2014年9月30日火曜日

愛荘町に行ってきました。


 滋賀県、湖東三山の一つ、金剛輪寺があるところです。紅葉で有名です。まだ早かったのですが、緑の紅葉もいいものです。国宝の本堂は入母屋檜皮葺で、屋根は何か洗練された雰囲気を示しています。内部の須弥壇に弘安11年(1288)の銘がありますが、そこまではさかのぼらず南北朝の建立と考えられているそうです。蒙古襲来のおり、戦勝祈願をし、その感謝として建てられたと言っておられました。この寺の開祖は行基で、天平十三年(741)のこととされ、当時すでにこの地域は開発されていたことを示しています。
 その後、愛荘町立歴史文化博物館によりました。もらったパンフレットによれば、渡来系集団、依智秦氏(えちはたうじ)が、この湖東の愛知郡に分布したそうです。琵琶湖に近い側には条里制が地名で残っており、宇曽川右岸には県下最大級の6世紀半ばから7世紀にかけての群集墳、金剛寺野古墳群があるそうです。博物館の人の話では桂川を伝って太秦の方に、別に淀川の方から移ってきたのが依智秦氏ということでしたが、私は日本海側から近江高島を経由して移ってきた可能性もあると思います。野洲市にある兵主神社庭園の基準軸方向が北で、渡来系で祖先の方向に向かって礼拝すると聞いたことがあります。似たような 阿自岐(あじき)神社庭園がこの近くにあります。移動経路が、日本海側→近江高島市→野洲市→愛荘町(旧愛知川町)となるのではと思います。愛知つながりで、さらに移住して愛知県に進出していったというのが私の説です。
 その見学の後、偶然に畑田廃寺遺跡に行きました。説明板を以下に記します。・・・・畑田は古い瓦が見つかるところで有名です。・・昭和53年に発掘調査が行われ、白鳳時代に創建し平安時代まで繁栄した寺院の跡を確認しました。南北約18mの金堂跡、東西24m以上の細殿(掘立柱建物)、銅製品を作っていた鋳造工場跡、寺域を示す大きな溝跡などが確認されました。また、出土した遺物のなかには緑釉陶器や白磁なども見られます。また「僧寺」と墨で書かれた須恵器や「秦」と記された習書木簡が出土しました。畑田廃寺遺跡は、古代に愛知郡で大きな勢力をもっていた豪族「依智秦氏」の氏寺と考えられています。・・・・畑は秦から発音の関係で変化したものです。畑田の発音はハタケダとなっていて、ハタケと田んぼの意味にとられますが、秦さんの田んぼの意味だと思います。以前に畑と八田の発音でハタとハッタで相関あると言ってましたが、おなじようなことが考えられるかもしれません。この地域に肥田という地名がありました。肥沃な田んぼの意味にとられますが、私は畑→火+田→ヒダ→肥田ではないかと想像します。秦氏の中で連帯感があって、名字の変化になったのだと思います。

畑田廃寺遺跡で展示されていた礎石、2個の内1個。
同行の人の話では焼けたときに柱のところが残り、
円形の形状として残るらしいです。   
 
(追記)H2610.01。不正確な記述でした。兵主神社庭園は兵主大社庭園で、ネットで見たところ、鎌倉時代から平安時代の庭園ということでした。思い過ごしでした。訪れたとき、12月くらいで神職の方が琵琶湖の水に入る神事でおられないということがあり、古い時代の記録をとどめるためにこの神事が行われ、近江高島市→野洲市のように思ってしまいましたが、ウィキペディアで見れば、穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)から欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え・・とあり、琵琶湖の湖岸沿いを伝ってやってきたようです。八ケ崎神事というようです。近江高島市からダイレクトに野洲市にやってきたとは断定できません。妄想的な話でした。

