2015年3月15日日曜日

推古天皇の名前

 推古ですが古きを推し量るの意味だろうと思います。
ウィキペディアによれば、淡海 三船(おうみ の みふね)が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したとされています。何か実直そうな人のように感じられ、古き時代を推測するのは推古天皇が手がかりになるとのメッセージに思えます。
 さて推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)です。前稿の「食いもの」の神語りによれば、飯は甑(こしき)という蒸し器で「炊しき」調理されていたらしく、「かしきや」は神事に関わる調理場のことのようです。
 私は豊御食炊屋姫尊から伊勢神宮の外宮の豊受大神を勘違いしてしまいました。
内宮がアマテラス(持統天皇)、外宮が推古天皇(持統天皇)と思ってしまいダブってしまい混乱しました。しかしウィキペディアの豊受大神について
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トヨウケビメは、日本神話に登場する神である[1]。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている[1]。『古事記』では豊宇気毘売神[1]と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神[2]、登由宇気神[1]、大物忌神、豊岡姫[1]、等由気太神[1]、止与宇[3]可乃売神[1]、とよひるめ、等々。
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と書かれています。日本書紀に登場しないことに引っかかるものがあります。

これもメモ書きとして公開します。

2015年3月14日土曜日

古い国名

角川選書551「食い物」の神語り 木村紀子著
を読んでいて、目からウロコでした。その中で理解したことに
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瀬戸内海を廻る周辺の国には、粟の国、黍の国など穀物の名のついた国がある。淡路島も粟への道の島の意味であり、その近くにはアズキ島もある。・・
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があります。安田仮説では天武・持統朝それより前くらいから大規模水田稲作が今の岐阜県に広がったのではとの想像しています。愛知県が終わりの国なので、日本書記が成立する前に大和政権が西日本を統一し、国名を定めたと考えて整合性はあります。好字令により、黍→吉備、粟→阿波、終わり→尾張となったのではないでしょうか。地名の成立は粟・黍が主体の地域(大和より西の地域)がある中で、フロンティアの大和の東から、稲作を主体にするという国の方針が定まったのではと想像します。壬申の乱で天武天皇が移動した地域がおそらくフロンティアの地域に対応しています。

上記の本にも記述されていますが、日本書紀に
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天照大御神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして、保食神の様子を見に行かせた。保食神は本当に死んでいたが、その頭からは牛馬が、額の上には粟が、眉には蚕、目には稗、腹の中には稲が、さらに陰部に麦と大豆と小豆が生まれていた。天熊人は、それをすべて持ち帰って天照大御神に献上した。それを見た天照大御神は、大変喜んだ。そこで粟、稗、麦、豆を畑の種として、稲を水田の種とした。さらに天の邑君(あまのむらきみ)を定めた。その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田に植えた。その年の垂穂は、八握りもあるほどしなって、たいそう満足するものであった。
この部分引用です。
-------引用

天照大御神を持統天皇と考えると、水田稲作を重要視していることがわかります。また具体的に天の邑君(農民の長)など当時の雰囲気を神話形式ですが、におわせています。アマテラスを通じて日本の国の基本方針を語っていると思います。

アマテラス=持統天皇は、日本書記の一部では成立していますが、この部分も大丈夫のようです。

追記:H27.3.16
東の方の国名では、信濃←科野、美濃←三野、三河←三川など地形的なものが多いような気がします。開発されていく地域のイメージがあります。

2015年3月12日木曜日

長谷寺

 奈良県桜井市にあるお寺です。大和と伊勢をつなぐ初瀬街道沿いにあります。
ウィキペディアによれば長谷川の名字で初瀬が起源になったと説明しています。
桜井の地に流れる川が「初瀬川(はつせがわ)」や「泊瀬川(はせがわ)」と呼ばれていたが、この場所が長い谷の地形であったことから長谷と漢字で表され発音のハセと一体化したとのことです。
長谷=初瀬=ハツセ=ハセ
グーグルマップを画面切り取りしたものを示します。
(リンクの仕方を忘れてしまいました。)
赤のA点が長谷寺です。165号線を見れば谷になっていることがわかり、多分そうであろうと思います。

