2018年6月30日土曜日

日本語はクレオール語だったのか?

 アメリカが植民地であった時代、アフリカから奴隷を連れてきて、労働に従事させた時に、ニューオーリンズでアフリカの民族音楽と西洋音楽が出会い、ジャズが生まれたという話を聞いたことがあります。その時に中心となったのがクレオールと呼ばれる人たちです。記憶が定かではありませんが、こんな話だったと思います。音楽ではなく、言語について、枕詞から、この時に言語衝突が起こったのではと思いました。

接触言語 ピジン語とクレオール語、マーク・セバ著、田中孝顕訳、きこ書房発行からの抜き書きです。
 まず、A言語とB言語の話し手が出会ってできた言語がピジン語です。
ピジン語
*母語とする人がいない。
*複数言語間の接触の結果である。
*通常は一つの言語(語彙供給言語)から語彙のほとんどを取り込む。
*インプット言語の文法と比較すると、文法は単純化され、縮小されている。
*簡単な音韻体系を取る傾向にある。
*分析型(孤立型)形態または膠着型形態を取る傾向にある。
*単語と意味は語義的に透明な関係を取る傾向にある。
*語義的には単語に多様な意味を持たせるため、語彙は少ない。
ということがあげられています。私は理解しているとは言えませんが、著者のヨーロッパ言語のセンスが出ているように思われます。ピジン語ができた次の子供の世代になるとクレオール語と呼ばれます。また抜き書きです。

クレオール語
*複数の言語に関わる接触の結果である。
*それ以前のピジン語から段階的に発達する。
*安定ピジン語から段階的に発達するだろう、あるいは未発達なピジン語から突発的に発達する可能性もある。
*母語として使う人がいる一方、一部の人からはピジン語形式で使われることもある。
*文法は語彙供給言語よりも単純である。
*通常、時制、法性及び相の標識を動詞の前につけるなどの構造特性を共有する。
とあります。この内容については理解できていませんが、文法など簡素になることなどは理解できます。
 さて、日本語の話ですが、7世紀に百済滅亡により日本にやってきた人たちは、百済で話していた言葉をもとに日本で話されていた言葉からピジン語的な言葉を使った可能性はあります。一般的に、ピジン語では文字を話せない人が対象ですが、百済からの人は漢字が使えたので、文字として記録が残ったと考えられます。文字についても一方的なものではなく、音読みと訓読みのように混ざってしまったというか、妥協の産物のような気がします。枕詞などは誤解しないように、冗長的に考えられ、山々などの反復も同様に思われます。また万葉集などで、上代特殊仮名遣いと呼ばれる現在より多くの音節が使われていたとされますが、これらも文字を使いこなせる百済からの一世のピジン語のようなもので原日本語が文字化されたもので、二世・三世のクレオール化した人の時には土着化して消えてしまったと想像されます。枕詞も言語として確立したものになれば不要で、消えていったと思います。係り結びも良くわかっていませんが、ピジン語の関連があるかもしれません。原日本語はアイヌ語に近いもので、そこに、百済からの渡来人がやってき、現日本語の元ができたのではと考えても良さそうな気がします。
「原日本語(アイヌ語の原型)+百済の言葉(朝鮮語の古い形)→現在の日本語の原型」
のような式と考えられます。皇国史観にとらわれて、縄文・弥生時代から日本語があるように思ってはいけないということだと思います。日本語の起源の本などを見ましたが、各言語の基本単語を比較する方法など取り上げています。しかし、私の乏しい経験ですが、父母など、私より年長の人がパパ・ママと言ってるのに驚いたことがあります。基礎的な言葉でも変化は早いような気がします。また言葉が文字を介さない場合ですが、万葉集だったか、わたの原が大海原をあらわすというのがありました。私の推測ですが、海水を指さしてこれはなんだと言ったときにwaterだと聞いたのを海と勘違いしたのではと思います。ワタで通じたと感じただけのような気がします。基本単語でもずれて伝達された可能性が大きく、単純に比較できないのではという素人考えです。
アイヌ語とか古い時代の朝鮮語とかわかっていないので、おかしなところもあると思いますが、直感的には一つの説として成立しそうではあります。
 膠着型ですが、英語ではI,my、meのような変化ですが、日本語の私は、私の、私にのように、「私」が基本にあって、「は」、「を」、「に」などがくっつく形式のことをいうようです。朝鮮語も元から膠着型のようです。

