2022年6月14日火曜日

古墳の写真(キトラ古墳、高松塚古墳、野口王墓古墳(天武・持統合葬墓))

 野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)の立地、藤原京」ですが、 

立地について、実際のところどうなのか見てきました。

キトラ古墳には以下の模型がありました。

写真1


この写真で頂上ではなく、充分に傾斜面に位置することがわかります。 ただモデルは高さ方向が強調されてるように見えます。 実際、以下のような感じです。

写真2


どの程度、元の姿が残ってるか不明です。

次に高松塚古墳です。

写真3


こちらはもう少しわかりやすく、古墳の左手が谷のようになっています。

最後が野口王墓古墳です。

写真4


ピンぼけです。しかし、矢印のところに鳥居が見えます。木々に覆われてわかりにくいですが、頂上にあることはわかります。キトラ古墳、高松塚古墳が奥まったところにあるのとは位置するところが全然違います。

参考:キトラ古墳と川原寺 

2022年6月12日日曜日

野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)の立地、藤原京

 『キトラ・高松塚古墳の星宿図 (ものが語る歴史シリーズ)』泉 武 、同成社 (2018/1/25)の第5章に野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)のことが書いてあります。 その前に、野口王墓についてはここ 

以下、先の本の引用です、214頁。

1 特異な古墳立地 当古墳が立地するのは、今城谷の東西方向の丘陵に、西から梅山古墳(前方後円墳・六世紀後半)、金塚古墳(方墳・七世紀中)、鬼の俎・雪隠古墳(長方形墳・七世紀後半)と続く東端に位置する。これらの三基は、古墳背後の丘陵頂部(標高約一一一から一一七メートル)には築かれず、南斜面をコ字形に造成して築造されている。梅山古墳は後期古墳の範疇であるが、金塚古墳と鬼の俎・雪隠古墳は終末期古墳に通有の立地である。

ところが、このなかで最後の古墳といえる野口王墓古墳は、標高一〇九・八メートル(古墳裾部)の独立丘陵頂部に築かれている。これは、終末期古墳の立地のセオリーを無視した占地であり、明日香南西部の丘陵地のなかで高い位置である。

コ字形の話ですが、以前のブログ記事で「キトラ古墳と川原寺」が、関連していると思います。野口王墓については埋葬儀礼の反響音などを無視していることになります。この場所でなければという別の強い理由があるということです。

219頁に、分布上の特徴として

岸が(一九七二)、その中軸線(※藤原京の中軸線)を南に延長すると、その線上に天武・持統を合葬した檜隈大内陵が正しく位置することを指摘した。野口王墓古墳からは、藤原京を目視することはできないが、現在の測量技術でも、この古墳は藤原京中軸線の延長線上に正しく位置するという(小澤・入倉二〇〇九)。

野口王墓古墳ですが、ジッグラッド のように見えてきます。占星台です。ここで天文観測を行った象徴的なポイントに思えます。書紀によれば、天武天皇は天武4年に日本で始めての占星台を作ってる可能性があります。

野口王墓がたまたま藤原京の南にあったのではなく、一連の流れの中で、このポイントがあって藤原京が造営されたことが考えられます。天武4年には都の計画が動いていたかもしれません。藤原京が残っておれば、宮都の基準点として大事にされ、都の計画・造営に主体となった天武天皇と持統天皇の記念碑になっていたはずです。

藤原京造営の基準点がここで、天武天皇は完成を見ることがなかったのですが、守護のポイントの占星台に王墓が作られたと考えるとすっきりします。天文遁甲の天皇としてふさわしいお墓であると思います。持統天皇が合葬されたのも当然な気がします。

参考

  • 岸俊男 一九七二 「文献史料と高松塚古墳」奈良県教育委員会・奈良県明日香村『壁画古墳高松塚』調査中間報告

  • 小澤毅・入倉徳裕 二〇〇九 「藤原京中軸線と古墳の占地」(財)飛鳥保存財団『飛鳥』一一一

大和名所図会に野口王墓が描かれているとのことですが、どこにあるのかわかりませんでした。どうも「倭彦命の窟(いわや)」がそうらしいです。メモっときます。自由に見学できた様子が描かれています。 大和名所図会の野口王墓? 

