2017年1月3日火曜日

中山寺と清荒神


 初詣に出かけました。さすがに人が多く、普段なら通り過ごすようなところも拝観出来ました。

中山寺

 華蔵院だったかに、中山寺再建の普請奉行の片桐且元の遺愛の庭がありました。中山寺略縁起によれば、秀吉の祈願により秀頼を授かったことから、子の秀頼が且元に命じ伽藍を再建したそうです。今回はお寺の中に石の櫃(イシノカラト)とよばれる古墳跡があるのを知りました。多分ですが創建時からあったものと思います。この横穴式石室が、何らかの女性的なイメージとつながり安産の寺となったのではと妄想しました。
 関係ないですが、新しい五重塔がありました。塔といえばくすんだイメージだったので、色鮮やかで感動しました。

 


 

清荒神
 
 参道からではなく迂回路からのお参りでした。途中に川西という地名を見つけ、これは多田源氏発祥の地の川西と関係があり、源氏と何かの縁があるのかと思いましたが、見間違いで川面というところでした。似た文字で親戚関係を表わすことがあるかもしれないので、ほかに事例があればと思います。
 清荒神ですが、かまどの神様ということです。なぜなのか考えていたのですが、多分ここも古墳の跡ではないかと思うようになりました。ホームページの境内案内に荒神影向(こうじんようごう)の榊というのがあります。「現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。」と書かれていますが、ぱっと見は賽銭泥棒のように思ってしまいびっくりします。
 そちらでは無く、周りが石垣で囲まれているのが注目ポイントです。古いものではないですが、創建時にはかまどのような形であったものと思います。「ご本社の背後には、当山開創に際し、荒神様がお姿を現されたと伝えられる「荒神影向の榊」があります。当時、この霊験の報告を受けた宇多天皇は、大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。」とホームページにありますが、当時、天井の方に穴のあいた古墳跡がここにあり、大きなかまどと見立てたのではとの想像です。
 
 当時、多田銀山の開発とか行われていて、ところかまわず発掘したなかで、お墓とかも認識していてそのままではまずいと思い、その後に、神社やお寺を作ったのではないかとも思えます。
 
 

2016年11月23日水曜日

安田が秋田県に多い(新潟県に少ない)理由

 以前から感じていたのですが、メモ書きで残しておきます。
 少し前のテレビの知恵泉で徳川家康が、今の江戸を開発したといっていました。昔は湿地帯であったのですが、天下普請で、全国から人を集め、開発したとのことです。手作業的なイメージでしたが、築城での石垣など、当時の土木建築作業は大工事も可能になるように進化していたと想像します。つまり、奈良・平安時代には江戸の町を作るだけの技術が無く、大和の政権が東に進出していくときに(海伝いに)、江戸の付近をパスしたように思います。同じことが、日本海側でも考えられます。奈良・平安時代には、新潟県の付近は新【潟】県というように湿地帯で開発困難な地域であって、ここをパスして秋田県へのシフトしたということです。秋田県で条里制の新田開発を始め、これが安田が秋田県に多い理由になるかもしれません。時代的には奈良・平安時代で、このときに宮中の追儺というか鬼遣らいの行事が伝わっていったと考えられます。それが、なまはげとなり、現在に伝わったとして、つじつまはあいます。東北の人を蝦夷のように呼んでいたので、現地の人を強制労働で開発していった、貧窮問答歌の世界があったのかもしれません。