2014年9月20日土曜日

山梨県

東日本の名字に小林が多いことで、林の移動により子孫の意味で[小]の字が付いたといっていました。
 名字:林と小林
つまり奈良・平安時代に西から移住した人によってその地域が形成されていったということです。頼朝の挙兵に呼応して甲斐源氏が、富士川の合戦に参加したそうです。その中に、安田義定という人が活躍したことを知りました。安田という名字の出所ですが林と同じく移住によるものかもしれませんが、条里制の田んぼから発生したものかもしれません。甲府市の城下町にも条里制の痕跡が残っているといっている人もおられるようです(その文献は未確認)。また武田勝頼を滅ぼしたのが小山田氏で、山田の子孫が小山だということが、小山田は田が省略されずに残っていて明白です。山田は岐阜県に多い名前で、小山は長野県に多く、岐阜県から長野県を通って山梨県へ移動したと感じます。西からの移住する人によって山梨県が発展してきたのだと思います。
 名字:小山のもとの名字

甲斐の意味もいろんな説がありますが、境界の界から出てきたように思います。都から見てテリトリーの限界の地域、奈良時代はフロンティアの地であったと思います。鎌倉時代になり、落ち着いてきた段階で夢窓国師などが移住して禅宗などの布教に取り組んでいったのだろうと思います。今回、関西から山梨県に行くときは静岡県から入りましたが、昔は長野県から入っていったのであろうと思います。岐阜県と山梨県は長野県を通して強いつながりがあったのではと想像されます。

意味があるのかわかりませんが、山梨県の方言で〈そうですか〉というのを〈ほうけ〉というらしいのですが、何か奈良・平安時代の痕跡を感じました。

「山梨県の歴史散歩」山川出版社の安田関連のメモ書き
放光寺(法光寺)・・安田氏菩提寺
安田氏五輪塔・・・雲光寺の入り口左側
安田義定廟所・・・普門寺付近

2014年8月30日土曜日

夏休み

 時間があるので、いろいろ出来ると思ってましたが、成果はありませんでした。すぐ忘れてしまうので今の考えをメモ書きとして書いておきたいと思います。
 以前に、アマテラスのモデルは持統天皇ではないかということで投稿してました。つまり日本書紀は持統天皇を称賛するためのものであるということです。とすると聖徳太子・推古天皇も不比等・持統天皇を投影しているという説も本当かもしれないと思えます。中国の史料では遣隋使を送ったとき日本は男子王であったとのことです(出所は未確認です)。つじつまがあってない可能性はあります。聖徳太子と・推古天皇をなくしてしまえば、あいたところがどうなるか。根拠は薄いですが、景行天皇・ヤマトタケルが入るかもしれないと思います。天皇名がタラシ系列であるというだけの理由ですが。コピペで痕跡が残ったのではという推測です。ヤマトタケルの話で地名がいろいろと付けられたということがあります。地名というものはローカルであれば、山とか川ぐらいで十分だと思いますが、中央集権化が進むと各地を識別する必要が出てきます。その時に中央の意向に沿った地名が考えられるはずです。日本の統一化が進む中で、感覚的にはヤマトタケルは7世紀前半の人と考えて、このころから地名が整備されていったのではと、今は想像しています。地名から古い時代を推測することはむつかしい気がしてきました。

2014年7月27日日曜日

オニバス

昔に録画した兵庫県播磨平野のため池という番組を見ていたら
オニバスが出てきました。この地域は瀬戸内地方で雨が少ないためため池が多く作られました。漢字で鬼蓮で、植物全体に大きなトゲが生えており、つののイメージでそこから鬼の名がついたようです。鬼というものが認識されてから名前がつけられたので、この地域の水田とか、ため池とかも奈良時代か平安時代初めとか以前のものかもしれません。と思ったのですが、古名はミズフブキで鬼とは関係ないようです。オニバスは最近になってから付けられた名前かもしれません。

