2020年11月30日月曜日

雄略天皇のエピソード

  新編日本古典文学全集3,日本書紀②、一九九九年三月発行、小学館の雄略天皇のところをパラパラとみています。

 雄略天皇は、すぐ人を処刑しようとする話が出てきます。雄略二年十月、吉野宮行幸の時、狩猟をし、その料理のことで群臣に尋ねるが答えられないのを怒り、馬飼を斬られた。その後皇后との話で宍人部をおくということになります。雄略天王は誤って人を殺すことが多かった。と日本書紀にあります。

 雄略六年三月に、養蚕を勧めようとして、蚕《こ》を集め指すのですが、間違って嬰児《わかご》を集めて天皇に献上されたので、雄略はたいそう笑った。とあります。

 これらのエピソードから、雄略天皇とまわりの部下の間のコミュニケーションがうまくいってないのではと思います。皇后とかの通訳がなければ、意思疎通がおぼつかなかったということでしょう。つまり、当時の日本語がどんなものか想像できませんが、不自由したということは、雄略天皇(=天武天皇)が渡来系の人物であることにつながります。雄略紀は天武天皇の様子を具体的事実のようにみせて、天武天皇の雰囲気を表しているように思えてきます。



2020年11月29日日曜日

吉備の反乱伝承と天武天皇

 図書館でたまたま手にとりました。『日本の歴史②倭人争乱』、田中琢著、集英社、1991年7月です。前の記事(雄略天皇=天武天皇?)の続きです。

305頁に著者が衝撃を受けたという、1964年刊行の『日本考古学の諸問題に掲載された「吉備政権の性格」。筆者、西川宏氏は、吉備政権と倭政権との対立があり、吉備側は鎮圧されたという。ここで、『日本書紀』の三つの「吉備の反乱伝承」を取上げている。

1,雄略七年八月、反抗の意志ありとて吉備下道臣前津屋とその一族七〇人を誅殺した。

2.同じ年に、吉備上道臣田狭の妻の稚媛を奪った。田狭を殺したという話もある。

最後は雄略の死の時である。次の清寧天皇に話が続く。

3.吉備稚媛の生んだ雄略の子の星川皇子がクーデターを起こすが失敗、敗死する。吉備上道臣らは星川皇子を救おうと軍船四十艘を引いて応援に行くが、星川皇子の敗死を知って引き返した。清寧天皇は吉備上道臣らの責任を追及、所領を奪った。

吉備とヤマトの間で武力抗争があったということで、雄略天皇を天武天皇と考えた場合に、以前のブログ記事(出雲について:出雲と連携して吉備と対立の話)につながります。


2020年11月28日土曜日

雄略天皇=天武天皇?

 辛国神社の由緒で、雄略天皇の創建とありました。どうも雄略天皇=天武天皇ではないかという気がしてきました。

 万葉集に雄略天皇の歌があります。これは万葉集編纂の時代に昔と言えば雄略天皇の時代であったので、最初に置かれたと言われます。そうかもしれませんが、万葉集は大伴家持の編纂と考えれば、大伴氏が名前の通りであれば、伴臣のトップの氏族で、従ったのは天武天皇であったということです。雄略天皇がいろいろな天皇の複合したものとしても、主に天武天皇だと考えていたことで、敬意を表して、最初に雄略天皇の歌が置かれたのではないかと思われます。
 日本書紀には、雄略天皇即位の時に、大伴連室屋・物部連目を大連にされたとあります。大伴氏が抜擢されたということです。雄略紀を天武天皇と思って見れば、そうかもしれないと思ってきます。
 書紀では、元年春3月、草香幡梭姫皇女を立てて皇后とされた。この月に三人の妃を立てられた。元妃《はじめのひめ》は清寧天皇と稚足姫皇女とを生んだ。この皇女は伊勢大神の祠に仕えた。とあります。大来皇女は天武天皇2年(673年)4月14日に父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)とされますが、雄略天皇=天武天皇、稚足姫皇女=大来皇女に対応しているように思われます。元妃は韓媛《からひめ》というというのもひっかかります。
 清寧天皇=大津皇子であろうかというところが違うように見えます。しかし、清寧天皇のところの記述で、雄略天皇の後に後継争いが起こり、大津皇子とは異なり、天皇になりますが、早世してしまいます。日本書紀の願望で、大津皇子を天皇にしたかったのかもしれません。天武天皇亡き後の争い、葬儀の様子などはある程度示しているように感じます。

 雄略紀はボリュームが多くて、細かい逸話的な話が多く水増しの感がありますが、古い時代の話ではなく、天武天皇の時代の話をアレンジして、盛り込まれているような気がします。天武天皇の時代として読んでも違和感はありません。

