2017年11月12日日曜日

万葉集、防人歌一首

東歌《あずまうた》・防人歌《さきもりうた》 近藤信義著、コレクション日本歌人選022、笠間書院
という本を見ました。この中に、東歌三十六首、防人歌十四首、解説などがあります。すべての防人歌の中で独自性が際立っているとしている歌を引用します。出典:万葉集・防人歌・四三八二

「ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がするときに防人に差す」

 「ふたほがみ」や「あたゆまひ」が良くわからないそうですが、「ゆまひ」が病のようで、訳として「ふたほがみは悪い人だ。私が不都合な状態にあって苦しんでいるのに、こともあろうに防人に指名するとは・・・・・・」とのことです。
 このような不満の歌はいくらでもあるかもしれませんが、大伴家持が握りつぶせば、世に現れることはありません。うっかりと入ったものではなく、家持の意思があったと思います。
この歌は、先の本には、巻二〇の天平勝宝七歳(七百五十五年)二月、東国十ヶ国から防人が徴集され、難波に集結したときの歌の一つです。家持は、兵部少輔の位にあり、検校《けんぎょう》(監査役)として関わり、防人は難波到着時に進歌(歌をたてまつること)を求められていたので、家持はこれを受け取ったということです。家持は、進歌の日付、部領使(引率責任者、国司相当の役職)の国名、官名、氏名、進歌数などをきちんと記録しているそうです。巻十四の防人の歌には名前が無いことから、家持ちは武人として防人を遇したあらわれであろうと書かれています。私には、家持が、防人と同じ環境(防人が侵略していった東国の元支配層の人のイメージ)にあるとの意識を持っていて、丁重な対応をしたように思われます。
 作者は下野国那須郡上丁大伴広成とのことです。大伴氏ということで、家持とは関係ある人かもしれません。また、家持が防人の歌に仮託して入れた可能性があるかもとも思います。体制を批判する歌がたくさんあれば問題ですが、一つだけ忍ばせているので、万葉集の歌を抜粋して選ぶときには、省かれてしまいそうです。ハンドブック的な本を見たりしていて、今回、近藤氏の本を見て、はじめて知りました。この体制批判的な問題発言の歌ですが、歌としては単に文句を言ってるだけなので、拙劣歌のように私には思われます。あえて拙劣歌を一首入れて、防人に文句のある歌がほかにもいっぱいあるよという暗示かもしれません。物言えば唇寒しの時代であったろうとは思います。このあと、天平宝字元年(七百五十七年)には東国からの防人は中止されたそうです。

2017年11月7日火曜日

戸籍、正倉院展(H29)の展示を見て

 第六十九回正倉院展図録、No.40の下総国《しもうさのくに》葛飾郡《かつしかぐん》大島郷《おおしまごう》戸籍です。実物は良く見てなかったので、図録を見ています。この古文書は官営の写経所で作られた事務文書や帳簿の裏で、元は政府機関で使用済みの公文書の紙背を転用したもので す。従って、古い時代の養老五年(七百二十一年)のものとされています。
 現在の戸籍と考えると全くの別物です。現在ある名字が出てきません。はじめて聞いたような穴王部《あなほべ》の姓がほとんどのようです。動物の名前のついた人物が多いのが特徴とのことです。現存地名との類似から、東京都葛飾区柴又に否定されているとのことで、古い時代の庚午年籍とかとは異なってきていると考えるしかありません。
 思い出して、前年、第六十八回の図録を持ち出して見ました。No.57に、大宝二年(七百二年)に作成された御野国《みののくに》加毛郡《かもぐん》半布里《はにゅうり》戸籍がありました。現在の岐阜県加茂郡富加町羽生とその周辺に否定されるそうです。フォーマットが違うようですが、こちらの方が戸籍の雰囲気があります。戸主だけでなく戸口とかもありました。読解力の無さで所々しかわかりません。奴や婢の文字もありました。奴婢《ぬひ》(賤民)は男子が奴、女子が婢というそうです。これは、侵略していった地域で、元からいたその地域の人を農奴として取り込んだのではと思えてきます。
 今に残っている名字と、この時代の戸籍とは全然結びつかず、大問題として残っています。サンプル数が少ないということで、これから考えていこうと思います。