2022年6月10日金曜日

白虎

 白虎は四神の一つ、「びゃっこ」と読みます、「しろとら」ではありません。昔からそう発音したと思われます。しかし、「虎」は訓読みで「とら」です。日本には存在しない動物なのに「とら」とどうしてこのように読むのか疑問に思います。

虎について、

『日本国語大辞典第15巻』、小学館、昭和62年9月20日第1版第12刷発行 によれば

1.人里から離れて住む動物であることからトヲラカの反[名語記]。
2.恐ろしくてトラ(捕)まえられぬところからか[和句解]。
3.人をトラユル動物であるところから[日本釈名・和訓栞]。トル(採)の義[言元梯]。・・
4.朝鮮語からか[名言通・日本語源=賀茂百樹]。
5.虎の皮はマタラ(斑)であるところから、マタラの転か[類聚名物考・言元梯]。
6.朝鮮の古語で毛の斑を意味するツルの転[大言海]。
7.トは、虎をいう楚国の方言オト(於菟)から、ラは助語[箋注和名抄]。

とあります。こじつけが強くて説得力を感じません。外国語では虎をどう呼ぶか、以下にありました。

http://www.tekiro.main.jp/?eid=170647

https://takonote.com/animal/tora/

などです。韓国語の「ホランイ」が近そうですが、かなりの変化がありそうで、直接的ではありません。中国語では「老虎 ラオフー 」「虎  フゥ」です。「老」が付いた言い方もあります。先生とかも「老师Lǎoshī」といいます。「师」だけでも良さそうです。想像ですが、短い発音だとわかりにくく、「フゥ」だけではうまく伝わらないのではと思います。老虎もおじいさんのトラではないはずです。日本語でも音読みで「コ」と聞いてもわからないので、「トラ」をどこからか持ってきたと思います。漢字一般の日本にあった発音が訓読みになったのではなく、わかりにくい音読みの言葉に、訓読みをあとから作ったということになります。

白虎が、メソポタミアに起源を持つかということで、調べましたが、どうもなさそうです。オリエント世界ではトラは棲息してなかったのか関係なさそうです。ただ、チグリス川の「チグリス」が、ラテン語のトラの意味で、何かトラと関係ありそうなのですが、見つかりませんでした。

青龍

 四神の青龍、白虎、朱雀、玄武がキトラ古墳の石室内、東西南北の四壁の中央に描かれています。 青龍は、中国の伝説上の神獣で、青は東方、春などの意味を持ちます(ウィキペディアより)。

中国伝来とされてます。漢字では竜と龍がありますが、甲骨文字では龍より竜の方が古いようです。以下、

もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

星座にりゅう座があります。 以下の星座図鑑で見ると、7月頃の天頂にりゅう座の説明があります。星座絵にチェックを入れると、蛇のような形が出てきます。

神話・伝説 りゅう座は、紀元前1200年頃には「へび座」と呼ばれていたようで、古代ギリシアの時代に「りゅう座」になったと言われています。https://seiza.imagestyle.biz/natu/ryuumain.shtml

『星座の起源: 古代エジプト・メソポタミアにたどる星座の歴史』近藤二郎、誠文堂新光社 (2021/1/25)の261頁に図があります。

図2-25


ライオンの下に蛇がいますが、前足があり竜のように見えます。ほかに見つからないので特殊かもしれませんが、この図から竜のイメージがあったことも考えられます。

別の図がありました。『古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」』小林 登志子(著), 岡田 明子(著), 三笠宮 崇仁(監修)、集英社 (2000/12/10)の中に 「バビロンの龍」ムシュフシュとして、図が掲載されています。 ムシュフシュ像の変遷 
(以下のところからリンクしていますhttp://www.moonover.jp/2goukan/meso/god_list/mushyufushyu.htm ) 図の6番目が似ています。

龍とは何だろうと思いますが、『龍の起源』荒川 紘、紀伊國屋書店 (1996/6/5)にいろいろまとめられています。その中の120頁から、「中国の龍はシュメールにさかのぼれるか」の記述があります。

これまでは、東西の龍は独立に発生、独自な広がりをしめしたと考えてきた。殷代の黄河流域にはシュメールと同様な龍の生まれる条件ーー大河と強大な国家の存在とコブラの不在が備わっていた点を重視してきたのである。しかし、その条件はより古いシュメールの龍が中国にも伝来した可能性を否定するものでもなかった。・・・