2016年11月10日木曜日

『日本農業史』

木村茂光 編
吉川弘文館
ISBN978-4-642-08046-0


稲作中心の伝統的農業史観から、もっと多様で豊かな農業について書いてある2010年発行の本です。
農耕の始まりから古代・中世・近世と時代を追って専門の担当者に分かれていて、歴史を学ぶ上で改めて農業が重要なベースになっていることを実感します。
言葉で迷ったのでメモ
鍬(クワ)・・土を引っ掻く農具
鋤(スキ)・・土を引き起こすスコップのような農具で人力のもの
犂(スキ)・・上と同じだが、牛馬によるもの
図書館から借りて前半しか読めていないが31ページからの耕地の拡大の話は参考になりました。
古墳時代の巨大な前方後円墳と耕地の大開発とを短絡的に結びつける理解であって、『5世紀=大開発時代』説を裏付けることはできないらしいです(広瀬和雄:耕地の開発、古代史の論点Ⅰ環境と食料生産、小学館)
広瀬によれば
水田開発の時期の画期は二つあった。と主張しているとのこと。
第一段階は縄文時代晩期後半=弥生時代先Ⅰ期で、灌漑施設を伴う完成された水田稲作の技術体系が受容された時期である。第二は七世紀初頭で、畿内およびその周辺に.最新の技術を駆使した灌漑弘法ーー長大な灌漑水路とため池の建設ーーが定着した時期である。
第二の画期が一気生じたものではないらしい。広瀬によれば、最古のため池の一つとされる狭山池の築造がほぼ7世紀初頭とされる。
33ページには条里制が7世紀後半に登場し、徐々に普及したと書いています。
37ページから
 東国における犂の発掘事例はほとんどないので、その伝搬過程を検証することはできないが、七世紀頃西日本に本格的に導入された牛馬耕が、七世紀初期の畿内地方における国家的な大規模開発と連動していたことを考えるならば東国がヤマト政権さらに律令国家に編成されていく過程で進んだ技術を継受し、八世紀前後には水田区画面積の拡大を実現した、と推定することも可能であろう。・・・
 確かに37ページの群馬県における水田区画面積の時代的変遷の図では奈良・平安時代に急激に増大しています。

どこから引用されてるかわかりませんが、
条里制を起源とする安田の名字の7世紀後半とか、西日本から東日本へ発展していくところなど、安田仮説とマッチしていて力づけられます。

第68回正倉院展

出かけてきました。平日でも1時間待ちでした。しかし楽しい一日になりました。

撥鏤飛鳥形(ばちるのひちょうがた)など後で図録を見ればよいやと思いましたが、細かくは写ってなく、その場で見ないとダメだったと思いました。

 今年は古文書の展示が多いように感じ、個人的には展示57番の御野国の戸籍(美濃→岐阜県)が興味深く見ました。もちろん内容を理解できてはいないのですが、私の戸籍のイメージとは違っていました。名字の区別では無く、戸主との関係で名前が重視されているようです。大家族制の名簿の雰囲気です。ねばって探しましたが、今ある一般的な名字は古田だけでした。戸籍は階層的なもので、現在とは全く違う印象です。
 展示58番に出雲の国の給付者名簿があります。これは天平11年(739)に賑給(神馬が対馬で見つかったことで臨時的に各地の対象者に食料を支給された政策のようです)の出雲の国の該当する人の名簿ですが、私自身は年齢のバランスが悪いように感じました。図録にも慎重な検討が必要であるとありましたので、57番に戻りますが、安田の名字とかが無くても、仕方がないと考えます。
 大家族制であれば、名字の変更などでは構成員が多いので、皆の合意が得られるような理屈っぽいものになるかもしれないと思います。平安時代の藤原氏隆盛の時代に、名字に藤の字が取り込まれます。その時に、藤×(岡本)=藤岡+藤本 のような名字分配の法則が成立した気がします。

2016年10月20日木曜日

稲部遺跡で大型建造物発見

 17日の新聞記事がありました。
「滋賀県彦根市の稲部(いなべ)遺跡で、弥生時代末(3世紀初め)~古墳時代初め(同中ごろ)の
鍛冶(かじ)工房群や大型建物の遺構が確認された。市教委が17日発表した。邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。」とのことです。
日経記事など

 遺跡から、福井、鳥取の土器もあり、古代の海上交易をうかがわせるものです。
もちろん岐阜、静岡、奈良の地域の物もあり、各地域とのセンター的な意味をもつもののようです。
個人的には日本海側との関係がわかっていけば面白いと思います。また琵琶湖の湖上交通とかどうなっていたのとかも興味があります。
メモ書きです。

2016年10月12日水曜日

法起寺三重塔露盤

 法起寺は奈良県奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、この塔の露盤銘からは聖徳太子の遺命により山背大兄王が岡本宮を寺に改めたと伝えられています。


 