2017年11月4日土曜日

安田組、組紐

 安田組は「あんだぐみ」と読みます。第六十九回正倉院展図録の最後の方の用語解説にありました。一間組《いっけんぐみ》を見よ、とのことでそちらを引用します。
「一間組・・組紐の組み方の一種。一条の進行経路が、他の条と交差するに当たり、他の一条の上に、また他の一条の下になりながら平面を形成してゆく。新羅組《しらぎぐみ》ともいう。なお正倉院の一間組は、組織を構成している各一条が、右撚《みぎよ》りの糸と左撚りの糸から成り立っており、一条があたかも一本の組紐のごとき様相を呈する点に特色がある。」
 これを見て、図録本文のどこにあるのだろうと最初から見ていきました。するとNo.51の雑帯《ざったい》(組みものの帯)にありました。丸い文様だったらどうしようと不安でしたが、斜め格子でした。手法の詳細はわかりませんが、とにかく格子であったので、万歳の気分です。安田組=格子模様ということです。 今までは、安田の「安」が、唐の都、長安の「安」を表し、その都が条坊制なので、それを取り入れた田んぼの安田が条里制の田を表すと、私自身は納得していたのですが、他の人にはわかってもらってない感じでした。安田組から安田=条里制の田ということが、確定したと思います。また、安田組という言葉があることから、奈良時代には多くの人に「安田」ということが認識されていて、格子状の用語として使用されていたということです。少し前の日本書紀の編纂された時代にも「安田」という言葉が一般であって、当時の人には条里制と理解されていたと思います。
 最後に安田組の文様を示します。

2017年11月3日金曜日

正倉院展

 今年も正倉院展に行ってきました。人出が多く、今回は少し遠慮がちに見学したので、細かく見れないところなどもありました。まあ仕方がないところもあります。正倉院展の図録を買ってきて、思い出しつつ書いています。
 表紙は、緑瑠璃十二曲長杯(ミドリルリノジュウニキョクチョウハイ)です。これは長横の側面に兎の姿を刻んでいるとの事でしたが、私には龍のように見えてしまい、うさぎとは思えませんでした。
 家に帰って図録を見れば、耳などがわかり、兎に見えてきました。その時は全然見えてなかったです。偏見を持つ体質かもしれません。
さて、今回の注目は、東大寺開田地図(越前国足羽郡糞置村田図) です。。No.38展示。

 今の福井県に、東大寺の開発した所領の図で、マス目は条里制を示しています。二枚目は一枚目の拡大図になっています。マスには番号が振られ、寺の表記が東大寺の所領で、百姓らしき表示が寺以外であろうと思われます。これは天平神護二年(七百六十八年)のもので、ほぼ同じものが天平宝字三年(七百五十九年)にあり、改めて七年後に本図が作成されたのは、国司等から不当な扱いをされたため、改めて寺領を確認するためのもので、左に越前国司と検田使(東大寺僧と造東大寺司官人で構成)の名があるとのことです。八世紀半ばで国司と寺とで領地争いがあったとのことです。

 先の図に対応したのが、東南院古文書第三櫃第十八巻(越前国司解)で、No.39に展示されていました。目録の解説によれば、越前国司が、同国の東大寺領を検田使と共に調査し、天平神護二年(七百六十六年)に、その結果をまとめたものである。天平勝宝元年(七百四十九年)東大寺領となったものが、その後、国司が勝手に口分田として住民に班給したり、郡司などの寺の使いに対する暴力行為、灌漑施設の破壊などがあり、寺側が訴え、太政官が越前国司に命じて、正しい形に復することになった。
とのことです。
 口分田(くぶんでん)とは、律令制において、六歳以上の男女へ支給された農地で、死後に返却するもので、税をそこから徴収することになります。墾田の文字もありました。墾田とは自分で新たに開発した土地のことで、墾田永年私財法が天平十五年(七百四十三年)に出されて、田地の開発が行われたようです。貴族・大寺院の私領化につながったとされますが、この頃には、口分田の不足などが墾田に紛れ込むなどの混乱があったように思われます。律令制が成立しなくなってゆく状況を示しているように感じます。このことにより、律令制の根幹となる戸籍が実態に合わなくなってきて、最終的にはなくなってしまったと考えられます。その結果、戸籍が成立した時代、律令制の時代が百年ほどでなくなってしまい、その大和の政権の領域が西日本に分布する名字分布として残ったということになりそうです。東日本などに広がる前にということです。
参考
第六十九回 正倉院展図録、八十四頁ー八十七頁
奈良国立博物館、展示案内、第六十九回正倉院展