中国に龍のあらわれる殷代の後期は、甲骨文をはじめ、青銅器、馬車、天文、暦法が出現した時代であった点も見過ごすことができない。これらの、政治権力とふかく関係する都市文明はメソポタミアに起源、中国に伝えられたと考えられるのである。なかでも私がとくに注目するのは馬車である。戦車として使用された馬車は、殷の王朝が強大な帝国を築くための最強の武器であり、王のシンボルであり、それゆえ、馬車は殷墟の墓にも副葬されていたのである。

中国の馬車は中国起源であるとの見方もなくはなかった。だが、殷墟の王墓に副葬された4頭立ての馬車の構造はメソポタミアの馬車と同一である。馬と馬車をつなぐ方法もまったく変わらない。しかも、メソポタミアの馬車は不合理な軛《くびき》を用いていたのだが、その不合理な軛がそのまま殷でも使用されていたのである。不合理な技術が独立に発生したとは考えがたい。ルートは不詳であるが、中国の馬車がメソポタミアにさかのぼれることは疑いない(拙書『車の誕生』)。

そうであれば、支配の道具であり、「帝王の学」であった天文・暦法もまた王朝の祭祀用として発達、龍文をはじめさまざまな装飾のほどこされた青銅器についても、西方からの影響を無視できないであろう。・・・

アフリカに生まれた人類が、世界中に拡散していった人類最大の旅路を、「グレートジャーニー」と言いますが、アフリカ出立して、そのあとにメソポタミア地域が起点となって、言語・宗教などを含めた文明を確立してインド・中国・エジプトなどに広がったような気がしてきます。昔は四大文明の一つと習ってましたが、多分違っているように思います。

2022年6月4日土曜日

古代の音響空間のイメージ、古墳での妄想

 新美の巨人たちで、「日比谷公園大音楽堂」が放送されていました。 

番組では音響的な話があって、ローマのコロッセオまで出てきます。

正面写真を以下リンクします。 

http://hibiya-kokaido.com/kokaido-yaon-image/stage-center.jpgより

写真でもわかると思いますが、観客席がすり鉢状になっていて、演奏者のところが拡声器のように見えています。宗教的儀式が行われても充分成立する音響空間です。ステージのまわりの壁も音が乱反射するように表面も粗くされているようです。イメージとして玉虫厨子の扉(内面に遷仏《せんぶつ》が並べられている)を開いたように見えてきます。遷仏も表面のでこぼこで音の乱反射を起こしているかもしれません。

前方後円墳も、音が上方に逃げて、祭祀儀礼が周辺に伝わりにくかったのが、キトラ古墳のような新しい形式では、音が反響するような音響空間になり、音響効果が全然違うということで、負けてしまい、すたれたように思えてきます。 キトラ古墳などは、前方後円墳に対し、革新的な埋葬方式です。ローマのコロッセオとつながりがあるかもしれません。

キトラ古墳と川原寺 の続きです。 

2022年6月3日金曜日

天頂星と古代の航法

 天文用語はわかりにくいです。星座の中で、黄道というのは太陽の通り道と説明されます。常識では星と太陽は別物に思いますが、昼間太陽の方を見ると実際は太陽と共に星座も光っているはずです。太陽に負けて目立たなくなってしまっているのかと勘違いしてました。どうも黄道は天球に地球の影を点で映したもののようです。実際には黄道の反対側に太陽があるということで仮想の軌道を示したのが黄道ということのようです。

「アストロアーツのWEBページ」に天文の基礎知識があります。星の位置は赤道座標で表します。

星の動き https://www.astroarts.co.jp/alacarte/kiso/image/120s.gif

さて、天頂ですが、上の図の観測地点の真上です。星は見かけ上、毎日動いているように見える(実際は地球が自転している)のが日周運動です。天頂を通る星があれば、これが天頂星になります。同じ緯度のところでは同じ天頂星が時間をずれて真上に観測できます。 この天頂星は、真東から出て真西に沈むのではありませんが、これも勘違いしてました。