 露盤の所、屋根の上の方にあり、2面しか見てないですが、現在は文字などわかりません。昔からのものと勘違いしていました。現在のものは違うようです。

 次のは明治時代の写真です。相輪が5個か6個しかないので、現在のもの(九輪ある)は修復されたか、新しいもののようです。屋根が重そうでつっかい棒のようなものが見えます。現在は補強金具が屋根の下に取り付けられていてかっこよくはなっています。江戸時代の様式らしきものも元に戻されているようです。写真は勝手に持ってきました。ネットで見ることができ、ありがたいです。明治5年より



結局の所、大山氏の論文では、明治時代には露盤銘は見つかっていないようで、詳細に調べられていて、偽であるとしていますが、そうだろうと思います。

 現在の伽藍の中心軸は南北になっています。法隆寺や法輪寺が軸線が反時計側にずれているのと対応していません。しかしながら昭和の解体修理前の調査で、法隆寺若草伽藍の方位と一致していたそうです。法輪寺も今の法隆寺とは違うなと思っていましたが、若草伽藍のと一致していそうです。古来よりの、法起寺・法輪寺・法隆寺の関係など興味はありますが、後回しになりそうです。

順番としては
1.法隆寺の若草伽藍、四天王寺式の一直線の並び
2.法起寺の古いもの、金堂・塔が横並びに変化
2.法輪寺、法起寺と並びが反転
4.現法隆寺、方位が変わり、法輪寺タイプ
5.法起寺、現法隆寺をモデルに方位を北にする。横の並びはそのまま
と考えて良いのかどうか? 

短期間に大きな変化があった時代のような感じはします。まとまり無いですがメモ書きです。

2016年9月27日火曜日

やすんば

 奈良県北東部、元は都祁村というところ、今は奈良市に編入された地域に、雄神神社と国津神社(都祁白石)の間の水田の中にやすんばと呼ばれる樹叢(藪のようなものの意味?)があります。


写真は雄神神社側から、国津神社を見ています。矢印がやすんばで、少し低地にあります。4カ所あるそうですが、1カ所見落としました。


 神様が雄神神社から国津神社に訪れるときに休まれる場所としてシンボリックに示したもののようです。「やすんばについて、神が訪れる道」など。
 野々神岳から国津神社までの経路で神社間を具体的に示すことが、水田で収穫を増やすよりも地域で重要視されていたわけで、信仰からか神社なども古来よりきちんと管理されています。私は「やすんば」が水田開発の当初に作られたと想像します。
 実際に歩いてわかることですが、神社からはどちらも下り坂で。棚田のようになっています。ここからは妄想ですが、このやすんば付近はもともと池か川かの低湿地ではなかったかという気がします。排水工事をして、水田を造成し、その中で少し出っ張ったところで良さそうな所をやすんばとした可能性はあると思います。単純に考えると、山の中の木を伐採し整地して田んぼを作るより、池などの水を抜いた方が容易です。また国津神社の名前ですが、津とは昔には港を意味します。池か川が近くにあったことを想像させます。近くには国津神社がほかにもあり、高台のような所にあるようです。それと雄神神社は「三輪さんの奥の院」ともいわれ、社殿は無く、山がご神体となっていて、古い時代の神社であることを示しています。これらからカンピュータでは「やすんば」は7世紀以前の話に思えます。
 こんな土木工事ができたのかということですが、万葉集に
「大君は 神にしませば 水鳥の
 すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつ」
の歌があるので、すでにそこそこの開発工事は可能であったはずです。
 ある程度の高地の方が排水の面で稲作の地域を容易に拡大することができたことから、この地域が発展していったと考えられ、また奈良県全体ももともと湿地帯であって、排水工事が容易であることから新田開発が容易であり、食料生産も拡大し、その結果人口も増え発展していった可能性があります。どうして奈良県のような内地に大きな古墳とかできたのか不明でしたが、なんとなくわかった雰囲気になってきました。
やすんばの写真をもう一枚。庭園の中島のようになっています。

訂正:H28.10.08
国津神社はもともとこの地にあった名前ではなく、近くの国津神社との関係を示したいとしての名前のようです。10世紀ごろの話で、取り消し線のところは間違いです。妄想であって、恥ずかしいですが残しておきます。