 葛城山での一事主神に会うとの話も天智天皇と天武天皇の話に思えてきました。
  雄略天皇と葛城の一言主

新編日本古典文学全集3、日本書紀②雄略天皇、清寧天皇のところを見てます。

2020年11月22日日曜日

辛國《カラクニノ》神社

御野国味蜂間郡春部里戸籍の続きの話です。

 人名の辛国ですが(辛國だったかもしれない)、神社に辛國神社というのがあるのを見つけました。藤井寺市藤井寺一丁目一九ー一四にあり、旧表示は堺県河内国丹南郡岡村春日山となっています。この話は『式内社調査報告第四巻 京・畿内4』を見てのもので、出来るだけ旧漢字にあわすつもりですが、読みの間違いの可能性もあります。春日山は、古市郡の高屋城主畠山氏が大和の春日明神を勧請してからと伝えられているそうです。さて辛国の由来ですが、この本では

 この辛國とは、四世紀ごろの大和朝廷の初め、朝鮮半島南部にあった加羅(加耶・加那とも書く)と國交があり、一般的に外國を「韓國《カラクニ》」と呼んだ。「辛國」とは呼び名の当て字であり、主に朝鮮半島の国をこのやうに表示した。その後の飛鳥時代には、中国の隋や唐を「唐國《カラクニ》」と書いて同音であっても、表示では一応の区別をしてゐたやうである。
 従ってこの「辛國」の表示は韓神の祭祀された社であると思はれるが、諸書の祭祀する神は、所論が混乱してゐる。所在する場所が村の南の春日山にあったため、「春日さん」とも呼ばれてゐる。とあります。
 戸籍に出てきた名前も、唐ではなく、朝鮮に関係する人物の名前として良さそうです。

 この本での祭神については『大阪府神社名鑑』(昭和四十六年刊)では、「饒速日命・天児屋根命、素戔嗚尊」となっている。とあります。読みは「にぎはやひのみこと、あめのこやねのみこと」のようです。いろいろと書いてあり、理解できるレベルではないですが、韓國の祖神を祀るのだろうということのようです。この神社の過去については良くわかりませんが、私は「素戔嗚尊」を天武天皇と考えているので、祭神は天武以降に整えられ、「素戔嗚尊」が加わったように思えます。
 この本には、新羅國神の言葉も見えます。天武天皇は百済の人と思ってましたが、新羅系の人であったかもしれません。また近くに野中寺があり、百済系渡来氏族の船史《フナノフヒト》の氏寺であったと書いてあります。新羅・百済が入り乱れていて、今のところは天武天皇は渡来人?ということにします。

追記:H201126

祭神ですが、辛國神社のHPに
ご祭神は主殿
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
素盞鳴命(スサノオノミコト)

室町時代に河内守護職の畠山基国が現在地に神社を造営し、して春日大社から春日神、天児屋根命を勧請し、合祀したとのこと。以後春日社と呼ばれるようになったようです。明治四十一年に式内社「長野神社」を合祀しています。長野神社は葛井寺の境内の南西に鎮座していました。辛国神社の祭神の内、素盞鳴命は長野神社の祭神です。

天武天皇の時代といえるのかということです。しかし、雄略天皇の御代に開かれたとのことです。





2020年11月21日土曜日

美濃国の戸籍と天武天皇(渡来人?)

 正倉院展の展示の御野国味蜂間郡春部里戸籍についての続きです。

1の文献九七頁に、「安八磨(安八・味蜂間)」郡名の由来があります。

大海人皇子は、壬申の乱の時に、安八磨郡の湯沐令に軍兵を起こせと指示したということです。これが不破の道の封鎖につながります。この湯沐令は湯沐の管理する者のことで、湯沐とはこの場合、大海人皇子の直轄地のようで、大海人皇子の軍事的・経済的拠点であったようです。さて郡名の「安八磨」ですが、「アンパチ」・「アハチマ」・「アハチ」・「アハツマ」などと読まれるが、2には「アハツマ」と傍訓が振られているという(未確認)。「アズマ」(東・東国)が「アガツマ」となり、訛って「アハツマ」となったとする。つまり「安八磨」は「アズマ」(東・東国)と呼ばれたことに由来するのではということです。

日本書紀天智四年春には近江国神前郡に百済の百姓男女四百人余りを住まわせ、天智四年冬に百済の男女二千人余りを東国(あづまのくに)に住まわせたとあります。唐・新羅との戦いを主導した天智天皇は自己の領域の近江国に難民を引き取ったのですが、人数が多いので、東国に配置したということです。この東国は単に美濃国と私は思っていましたが、もう少し具体化すると安八磨郡ではないかという気がしてきました。正倉院展で展示された味蜂間郡の戸籍にあった辛国という人物ですが、百済からの難民の子であるとして、一人だけで無く、この地域が百済難民の置かれた地域であったことが考えられます。特権的にこの地域を与えられた大海人皇子は百済難民グループと近い関係にあったことになります。もう少し言えば、百済難民の代表者であったと考えておく必要があります。壬申の乱は天智天皇に対する戦後処理の不満により引き起こされたものですが、この地域の軍事的組織が保たれた百済難民の支持により成功したクーデターのように思えます。天武天皇は天智天皇とはまったく異質な人で、兄弟なんかではなく渡来人だったと思った方が理解しやすいと思います。最初はそれほどの支持は得られず、小規模な飛鳥浄御原宮から始まりますが、その後、各地域国家の支持を得て(強権的なものとは思いますが)、勢力拡大し、藤原京に遷都したのではと想像します。

