日経新聞2020年4月22日朝刊文化面にあります。
縄文人や弥生人もゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。そのプロジェクト「ヤポネシアゲノム」が紹介されており、「2重構造モデル」が定説とされると書いてあります。このあたりよくわかっていませんが、プロジェクトの季刊誌「ヤポネシアン」の2020年3月号に「クラウドファンディングによる古代出雲人DNAの解析」が載ったと書いてます。(8ページくらいから)
この中で「三段階渡来モデル」を検証していくとあり、この説は
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斎藤教授は日本列島への渡来の波は大きく三段階あると提唱する。
第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』で日本語の祖語をもたらした人たちではないか。弥生時代が過ぎ、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた時期を第3波としている。第2波が徐福船団、第3波が秦氏一族の技術集団が渡来した時期と符合する。
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のようです。7世紀後半が重要な時代であるので、古墳時代の解明が進めば、出雲の存在がどのようなものであったかわかってくると思います。メモ書きです。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2020年4月29日水曜日
2020年4月22日水曜日
遷都と宗教
大まかに、藤原京→平城京→平安京と遷都されます。藤原京から平城京へは、遣唐使によって、唐の影響が強くなったと思われ、宮城の場所が、北の方に移動します。そして仏教が鎮護国家思想のもとに強化されます。感覚的ですが、藤原京では神道(ちょっと自信がなく道教的なものもあったかもしれない)から平城京の仏教に変化したように見えます。この時代も祭政一致の時代ですが、その元となる宗教が変化していると思われます。天武天皇から持統天皇は神道(道教?このあたり全然理解していません)であり、文武天皇からは仏教になります。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の時には神仏習合が進んでいますが、平安時代になりはっきりとします。天武天皇の時代から持統天皇~称徳天皇へと変質してきた体制に神道的な勢力と考えられる賀茂氏や出雲の勢力が平安京遷都に大きな役割を果たしたという気がします。京都の地名に出雲路がつくところがあります。これは出雲への道を示すものと考えられます。
わかりにくい図ですが、下鴨神社から西側(図の左方向)に賀茂川を渡る橋が出雲路橋です。この賀茂川に沿った道が、加茂街道で、道沿いに出雲路のつく地名があり、この道が出雲路であったと思われます。ついでですが、賀茂川を上っていくと雲ケ畑と言う地名のところがあります。この「雲」は分かる人には出雲の意味だと分かっていたのではないかと思います(注1)。出雲路は、平安京遷都の時代から出雲へのルートとして存在し、出雲の勢力が遷都に関与していたことの印になると思います(注2)。「畑」は秦氏であるとまでは言えるかはわかりませんが、「出雲のはたけ」的には考えられます。平安京遷都において、奈良仏教を受け入れなかったのも出雲の勢力との結びつきから考えられそうです。
注1
平安時代の「口遊《くちずさみ》」に当時の大きな建物として「雲太、和二、三京」とあり、1位が出雲大社、2位が東大寺大仏、3位が平安京の大極殿ということのようです。大きさについてはわかりませんが、意識として、出雲・奈良・京都を考えていて、出雲をトップにもってきています。出雲の復権がはかられた結果であるように感じます。
注2
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
雲ケ畑(くもがはた)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)源流域の名称で、同地域にかつて存在した愛宕郡雲ケ畑村(くもがはたむら)があった。
雲ケ畑の名前の由来
岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残る。雲ケ畑の畑は、秦氏と関係があるという説もある。