朝鮮語との関係について、追加です。
 世界言語のなかの日本語 ー日本語系統論の新たな地平ー、松本克己著、三省堂発行
上記の本では、朝鮮語と日本語が近いような記述があります(全部見ていないのでニュアンスが違うかもしれません)。
178頁に、日本語と朝鮮語の間で指摘されてきた”共通語彙”とされるものには、数詞、身体人称、親族名称などの基礎語彙ではなく、むしろ農耕関係その他の文化的な語彙が多く含まれている。これも両言語の緊密な接触を物語っていると言ってよいだろう。たとえば、
日本語 pata「畑」、nata「鉈」
朝鮮語 pat 「同」、nat 「同」
・・・ほかの例は省略。
 これらは同源語に遡るというよりも、むしろこの時期に行われた言語接触・借用関係によって生じたとみなすべきであろう。
とありました。百済滅亡に伴う難民が日本へやってきたこととつながるような気がしました。この本では古い時代のように書いていますが、7世紀の影響ではないかと思えてきました。


枕詞

「安い」を調べていて、近くに「やすみしし」という言葉がありました。「八隅知し・安見知し」で、わが大君などのかかる枕詞とあります。
枕詞はデジタル大辞泉では
1.昔の歌文、特に和歌に用いられる修辞法の一つ。一定の語句に冠してこれを修飾し。または語順を整える言葉。普通は五音、まれに三音。四音などのもある。例として、あしひきの、たらちねの、ひさかたのなどがあげられている。
とあります。
「あしひきの」であれば、「山」にかかり、「たらちねの」であれば、「母」に、「ひさかたの」では「天空に関するもの」に限定された結びつきにあるということです。
 冗長的な表現であり、なぜこのような表現が出てきたかということが疑問です。しかし、枕詞の説明で納得いくものは見つけられませんでした。普通に考えると、言葉がくどくなるのは、うまく伝達できないので繰り返したり、言い換えたりしてきます。”アメリカの「あ」”というようなもののように私には思われてきました。
ひょっとして、この時代、日本語が確立してなくて、コミュニケーションがうまくいかず、日本語の生成期にあったのではと思われてきました。想像ですが、百済滅亡の時、多くの人が難民として日本にやってきました。この中で、その他大勢のグループから安田の名字の人が生まれたというのが安田仮説ですが、役人とかに取り立てられた人のことは考えていませんでした。元から日本にいた人と渡来人との間にコミュニケーションがうまくいってなかったと思われます。枕詞は正確なコミュニケーションを求めて、できたものではとの想像です。
クレオール語と日本語、田中克彦著、岩波書店
この本で比較言語学の項で、面白いことがかいてありました。
互いによく似た構造の言語を比較して、共通の祖先を仮定し、そこからどのような変化をへて現状にいたったかを、厳密な方法を用いて研究するのが比較言語学というそうです。他の言語と混じり合わないことを前提としています。
比較言語学の方法にたつ言語系討論は、たとえて言えば、言語学における万世一系の天皇制を主張しているようなものです。そうではなくて、すべての言語は混じりあうことで変化し、発展してきたと言ったのがクレオール学の祖と呼ぶべき、フーゴ・シューハルトであった。音韻法則の虚構性をバクロした・・・
比較言語学ではうまくいかないということのようです。