1.『地図と歴史空間』ー足利健亮先生追悼論文集ー

大明堂発行、平成12年8月10日

2.新訂増補国史大系本『日本書紀』後編310頁


2020年11月17日火曜日

正三角形

 正三角形は各辺の長さが等しい三角形です。中心線から三角形を作図するときには

1:2:√3 の比率を考えないといけないので、無理数を電卓たたいてださないと

いけないので難しいと思っていました。しかし、大体で良ければ簡単に描けます。


中心線が7で直角に4の長さの底辺を出し、図では赤の線ですが結べば斜辺が

およそ8ですので、ほぼ正三角形になります。1パーセント弱の誤差はありますが、

見た目わかりません。難しそうに見えますが、予想外に簡単なこともありそうです。

当たり前かもしれませんが、わかってませんでした。





2020年11月16日月曜日

能の起源「翁」

  能に「翁」という演目があります。『能を読む①』(a)によれば、天下太平の祈念、年頭の法会を源流とする、厳粛な祝禱の芸能とあります。古来、能役者によって演じられてきたが、能とはまったく形態を異にする特殊な演目。成立は遅くとも鎌倉初期頃と考えられ、能が生まれる以前から能役者の前身である猿楽によって演じられていた芸能である。・・・また「翁」がどのようにして生まれたか、翁とはそもそも何者か、といった基本的なことはほとんど明かにされていないが「翁」を生んだ場としては、平安時代以降、天台寺院や法相寺院で営まれていた、年頭の天下太平祈念の法会である修正会、修二会であることが確実である。とあります。しかしながら本当でしょうかということです。

 そもそも能とは何かということですが、猿楽のことで、『能 650年続いた仕掛けとは』(b)では、世阿弥は『風姿花伝』で「猿楽はもとは神楽なのだが、末代のもろもろの人々のために、神の示偏を除いて申楽《さるがく》にした」と書いていますとのことです。この説の当否はともかくとのことですが、私は確度の高い話と思います。感覚的にはゴスペルシンガーのマヘリアジャクソンが歌うことに対して教会から避難を受けたということがあったとの記憶があります。元々ゴスペルは宗教音楽であって教会の中での宗教儀式としてあったのが、教会から離れたところで歌うことは許さないとした人たちがいたということです。おそらく「翁」の演目も神事として行なわれていて、芸能的な扱いを許されなかったと考えられます。これは神事ではないということのため、「示」がとられて申となったとして私は納得しています。この「申」を「さる」と読みます。

 「翁」は国の太平を願うものですが、誰が国の繁栄を願っているのかということが問題です。(b)では、芸能の起源は『古事記』の、天岩戸と海幸彦の二つにあるとしていて、私は後者の話に注目します。以下は32頁、

 漁と猟の道具を交換した海幸彦と山幸彦の兄弟、弟の山幸彦は兄に借りた釣り針をなくし、兄がそれを許さず、弟が釣り針を探しに海中へ行き、そこで出会った豊玉姫の海神一族を味方につけた山幸彦が海幸彦に勝利します。その戦いの最後に「自分が負けたさまを永遠にあなたの前で演じましょう」と海幸彦が山幸彦(神武天皇の祖父とされます)に約束する文章が『日本書紀』にあります。とのこと。

 「わざおざ=俳優」の起源と書いています。恭順を示す行為としての芸能とのことです。この説話からの妄想ですが、敗者が勝者に臣従を誓う儀式が神楽ではないかという気がします。ヤマトの勢力に敗れた勢力が儀式として国の繁栄(つまりヤマトの勢力の繁栄)を願うということで、神事として固定化されたということです。これは一つの地域だけでなく多くの地域に対しても行なわれていて、ヤマトの支配下に入った地域の首長達をヤマトに住まわせ(江戸時代の参勤交代ではなく永住させ)、神楽を行なわせたと考えれば、大和国に能の流派が多く残っていたのもこの歴史を引きずっているためと考えられます。時代を考えると、神楽の起源は、神道の格式化をはかった天武天皇の時代のような気がします。(a)で梅原猛氏が奈良阪の奈良豆比古《ならつひこ》神社で、天智系の光仁天皇即位するときに、后の天武天皇系の井上内親王が皇太子他戸親王とともに幽閉され死んだ。その恨みで光仁天皇の弟の春日王が白癩《びゃくらい》になった。奈良阪の産土神に「翁」を奉納したところ治ったとの伝承があると述べています。私の理解の仕方が違うかもしれないが、支配・被支配の関係があるように思われます。

a)能を読む①翁と観阿弥、能の誕生、角川学芸出版、平成25年1月25日発行

b)能 650年続いた仕掛けとは、安田登著、新潮新書732,2017年9月20日発行