わかりにくい図ですが、下鴨神社から西側(図の左方向)に賀茂川を渡る橋が出雲路橋です。この賀茂川に沿った道が、加茂街道で、道沿いに出雲路のつく地名があり、この道が出雲路であったと思われます。ついでですが、賀茂川を上っていくと雲ケ畑と言う地名のところがあります。この「雲」は分かる人には出雲の意味だと分かっていたのではないかと思います(注1)。出雲路は、平安京遷都の時代から出雲へのルートとして存在し、出雲の勢力が遷都に関与していたことの印になると思います(注2)。「畑」は秦氏であるとまでは言えるかはわかりませんが、「出雲のはたけ」的には考えられます。平安京遷都において、奈良仏教を受け入れなかったのも出雲の勢力との結びつきから考えられそうです。
注1
平安時代の「口遊《くちずさみ》」に当時の大きな建物として「雲太、和二、三京」とあり、1位が出雲大社、2位が東大寺大仏、3位が平安京の大極殿ということのようです。大きさについてはわかりませんが、意識として、出雲・奈良・京都を考えていて、出雲をトップにもってきています。出雲の復権がはかられた結果であるように感じます。
注2
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
雲ケ畑(くもがはた)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)源流域の名称で、同地域にかつて存在した愛宕郡雲ケ畑村(くもがはたむら)があった。
雲ケ畑の名前の由来
岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残る。雲ケ畑の畑は、秦氏と関係があるという説もある。
2020年4月14日火曜日
出雲について
最近、出雲に興味を持っています。このブログでも今までも書いていますが、
飛んでいるところもあります。一応、出雲についての令和元年九月時点の考えを
下記jpgで示します。現在でもそれほど考えに変化はありません。メモ書きです。
投稿原稿として作成しましたが、書き直しを求められ、少し手直ししましたが
挫折しました。
最初は「安田」とアマテラスのことから復習です。長屋王の変はどうかと思われる方もおられるとは思います。天武天皇の時代になり、出雲の国譲りが行なわれ、神社の関係で出雲と天武天皇の勢力が強く結びついたが、持統天皇の時代には弱まったとの認識です。この文章では、仏教について述べていませんが、日本書紀の成立した時代には主となり、神道は従になっていくことになります。
飛んでいるところもあります。一応、出雲についての令和元年九月時点の考えを
下記jpgで示します。現在でもそれほど考えに変化はありません。メモ書きです。
投稿原稿として作成しましたが、書き直しを求められ、少し手直ししましたが
挫折しました。
最初は「安田」とアマテラスのことから復習です。長屋王の変はどうかと思われる方もおられるとは思います。天武天皇の時代になり、出雲の国譲りが行なわれ、神社の関係で出雲と天武天皇の勢力が強く結びついたが、持統天皇の時代には弱まったとの認識です。この文章では、仏教について述べていませんが、日本書紀の成立した時代には主となり、神道は従になっていくことになります。
2020年4月12日日曜日
天皇と仏教
大宝二年の中国と日本で記述しましたが、遣唐使が朝貢使であり、当時の日本を説明したものが日本書紀であったとすると、中国の仏教的な世界観を意識したものになったと考えられます。天皇の仏教への関わりがどうかを見ておきたいと思いました。
・舒明天皇
仏教的な記述はほとんどないが、十一年十二月に百済川の傍らに九重塔を建立、十二年五月に設斎(仏事のことらしい)を行い、恵隠僧《えおんほうし》を招請して、無量寿経を説かせた。とあります。十三年十月に崩御されるので、申し訳程度の記述になっています。
・皇極天皇
皇極元年に、秋七月に、諸社《もろもろのやしろ》を神を祭るが効果なしとて、蘇我大臣が仏教により雨を祈願したが、微雨であったので、読経は中止になり、八月に天皇は南淵に行幸し、祈ったところ大雨になったとあります。これは神道的なものと思われます。ところが天皇は九月には大寺を建立しようとあります。蘇我氏の滅亡に至る過程を記述するため混乱しているように見えます。皇極三年、中臣鎌足は神祇伯《かむつかさのかみ》を固辞して任につかずとあり、潤色とのことです。七月には、大生部多《おほふべのおほ》が村人に常世の神を祭ることを勧め、そのため貧困になったので、秦河勝が討ったとあります。そして、理解しがたい話の後に、蘇我氏滅亡の項になります。天皇は軽皇子に皇位をお譲りになり、中大兄を皇太子とされます。皇極天皇も仏教にそれほど関与していないように描かれています。