安いの追加

日本語源広辞典、増井金典著、ミネルヴァ書房より
やすい{安い}
 語源は、ヤスム(別項)参照ください。「ヤスム(休)ヤスラカ(安)と同根のヤス+イ」です。購入時不安のない価格が「安い」の語源となります。
と書いてあります。その後には安のつく関連地名姓氏で安などは、洪水がなく、水利の良い地、清らかな水の豊かな集落、その一族とあります。安田・保田も水害のない農耕集落とあります。昔ならそうかなで終わりますが、
日本書紀に天の安田が書かれていること、唐の都の長安にいる人に読まれることを意識していること、組紐の安田組などあり、もう少し粘りたいと思います。

別項のヤスムですが
やすむ[休む・息む] ヤスムの語源は、次の二説があります。説1は、「安しの語幹+む」です。心身を安らかにする、意です。説2は、「屋+住む」です。二説いずれも、休む、家で休憩、意です。休らうも同源です。中国語源【休】・・「人+木」。人が木陰にいるが語源で、休む意。【息】・・「自(鼻)+心」。鼻から息が出ているのが語源で、ヤスム。憩う意。
と書いてあります。説2は、どうかとは思います。住む→休むなので、どういう時間差で生じたかのかとか、家の中であっても休む以外に翌日の仕事の準備をしたりといろいろなことが考えられますが、休憩するという意味に特定された必然性が感じられません。家の中で休むことを良しとしても、範囲がいつから外でも休むということまでひろがったかとか、どうだろうと思います。
安らかの項に、中国語源【安】の説明があります。「宀+女」。家に女がいてくれると、すべて安らかである。
とあります。中国語源はもっともらしさがありますが、語源というのは、こじつけっぽいところがあります。
「購入時に、不安の無い状態から安いが低価格の意味」だと考えている人がいたのはうれしいですが、説得力のないことを言ってるのかとも思いました。

2018年6月24日日曜日

安いの意味

 安いの意味として、低価格の意味があります。
広辞苑第7版、新村 出編、岩波書店の「やすい」をみると
[安い・易い]とあり安の方には
①悩みがない。心のどかである。②安心だ③平易である④かるがるしい⑤廉いとも書く、品物の量や質の割に値段が低い・・・
とあります。
 字統 普及版、白川静著、平凡社の「安」の項には
アン、やすらか・おく・いずくんぞ
とあり、途中は省きますが、最後に安価・安易のように用いるのは国訓である。
とあります。
 デイリーコンサイス日中辞典を見ると
安いには便宜、低廉とあって「安」の字は出てきません。日本で、低価格の意味が追加されたようです。
 どうして日本で低価格の意味ができたか、考えてみました。安いには元々、心のどかであるという意味があります。貨幣経済の発達で、物を買うときに値段の高低が大事になります。たとえば時価とあれば精神的に不安になります。値段が低ければ、精神的に安定します。安いには安心の意味があったのではと思います。「安心価格」から安いということになったかもしれません。
 ひょっとしてと思い、cheapについて英和辞典を見ました。
①(現行値段・実際の価値より)安い②努力なしで得られるとかの意味で、俗語的にa気分が悪いb恥ずかしい、きまりが悪い、しょげた
とあって、良い意味ではありません。
 安心と低価格の二つの意味を持つ言語が日本語以外にあるかですが、
だめなもの・・・英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語、イタリア語、ロシア語、中国語などのようです。ほかの言語であるかどうかはわかりません。語学に不得意なもので、ぱっと見ですので、間違いの可能性はもちろん高いです。
 たまたま、インドネシア語のところで
安いをmurahというそうですが、逆にmurahで見れば、廉価な、安いという意味のほかに、寛大な・幸運なの意味があるようです。探せば日本語と同じように、低価格・心安らぐの意味を持つ言語があるような気もします。
 感覚的には、売買行為で国民性が表れているのかもしれません。日本では、ぼったくりを恐れ、インドネシアでは感謝の雰囲気を感じます。安いという意味だけで無く付随的な意味が言語によってあるということで、正確に翻訳する(ニュアンスを伝える)のは難しいということも感じます。