この図の説明は以下のページです。

3.天球の回転 https://www.astroarts.co.jp/alacarte/kiso/kiso03-j.shtml

天頂星の概念になります。 『天文の考古学(ものが語る歴史シリーズ)』後藤 明、同成社 (2017/5/25)に書かれています。17頁です。

また天頂と関連して、天頂星(zenith star)の概念を紹介しよう。自分のいる場所の緯度が一致する星は天頂星、つまり真上を通る星となる。たとえば北極点ではほぼ北極星がほぼ天頂に輝くのである。北極星はほぼ動かないが、地球上の他の場所ではある季節に天頂星が真上を通る関係となる。たとえばポリネシアのハワイでは牛飼座のアルクトゥールス(アークトゥルスという表現もあり)、フィジーではシリウスが天頂星となる(図1-8)。これらの島を目指す航海師はその島の天頂星が次第に高くなるのを観察する。そして天頂に来たら島と同じ緯度にいることを知る。あとは西か東に行けば島にたどり着けるのである。

図1-8ですが、以下の図のリンク:http://www.glass-bead.org/wp-content/uploads/DysonStarsENG.jpg


 図の引用は以下から The Way of the Pacific: Glass Bead in conversation with Freeman Dyson Freeman Dyson


このイメージはそれぞれの地域には固有の星があるということです。その土地の守護星のように思われ、その地の運命を示すイメージにつながり、これが占星術に繋がっていくことになったのかという気がしてきます。とにかく、航海師は星と地域の関係を感覚的に捉えていたということです。

本当だろうかと思いますが、これを実際に実現したのが、チェチェメニ号です。
以下にあります。 チェチェメニ号の冒険


昭和五十年七月か ら翌年一月にかけて行われた沖縄の海 洋博に、ヤップ離島のサタワルからチ ェチェメニ号が沖縄まで来まして、そ の際、門田先生が『チュチェメニ号の 冒険』という映画にお撮りになって、 随分多くの賞をお取りになった映画で ございましたけれども、・・・

緯度航法と呼ばれるものが話されていて参考になります。

彼 ら の 航 法 と い う の は、 あ る 緯 度 の と こ ろ ま で 行 こ う と、 と に か く 上 が っ ち ゃ っ て、 そ れ か ら 真 西 に 行 け ば 日 本 列 島 へ 行 く ん だ と。 そ う い う 理 解 の 仕 方 で す か ら、 決 し て 三 角 形 の 最 短 距 離 を 行 こ う と い う の で は な し に、 ま ず 北 に 行 っ て、 そ れ か ら 西 へ 行 け ば い い ん だ と い う よ う な 形 で す

中国から日本への伝来で、朝鮮半島経由が絶対的に考えられていますが、中国から直接に日本に来ることもそれほど困難なことでは無いように思われてきます。

2022年6月1日水曜日

天動説とアンティキティラ島の機械

 日経サイエンス2022年5月号の記事で、「古代ギリシャの天文計算機 アンティキテラの機械」を見ました。 日経サイエンス2010.03にも特集されています。記事の引用です。

天文計算機 ギリシャの難破船で100年以上前に発見された「アンティキテラの機械」は、これまでに古代世界から見つかった技術的に最も複雑な品だ。紀元前205年から同60年の間に作られたとみられるこの青銅製の装置は、長さ約1mmの歯が並ぶ小さな歯車を数十個含んでおり、望みの時期の太陽と月、惑星の位置を予測するのに使われていた。

背面 装置背面には2つの大きな目盛盤と、複数の小さな目盛盤があった。上部の大きな目盛盤は、19年で234朔望月が繰り返す「メトン周期」に基づく暦だった。下部の大きな目盛盤は、223朔望月の「サロス周期」に基づいて、日食と月食が起こる日を予測した。

古代ギリシャの“コンピューター” アンティキテラの謎 

で放送されたようです。このページの中に細かい歯車の写真とかあります。

ウィキペディアの「アンティキティラ島の機械」とかに詳しく述べられています。 リンク切れが多いようですが、

この中に内部構造の図があります。図は以下にリンクしてます。この機械は天動説モデルをになっていますが、従円と周転円に見えます。惑星の順行・逆行を説明するモデルですが、実際に具体化したように見えます。この機械で、誰でも日食と月食を予測できるというのに驚愕します。天動説に対抗できそうに思えません。紀元前の話です。


  内部構造の図