仏法を尊び、神道を軽んじられたとはっきりと記述されます。実際には神道的な部分が含まれているようです。
・斉明天皇
皇極天皇が皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明天皇になられています。斉明元年五月に、竜に乗って空飛ぶ者が西に向かって馳せ去ったとあり、よいイメージではありません。斉明三年には須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また盂蘭盆会を営んだとあります。後半には百済滅亡から百済救援の話になり、天皇の征西で朝倉宮に遷り、崩御されます。この時に朝倉山に鬼が現われ、喪儀を見守ったとあります。仏教にそれほどの関与はなさそうな記述です。
・天智天皇
皇太子時代で称制と百済救援の話で、仏教はでてきません。白村江の敗戦の後ですが、天智六年に近江に遷都。天智七年に天皇に即位。仏教的な話は出てきませんが、天智十年十月に諸々の珍宝を法興寺の仏に奉納された。とあります。十二月には近江宮で崩御されたとあります。
・天武天皇
天文・遁甲にすぐれておられたとあります。遁甲とは術数の一種、陰陽の変化に乗じて人目をくらまし身体を隠し、吉を取り凶を避ける術。最初の部分ではあまり仏教とは関係なさそうですが、出家して吉野に入るとあるのでそうでもないように記述されます。天武二年三月に、書生を集めて、初めて一切経を川原寺で写させた。四月には、大来皇女《おおくのひめみこ》を天照大神宮《あまてらすおほみかみのみや》に遣わして仕えさせようとお考えになり、泊瀨斎宮《はつせのいつきのみや》に住まわせた。とあります。十二月には神官の語が見える。これは大宝令制の神祇官の前身宮司とのこと。これ以降、神仏が混ざっているように思われます。最後の方は、やはり神道ではなく仏教的な記述が多くなるように感じます。
・持統天皇
特に、神仏については述べられていませんが、天武天皇のために、無遮大会《むしゃだいえ》を五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田で営んだ。とあります。無遮大会は全ての人に布施する仏事で、この後も仏教を前提とする話になっています。持統四年の即位の時には、神祇伯中臣大島朝臣が天神寿詞《あまつかみのよごと》を読んだ。とあり、神事であるようです。しかしながら持統五年二月には天皇は「天武天皇の時代には仏殿・経蔵を造って、毎月六斎を行なった。・・我が世もそのようにしたい。それゆえ誠心誠意仏法を信奉せよ」と仰せられた。とあります(朱鳥元年一二月)。これ以降は見ていませんが、基本的には仏教を取り入れているというアピール感はあります。
パラパラと次の本を見ています。
『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4、一九九九年第一版第二刷発行、小学館
・舒明天皇
仏教的な記述はほとんどないが、十一年十二月に百済川の傍らに九重塔を建立、十二年五月に設斎(仏事のことらしい)を行い、恵隠僧《えおんほうし》を招請して、無量寿経を説かせた。とあります。十三年十月に崩御されるので、申し訳程度の記述になっています。
・皇極天皇
皇極元年に、秋七月に、諸社《もろもろのやしろ》を神を祭るが効果なしとて、蘇我大臣が仏教により雨を祈願したが、微雨であったので、読経は中止になり、八月に天皇は南淵に行幸し、祈ったところ大雨になったとあります。これは神道的なものと思われます。ところが天皇は九月には大寺を建立しようとあります。蘇我氏の滅亡に至る過程を記述するため混乱しているように見えます。皇極三年、中臣鎌足は神祇伯《かむつかさのかみ》を固辞して任につかずとあり、潤色とのことです。七月には、大生部多《おほふべのおほ》が村人に常世の神を祭ることを勧め、そのため貧困になったので、秦河勝が討ったとあります。そして、理解しがたい話の後に、蘇我氏滅亡の項になります。天皇は軽皇子に皇位をお譲りになり、中大兄を皇太子とされます。皇極天皇も仏教にそれほど関与していないように描かれています。
仏法を尊び、神道を軽んじられたとはっきりと記述されます。実際には神道的な部分が含まれているようです。
・斉明天皇