2017年11月2日木曜日

竜山石

 兵庫県立考古博物館図録、「播磨国風土記」-神・人・山・海-
この中に、竜山石のことが載っています。
以下、抜き書きです。
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 近畿地方を中心とする古墳時代前期の大型古墳に使われた棺材といえば
長大なコウヤマキの丸太を刳り貫いた割竹形木棺最も普遍的なものでした。
一方、讃岐地方では前期後葉になると、さぬきに産する凝灰岩の一種である火山石や高松市の鷲の山石という安山岩を刳り貫いた石棺が開拓されます。鷲の山石製の石棺は河内の大型古墳でも採用が確認されており、大王墓の棺にも用いられた可能性があります。
 ところが中期に長持形石棺が大王墓の石棺として採用されると鷲の山石ではなく高砂市周辺で産する竜山石が使われ、後期の横穴式石室に納められる家形石棺では、竜山石製石棺は播磨一円のみならず、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がるのです。
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図録の168、竜山石製石棺と鷲の山石製石棺の図です。

 高砂市にある生石神社の巨大なご神体、石の宝殿についても、図録では670年頃の説が有力視されているとあります。
 石棺の分布図を見て、西日本に名字分布が偏っているのと重なってきます。これが戸籍ができた時代と重なってきて、古墳時代と律令制の開始の時代がつながってきたように思われます。

2017年10月29日日曜日

AI風 歴史エッ!声

 安田仮説改訂版を購入していただいたことに気がつきませんでした。
遅くなりましたが、お礼申し上げます。ありがとうございます。
 紙ベースで第3弾を考えてましたが、今回、結局、エッセイ風にまとめました。投稿のタイトルのものです。
 前回は電子書籍ですが、なんとなく見にくく、今回の実際にページを繰る方が良さそうに
思っています。問題はコストです。どうしたもんか考えています。
 プロモーション用の動画を作ってみました。明日までの制作予定と思っていたら、今日できてしまいました。何を言ってんのかというものです。



 

カズオイシグロ「忘れられた巨人」

 文学には興味ないので、ノーベル賞を取られたイシグロ氏については、全く知りませんでした。たまたま、テレビの「カズオイシグロの白熱教室」が再放送され、録画してたものをついつい見てしまいました。
 この本の内容についても、読んでないので、もちろんわかってはおりませんが、たぶん、白熱教室で話となった「忘れられた記憶」のことがテーマだと思います。その白熱教室で、歴史の問題の話があって、過去の過ちにつきあうのは難しい。思い出さない方が良いのか悪いのかということが出てました。例として、イシグロ氏は第2次大戦後のフランスを取り上げておられます。
 大戦中、フランスはドイツに占領され、その時にドイツ軍に協力する人と、反抗してレジスタンス運動を行った人と別れました。戦後、ドゴール大統領は、全員がフランスのために戦ったとして、偉大なフランスを目指すということで、対立を封印したそうです。この辺はちょっと違うかもしれません。とにかく、最近の事例でも、意識的に思い出さないようなことになっています。このことは、どこにでもあるような話かもしれません。
 安田仮説も、古い時代の話で、私は今まで意識していませんでしたが、天皇制の問題など日本のタブーに関係してきて、だれも望まないことをやっているような気がしてきました。古い時代のことは時効のように感じられてきているようには思います。今後の日本にとって、かさぶたでおさまっている傷口を開けることになる可能性はあるかもと感覚的に思っています。しかし、多くの人が納得する形で、今後は受け入れていかなくてはならず、段々と認められつつあるのだろうという気でおります。