2018年6月23日土曜日

方言の東西対立

 日本語の歴史1、方言の東西対立、柳田征司著、武蔵野書院の「おわりに」を見ての感想です。
 この本では、日本語は中部地方を境界に東西で異なるがそれは古い時代からのものではないということのようです。習った、習うたの促音便とウ音便の違いは江戸時代以降と書いてあります。買うといった場合に「買って」と「買うて」の違いは、物々交換の時代の言葉ではなく、貨幣経済が盛んにてからの言葉のはずで、多分平安時代以降の話だと思われますのでそうかなという気がします。方言の違いが古代の歴史を調べることに直接はつながらないということになります。今まで勘違いしていたと思いました。
 n人のグループで挨拶とかすることを考えます。だれか一人は(nー1)人と挨拶します。n人ではn*(nー1)回の挨拶が発生することになります。少し面倒なので、自分にもつぶやきで挨拶するとすれば、n*n回の挨拶になります。10人のグループでは10*10=100回です。100人のグループでは100*100=10000回になります。人数では10倍ですが挨拶の回数では100倍になります。人数比をrとすればr*rになります。言葉の変化はできるだけ合理的なものを目指していくと思いますが、使っている言語を維持しようとする力が働くので、突然変異的に変化するのではと想像します。すると10人のグループと100人のグループでは、可能性として後者の方が100倍変化しやすいことになります。人口が集中した地域ほど変化の具合が大きいということです。単純には奈良・平安時代は西日本、最終的には江戸時代には東日本の変化の影響が大きかったということのように思われます。
 この考えを発展させると、少数者の言語の方が変化が小さいことが予想され、古い時代の言語を調べるには、大事になってきます。日本語の原点は奈良時代より前の時代にあり、その前の時代はアイヌ語の方が近かったかもしれません。
 アジアの言語でも、古い時代は周辺地域のSOV形式だった可能性は高かったと思われます。

2018年6月20日水曜日

アジアの言語の起源

 日本語の起源から、考えていて、
嘘っぽい図を作ってみました。SVO(赤)とSOV(緑)の言語の地域です。


 中国がSVOで赤が目立ちます。昔の満州といわれる地域はSOVだったので、緑っぽい楕円であわしています。かなり不正確な図ですが、赤の地域を緑の地域が囲んでいるように私には見えます。初期的な音声の言語はSOVが優勢であったのが、中国の文字の発生でSVOが優勢になって広がったと考えて整合性があるように思えます。日本では漢字を受け入れたのですが、語順については返り点などで抵抗しています。東南アジアの国ではSOVからSOVになってしまったと思いたいですが、語順は変化しにくいと思われるので、そうした時の理由が出ません。東南アジアでは華僑という人たちがいます。おそらく、交易で、品名・数量・価格など文字を利用する人たちの方が、文字を持たない人よりも有利であったと思います。日本に中国からの商人が来ても目立たなかったのはなぜかという疑問はあります。
 妄想ですが、最初は音声のみの言語SOVでアジア地域に広がり、数千年前にたまたまSVOの地域で漢字が作られ、それが中国を中心に広まったのではと想像します。アイヌ語も元々は日本語と同じような言語であったものが、日本語に文字が導入され、アイヌ語は導入されなかったことで、日本語とアイヌ語で違いがっでたのではとの思いつきです。もちろん根拠はありません。日本ではSOVの語順が残り、東南アジアではSVOの語順に変化した違いについて、中国からある程度の人数の移動がなければ説明できないので説得力はありません。