皇極天皇が皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明天皇になられています。斉明元年五月に、竜に乗って空飛ぶ者が西に向かって馳せ去ったとあり、よいイメージではありません。斉明三年には須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また盂蘭盆会を営んだとあります。後半には百済滅亡から百済救援の話になり、天皇の征西で朝倉宮に遷り、崩御されます。この時に朝倉山に鬼が現われ、喪儀を見守ったとあります。仏教にそれほどの関与はなさそうな記述です。
・天智天皇
皇太子時代で称制と百済救援の話で、仏教はでてきません。白村江の敗戦の後ですが、天智六年に近江に遷都。天智七年に天皇に即位。仏教的な話は出てきませんが、天智十年十月に諸々の珍宝を法興寺の仏に奉納された。とあります。十二月には近江宮で崩御されたとあります。
・天武天皇
天文・遁甲にすぐれておられたとあります。遁甲とは術数の一種、陰陽の変化に乗じて人目をくらまし身体を隠し、吉を取り凶を避ける術。最初の部分ではあまり仏教とは関係なさそうですが、出家して吉野に入るとあるのでそうでもないように記述されます。天武二年三月に、書生を集めて、初めて一切経を川原寺で写させた。四月には、大来皇女《おおくのひめみこ》を天照大神宮《あまてらすおほみかみのみや》に遣わして仕えさせようとお考えになり、泊瀨斎宮《はつせのいつきのみや》に住まわせた。とあります。十二月には神官の語が見える。これは大宝令制の神祇官の前身宮司とのこと。これ以降、神仏が混ざっているように思われます。最後の方は、やはり神道ではなく仏教的な記述が多くなるように感じます。
・持統天皇
特に、神仏については述べられていませんが、天武天皇のために、無遮大会《むしゃだいえ》を五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田で営んだ。とあります。無遮大会は全ての人に布施する仏事で、この後も仏教を前提とする話になっています。持統四年の即位の時には、神祇伯中臣大島朝臣が天神寿詞《あまつかみのよごと》を読んだ。とあり、神事であるようです。しかしながら持統五年二月には天皇は「天武天皇の時代には仏殿・経蔵を造って、毎月六斎を行なった。・・我が世もそのようにしたい。それゆえ誠心誠意仏法を信奉せよ」と仰せられた。とあります(朱鳥元年一二月)。これ以降は見ていませんが、基本的には仏教を取り入れているというアピール感はあります。
パラパラと次の本を見ています。
『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4、一九九九年第一版第二刷発行、小学館
2020年4月9日木曜日
舒明天皇
推古天皇を継いだ天皇です。以前に推古天皇=持統天皇、舒明天皇=文武天皇ではないかと考えていましたが、日本書紀を見ていませんでした。推古天皇の皇太子豊聡耳尊が薨去された。その後、天皇が崩御され、天皇の後継が決まっていなかった中で、舒明天皇になった皇位継承の話が主として述べられています。おそらくこれは、持統天皇から文武天皇への皇位継承がスムーズに行かなかったことを反映していると思われます。業績については簡潔に述べられているようです。舒明天皇八年秋七月に、卯の時(午前五時)に参朝、巳時(午前九時)に退朝させよとあります。 『隋書』倭国伝に「倭王、天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時に、出でて政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち停む。・・・を意識してあわしていると思われます。
重要なのは、皇后の宝皇女が、二男一女をお生みになり、それが天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇であるということです。舒明天皇の「舒」の意味は、「のべる。のばす。のびる。ひろげる」で例として「舒巻」「舒展」があるようですが、名前の通りこの天皇から皇統の展開が明らかになると淡海三船は意味づけたことが考えられます。書紀の意図する歴史、壮大なフィクションが始まるとしているように思われてきます。
重要なのは、皇后の宝皇女が、二男一女をお生みになり、それが天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇であるということです。舒明天皇の「舒」の意味は、「のべる。のばす。のびる。ひろげる」で例として「舒巻」「舒展」があるようですが、名前の通りこの天皇から皇統の展開が明らかになると淡海三船は意味づけたことが考えられます。書紀の意図する歴史、壮大なフィクションが始まるとしているように思われてきます。
