皇太后に立后されたと想像します。しかも藤原不比等からも功田が光明皇后に引き継がれたはずです。光明皇后のいろんな事業も功封・功田があったから成立しており、藤原氏も名目、光明皇后に移転された権益を失いたくないと考えているはずです。その後の藤原仲麻呂も光明皇后の経済力をバックにしています。奈良時代の政争も、国家的な相続問題が争族問題になってたのかもしれません。

2022年12月21日水曜日

藤原仲麻呂と乙巳の変のつながり

 長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、第四章の仲麻呂の政策の「2父祖三代の顕彰ー『藤家家伝」と要領律令」のところからの発想です。

功臣としての藤原氏
第四の特色は自らの祖先の顕彰である。それは、単に先祖の奉仕を顕彰するにとどまらず、仲麻呂一族(藤原恵美家)の特別扱いと表裏の関係にあることが重要である。・・・ 729年の長屋王の変までは、高市皇子のような壬申の乱の功績(壬申年功)が最大の国家的な功績として評価されていた。だが、以後は「乙巳年功」(鎌足)、「修律令功」(不比等)が国家に対する「大功」として評価されるようになる(天平宝字元年一二月壬子条)。

鎌足の功績評価は、①孝徳朝での難波朝廷への奉仕(慶雲四年四月壬午条)、②天智朝の近江令編集(天平宝字元年閏八月壬戌条)、③皇極朝の乙巳の変(天平宝字元年一二月壬子条)のように、鎌足の死後に重点が変わり、乙巳の変での評価は、仲麻呂執政期以降に定まった。

これは、大きな国家政策の転換に対応する。つまり、知太政官事任命に象徴される天武系王族の尊重(太政官の総括者として天武天皇の子孫が任命される慣行)や「壬申の功臣」たる大伴氏や東国外五位郡司層の優遇(壬申の乱で活躍した東国豪族には準貴族としての外五位が与えられた)から、忠実な律令官僚で準皇族たる藤原氏への重用に変わり、聖武天皇の王権強化と律令制の充実という方向に転換したのである。

このあと、省略しますが、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話のあとに、

仲麻呂および『藤氏家伝』に象徴される鎌足・不比等についての情報操作=「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面(恵美家の藤原氏内部での本宗家扱い、および太政大臣・近江国司・功封などの世襲化)を含めて評価する必要がある。

仲麻呂の課題は、ポスト壬申の乱体制の構築であり、それが藤原氏の地位強化につながることを意識していた。

引用が長くなりますが、以下重要と思われるところ、勝手に太字にしてます。

さらに述べるならば、従来の通説は、基本的に仲麻呂により創出された功臣たる鎌足・不比等像に従ってきた。だが、仲麻呂による祖先顕彰を除いて考える必要がある。必ずしも藤原氏は当初から有力な氏族ではなく、律令を熟知した有能な官僚としての藤原氏の抜擢や藤原氏天皇の擁立など、王権側の選択により権力を獲得してきたことを強調しておきたい。

仲麻呂の鎌足・不比等の祖先顕彰ですが、問題は長屋王の変です。父の藤原武智麻呂が変の首謀者と見なされていることがあります。当時の一般的な理解では長屋王の変について、正当性を主張できにくいような環境であったと思います。藤原氏の汚点となっていて、なんとかしなければと、仲麻呂は考えたと思います。藤原氏には藤氏家伝があり、藤原武智麻呂のことが記されていますが、長屋王の変のことは抜け落ちていて藤原氏側の見解は不明ですので推測になります。

長屋王の変がはじめてではなく、それで類する話は過去にもあったとして、③皇極朝の乙巳の変を創作したのではと想像します。長屋王を皇位をねらう蘇我入鹿に、藤原武智麻呂を防ぐ鎌足に見立てているようです。

また大化の改新で、評の代わって郡にしたのも鎌足以来とすれば、郡の正当性をさかのぼることができ、仲麻呂の曾祖父以来の正当性を主張できるメリットはあります。かなりの改竄が孝徳天皇の時代にありそうですが、文句をいう人がいなかったといいうことかもしれません。そうすると②天智朝の近江令編集とかも本当にあったのかなどと疑問がどんどん出てきます。