 長谷寺の創建については、国宝の銅板法華説相図(どうばん ほっけせっそうず)があり、その中に「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために造立したとみえ、天武・持統天皇にあたることから年代が想定されているようにも思えます。ただし、現在、本銅板銘は長谷寺(三重塔)の建立銘ではなく、銅板そのものの造像銘であることがですでに確認されており、長谷寺の創建と銅板とは切り離して考えることが通説となっているようです。天武・持統朝の創建とは考えられていないようです。

 雄略天皇は、第21代天皇。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも呼ばれ、この地と関係があるかもしれません。

2015年3月8日日曜日

曽我・物部の争い

 日本書記では崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏の争いとされます。宗教対立がそれほどの問題とは感じませんが、おそらく書紀の書かれた時代が反映して取り込まれたと思います。天武天皇・持統天皇の時代は国家神道を目指していたはずです。しかしその後の聖武天皇の時代には国家仏教に転換していきます。東大寺や国分寺など大きな財政負担になったはずで、政治の大問題になり、対立のもとになると思います。日本書紀の書かれた時代には神仏問題が重要問題と認識されていたとの想像です。書紀の内容については蘇我氏が優位になりますが最終的には乙巳の変で滅んでしまい、神道派におさまる展開になります。昨晩の思いつきですが、メモしておきます。

2015年3月7日土曜日

倭の五王

山川の日本史によれば、
中国の宋書に5世紀に讃、珍、済、興、武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋にに使いをおくったという。これは大和の王であろう。・・・5人の王のうち最後の倭王武は「古事記」「日本書紀」に伝えられる雄略天皇であると考えられるが、・・・
とあります。
安田仮説ではどうなるか考えてみましたが、大和の王であることは微妙で今のところなんとも言えません。
天皇の系図が作為的であることから、武は雄略天皇と考えることは無意味であろうと思います。

次のページに「鉄剣は語る」として
埼玉県行田市の稲荷山古墳でワカタケル(本当は漢字文)の文字のある鉄剣が見つかったとして大和王権がこの地を支配したことが明らかになったとしています。
この部分も飛躍しすぎのように感じます。鉄剣があるだけで支配することになるとは思えません。
邪馬台国大和説、大和王権が日本を統一したことを暗黙の前提としているようで、安田仮説とは相容れません。

「もう一度読む山川日本史」より



豊葦原中国

(旧字体:豐葦原中國、とよあしはらのなかつくに)
古事記で天孫降臨の時にに出てきて、日本の国土を表しているそうです。
ここで葦原という言葉からの想像です。
葦原は日本の原風景のイメージですが、葦原から新たに水田などを造成していくという国土建設の意気込みを示しているように感じました。瑞穂の国とか大嘗祭(だいじょうさい)など稲作に関する儀式などから、当時の意識では稲作を国の基本と考えていると思います。

大君は 神にしませば 赤駒の 腹這(はらばう)田居を 都となしつ

という歌がありますが、大規模な土木工事などが行われ、稲作も大規模化がはかられていく中で国の統一がなされていったのではと思います。天武天皇から新しい時代が始まることをアピールしていますが、実際にもそうだったかもしれません。話が飛びますが、安田も都のたんぼだということを確信します。

2015年3月5日木曜日

イザナキとイザナミの国生み神話

古事記では、イザナキとイザナミはオノゴロ島に降り立ち、子を産みます。
それがヒルコと淡島です。このあたりは不明ですが、その後に
八つの島「大八島」と六つの島々を生みます。
「大八島」とは本州・佐渡島・淡路島・四国・隠岐の島・対馬・九州だそうです。
本州は全体に広がっていますが、佐渡島を除いて他の地域は西日本です。
古事記の世界(8世紀前半)では当時の支配地域を示していると思います。

歴史がおもしろいシリーズ
図解 古事記・日本書紀 33ページの図

安田仮説の図
参考