2020年3月31日火曜日
祭政一致と仏教
祭政一致とは、祭祀と政治とが一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。ということです。
古い原始時代のことに思っていましたがそうでもないような気がしてきました。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月を見ています。
この本の第2章に梁の武帝(在位五〇二~五四九)が信仰心から菩薩戒を受けていて、捨身(帝位を退く)→涅槃業解説→還御(帝位に戻る)→大赦・改元をして、仏教による国家の結集を図ったという、高度に政治的な行為であったという(p。55)。周辺諸国は、中国に対し、仏教を活かした朝貢を行なうということである(p。57)。というようなことが書かれています。これは、仏教による祭政一致であろうと思われます。ということは、日本での仏教公伝というものも、単なる宗教の伝播ではなく政治体制に直結した仏教による同盟国家生成のものであったことが考えられます。
六〇〇年の遣隋使の時には日本側には仏教の雰囲気はありません。隋書東夷伝、倭国条には
「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、跏趺《かふ》して座し、日が昇ると政務を停め、『我が弟にゆだねよう』と言っております」と説明し、高祖(文帝)は「たいへん義理(道理)のないことである」と言ったとのことである。この本には、日中でやりとりに誤解があったかもしれないが、仏教色は希薄であると書いてあります(p.69)。この時代(七世紀まで)の日本が原始宗教的であるように思われ、仏教公伝が五三八年とか五五二年とかにあったとは考えられません。
六〇七年の遣隋使には仏教を受容するものになったようです。ここで、鴻臚卿(鴻臚寺の長官。寺だが、外国使節の接待および朝貢などをつかさどった役所のこと)が出てきますが(p.76)、「寺=役所」であれば、これは仏教を取り込んだ祭政一致の社会のような気がします。
孝謙天皇の時の遣唐使では、鑑真を招き、聖武太上天皇・光明皇大后・孝謙天皇たちは菩薩戒を受けている。3人の受戒は、唐の皇帝たちが、鑑真の師匠筋の僧侶から菩薩戒を受けたことを先例とするとあります(P.162)。日本でも、祭政一致が完全に仏教に変化しています。
平安時代に、神仏習合というものが現れますが、これは遣唐使を廃止し、唐の影響が小さくなってから段々と広がっていったことに対応していて、「唐の支配=仏教の支配」が神道派の盛り返しで、成立しなくなったと考えられるのかもしれません。
古い原始時代のことに思っていましたがそうでもないような気がしてきました。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月を見ています。
この本の第2章に梁の武帝(在位五〇二~五四九)が信仰心から菩薩戒を受けていて、捨身(帝位を退く)→涅槃業解説→還御(帝位に戻る)→大赦・改元をして、仏教による国家の結集を図ったという、高度に政治的な行為であったという(p。55)。周辺諸国は、中国に対し、仏教を活かした朝貢を行なうということである(p。57)。というようなことが書かれています。これは、仏教による祭政一致であろうと思われます。ということは、日本での仏教公伝というものも、単なる宗教の伝播ではなく政治体制に直結した仏教による同盟国家生成のものであったことが考えられます。
六〇〇年の遣隋使の時には日本側には仏教の雰囲気はありません。隋書東夷伝、倭国条には
「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、跏趺《かふ》して座し、日が昇ると政務を停め、『我が弟にゆだねよう』と言っております」と説明し、高祖(文帝)は「たいへん義理(道理)のないことである」と言ったとのことである。この本には、日中でやりとりに誤解があったかもしれないが、仏教色は希薄であると書いてあります(p.69)。この時代(七世紀まで)の日本が原始宗教的であるように思われ、仏教公伝が五三八年とか五五二年とかにあったとは考えられません。
六〇七年の遣隋使には仏教を受容するものになったようです。ここで、鴻臚卿(鴻臚寺の長官。寺だが、外国使節の接待および朝貢などをつかさどった役所のこと)が出てきますが(p.76)、「寺=役所」であれば、これは仏教を取り込んだ祭政一致の社会のような気がします。