音声だけの言語と、文字を持つ言語の違い
伝言ゲームのようなことを考えれば、音声だけでは正確には伝わりにくいと思います。音声のみならば、国の勢力範囲は人間の一日の行動範囲ぐらいのような気がします。文字があれば、このゆな制限は考えられません。文字だけの言語は小さな地域に留まる可能性が高いと思われます。たとえば、古墳時代に文字が無かったと考えれば、統一的な日本ではまく、ゆるやかな連合組織の方が整合性があると思われます。

2018年6月16日土曜日

危機言語

言語の歴史を考えていて、危機言語といいうことを知りました。
世界には、現在約7,000の言語が話されています。その約半数は話者数が6,000人以下の言語です(いわゆる少数民族語)。さらにその中に、話し手がごくわずかしか残っていない言語がおよそ450あることが知られています。これらの言語は、政治経済的・文化的に優勢な大言語に圧倒されたり、より勢力のある周囲の言語に圧迫されたりして、いま地球上から急速に消滅しつつあります。「危機言語」とは、存在自体が消滅の危機に瀕している、このような諸言語のことです。リンク先

優勢な言語が劣勢な言語を駆逐していくということのようです。
 それで、ランチェスターの法則を思い出しました。図書館から借りてきた
  自然の数理と社会の数理 ーー微分方程式で解析するⅠ、佐藤總夫著、日本評論社
を見ています。ランチェスターはエンジニアで航空工学で貢献した人のようです。戦の数学モデルを考えたパイオニアとのことです。詳しいことはこの本を見てもらえれば良いのですが、私なりの理解で進めたいと思います。
 話を単純化して、同等のパンチ力を持った人がけんかすると考えます。単位時間にパンチを一回繰り出すことができるとします。けんかは1人と2人です。単位時間に2人は一発づつ、計2発を1人に加えるのに対し、1人のほうは2人に対してどちらか1人にパンチを繰り出すことになります。2人目はもう1単位時間が必要になります。単位時間で考えれば、2人に対して0.5発のパンチを与えたと考えることができます。ダメージで言えば、1人の方は2発を受け、2人の方は0.5発の影響になります。つまりダメージの比率は1:4となります。1人と3人では、この比率は1:9となります。人数の二乗で効いてきます。
これで、この本の
   戦闘力=武器の性能×(戦闘員数)^2
の式になるとして良いだろうとなります。武器の性能ですが素手の場合は1ですが、武器を使うことにより、戦闘力を増すと言うことです。たとえば、10人と7人で戦う場合、素手であれば、戦闘力は100:49ですので、ほぼ2倍の差になります。素手であれば相手の2倍の早さでパンチを繰り出すとかしないと少数のグループは対等に戦えないことになります。なかなか大変ですので、武器を使って、たとえば2倍の戦闘力にしないといけないということになります。
 言語の場合も同じように考えられます。1人と2人とでコミュニケーションを取る場合を考えて
   影響力=伝達手段の性能×(言語を話す人数)^2
のように思われます。(単に思っているだけで証拠的なものはありません)
 ランチェスターの法則の式の恐ろしいところは、少数派の全滅には、多数派の損失がそれほででも無いということにあります。この本には、紅軍100人と白軍50人が戦った場合、白軍50人全滅の時に、紅軍の損失は14人に留まるということです(80-81ページ)。これを、言語に当てはめれば、少数者の言語はどんどんグローバル化により、多数派におされ消滅していくことになります。上の式で伝達手段の性能というものを使っていますが、これは音声と文字の意味です。文字を獲得した言語とそうでない言語では圧倒的な差があるということです。文字を持たない少数派の言語は消え去るしかありません。今は、グローバル化によって英語の地位が上がっていると思います。英語が優れた言語とは思いませんが、文字を持ち、さらにネットとかで、伝達性能があがれば、格差がますます広がると思います。言語の統一化(英語化)が進むはずです。伝達手段がどの言語でも平等になるためには、それぞれの言語を尊重した、おそらく自動翻訳的なものが必要になってくると思います(これぐらいしか思いつきません)。グーグルさんとかに頑張ってもらいたいものです。