2023年1月16日月曜日

長屋王邸の場所

 平城京で長屋王邸の場所は、 『光明皇后 - 平城京にかけた夢と祈り (中公新書)』、瀧浪貞子、2017/10/25、 18頁に藤原不比等邸の地図があり、わかります。似たもので、 詳しい平城京の図が以下にありました。 

この図はhttp://www9.plala.or.jp/kinomuku/1top/heijyokyo.gif 図はここから

この薬師寺の紹介で出てくる地図を見ると、藤原不比等邸が平城宮の東側にあり、後に皇后宮、法華寺になって、ここで首皇子、光明子が育ったということです。この近く、平城宮の東南方向に長屋王邸があります。平城宮に近接した場所で長屋王の変が起こったことになります。驚きです。 このあと、不比等邸は光明子が引きついでいます。当然のような気もしますが、このことは以下よりわかるそうです。、

『平城宮・京跡出土木簡とその歴史環境のグローバル資源化』の121頁に

八月十日 聖武天皇の夫人藤原光明子を皇后とし、左京三条二坊一・二・七・八坪を皇后宮とする。 a〔続日本紀〕天平元年八月戊辰(十日)条
詔立二正三位藤原夫人一為二皇后一。

※ 光明立后の宣命の布告は、二週間後の八月二十四日に、内裏に五位以上と諸司の長官だけを内裏正殿の前庭に召し入れて行う異例の形式で行われた(『続日本紀』 天平元年八月壬午〈廿四日〉条)。立后後の光明子の住まい、すなわち皇后宮は、同年二月まで長屋王宅だった左京三条二坊一・二・七・八坪の没官地が充てられた ことが、二条大路木簡の分析から判明した(「二条大路木簡と皇后宮」奈良国立文化財研究所『平城京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』一九九五年)。ここでは、 当地の皇后宮を示す史料として、その警備担当兵士の歴名木簡を一例として掲げる。

と書いてます。木簡により、長屋王邸が皇后宮になったことなったことがわかるとのことです。

今まで、平城京と平城宮のような都城と宮の違いをわかっていませんでしたが、同じと思ってました。長屋王邸にも家政機関があったことから長屋王邸も宮であったと思えます。古来、宮があって、それが天武天皇の飛鳥浄御原宮から長屋王邸、さらに光明皇太后の紫微中台とかまで続き、律令体制と宮の対立がはっきりしないなか続いていたように思えます。この時代に、蘇我氏の横暴、乙巳の変から大化の改新に至る日本書紀での流れに、長屋王の変が見立てられます。

0 件のコメント:

コメントを投稿