孝謙天皇の時の遣唐使では、鑑真を招き、聖武太上天皇・光明皇大后・孝謙天皇たちは菩薩戒を受けている。3人の受戒は、唐の皇帝たちが、鑑真の師匠筋の僧侶から菩薩戒を受けたことを先例とするとあります(P.162)。日本でも、祭政一致が完全に仏教に変化しています。
平安時代に、神仏習合というものが現れますが、これは遣唐使を廃止し、唐の影響が小さくなってから段々と広がっていったことに対応していて、「唐の支配=仏教の支配」が神道派の盛り返しで、成立しなくなったと考えられるのかもしれません。
2020年3月27日金曜日
大宝二年の中国と日本
大宝二年の遣唐使というのは正確ではないとのことです。当時、中国の王朝名が唐から周に変わっており、中国唯一の女性皇帝、則天武后(在位六九〇~七〇五)に使者達は驚愕したという(『続日本紀』慶雲元年七月甲申条)。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月、一三五頁ぐらいからを見ています。
遣唐使が則天武后に国号を「日本」と改めたい願い出て、それを許可されたとある。この日本の意味であるが、かっては太陽の昇るところを意味し、唐に対する対等ないしは超越を主張したとの通説があった。それが当時の唐では中国から見た極東を示す言葉にすぎず、この「日本」は、中国の世界観を受け入れることで、唐(大周)の国際秩序に極東から参加する国としての立場を明示する国号であった(東野治之)。これは、多分東野治之「日本国号の研究動向と課題」、(『史料学深訪』岩波書店、二〇一五年、初出二〇一三年にあると思われます。決して唐への対等、優越を示したものではなかった。
ということのようです。
一四三頁には、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣されたとすれば、これはまさしく朝貢国にふさわしい態度である。・・・とあります。
山尾説は、これも多分ですが、
山尾幸久、「遣唐使」(井上光貞ほか編『東アジア世界における日本古代史講座6 日本律令国家と東アジア』学生社、一九八二年)のことだろうと思います。
則天武后の時代が持統天皇(在位六九〇~六九七)と重なります。『日本書紀』での持統天皇の神格化でアマテラスが生まれたのも、遣唐使の影響を受けたからではという気がします。日本書紀は中国の唐向けということになります。その後も、女性の天皇が多く出てきますが、則天武后の影響が大きく、続いたような気もします。聖武天皇の時代も実際は不安定であって、遣唐使を通じた唐の権威を頼らなければ成立しない時代であったかもしれません。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月、一三五頁ぐらいからを見ています。
遣唐使が則天武后に国号を「日本」と改めたい願い出て、それを許可されたとある。この日本の意味であるが、かっては太陽の昇るところを意味し、唐に対する対等ないしは超越を主張したとの通説があった。それが当時の唐では中国から見た極東を示す言葉にすぎず、この「日本」は、中国の世界観を受け入れることで、唐(大周)の国際秩序に極東から参加する国としての立場を明示する国号であった(東野治之)。これは、多分東野治之「日本国号の研究動向と課題」、(『史料学深訪』岩波書店、二〇一五年、初出二〇一三年にあると思われます。決して唐への対等、優越を示したものではなかった。
ということのようです。
一四三頁には、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣されたとすれば、これはまさしく朝貢国にふさわしい態度である。・・・とあります。
山尾説は、これも多分ですが、
山尾幸久、「遣唐使」(井上光貞ほか編『東アジア世界における日本古代史講座6 日本律令国家と東アジア』学生社、一九八二年)のことだろうと思います。
則天武后の時代が持統天皇(在位六九〇~六九七)と重なります。『日本書紀』での持統天皇の神格化でアマテラスが生まれたのも、遣唐使の影響を受けたからではという気がします。日本書紀は中国の唐向けということになります。その後も、女性の天皇が多く出てきますが、則天武后の影響が大きく、続いたような気もします。聖武天皇の時代も実際は不安定であって、遣唐使を通じた唐の権威を頼らなければ成立しない時代であったかもしれません。
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