2014年7月21日月曜日

方言

方言についての分布図を図書館で見つけました。高価な本ですが、詳しく調べられています。インターネットでも見ることができました。ちらり見ですが、その中に「買う」の過去形の「コータ」と「カッタ」の違いの分布がありました。東日本と西日本とで分かれています。奈良時代以前の名字の分布と似たような感じを受けました。この時に貨幣経済があったのかはわかりませんが、影響を引きずってなんらかの違いが出てきたのかもしれないと思います。

国立国語研究所、方言文法全国地図PDF版
第2集第105図「買う」の過去形

http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-105.pdf

また
『日本言語地図』 第1集29
アカイを”明るい”の意味で使うか という分布図があります。
使うというのが西日本側(滋賀県・奈良県以西)、使わないというのが東日本側です。
奈良時代以前に明るいの意味があったのが、その後、東日本へ伝わっていく中で、なくなってしまったことに対応しているのかもしれません。奈良時代よりも前の時代から日本語が成立していく過程なのかとも想像されます。

http://www.ninjal.ac.jp/s_data/drep/laj_map/LAJ_028.pdf

方言文法全国地図PDF版
第93図、飽きたの分布
あきた→あいたの音便をとらえているようにも思います。分布の境界が中部地方にあります。奈良時代から平安時代初期の状況を示しているかもしれません。

http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-93.pdf

言葉によって方言の分布のパターンが違いますが、それが古い時代の日本が統一される前の状態の痕跡と考えられるのではと思いますが、単なる思い込みなのか、都合の良いデータだけを見ているので今のところ何とも言えません。

リンクがうまく出来ていません。上記のリンク先へたどっていってください。文章だけでは何を言ってるのかわかりにくいですが、方言が古い日本の状態を示し、その痕跡が今に残っているのではと思っています。

2014年7月12日土曜日

なまはげ

この前の鶴林寺のことで思いつきました。秋田県の方に安田の名字が多いことがあります。条里制が秋田県の方に伝わっていったのであろうと想像できますが、この時に同時に鬼払いの風習が伝わっていったのではないかと思います。そうであれば、奈良時代か平安時代の初め、時の朝廷が東北侵略し、拠点となる地域から新田開発を行っていったことになります。なまはげと条里制が結びつけば良いのですが。


追記:H26.07.13
図書館でナマハゲの本を見てきました。起源についていろいろあるようで言いたい放題のような感じを受けました。しかし鬼払いの儀式とかについて書いてるものはぱっと見ではありませんでした。時代的には奈良時代では早すぎ、平安時代かもしれないですが、朝廷勢力が現地の人を威圧し、服従させようとした儀式で、単一の地域でなく広い範囲で行われ、それが現在に残っていると考えたいです。秋田県の条里制についてはあまり検出されていないようでしかも時代がもっと下がるようです。これもぱっと見で確実なものではありません。ちょこちょこと調べてわかる問題ではないです。

2014年7月10日木曜日

鶴林寺と安田

この前の日曜日、鶴林寺を訪れました。本当とは思えませんが、聖徳太子創建の古刹です。本堂・太子堂などが国宝です。本堂手前に菩提樹と沙羅双樹が配置されています。沙羅双樹の方だったと思いますが、その木が石柱で囲まれています。そこに、その石を寄進された人の名前が彫られています。その参詣路側に「安田  何某」と多数ありました。安田というのは地域の名前で、その地区の人がまとまって寄進したということでしょう。地図を見ると鶴林寺の近くに尾上安田というところがあります。おそらくこの地域の人が関係しているのだろうと想像します。とにかく安田という地域はおそらく古い時代の名前で、法華口というところも近くで見かけました。法華天台宗からきた地名と思われますが、奈良時代からある地域の雰囲気を残しています。鶴林寺の入り口手間に用水路のようなものがありましたが、条里制の痕跡であろうかとも思わなくもありません。安田という地名から条里制の存在をうかがわせます。7世紀後半からいつの時代であろうか、鶴林寺付近の古い地図があれば、はっきりとするかもしれませんが。残念ながら奈良時代以前を示す証拠はわかりません。しかし、それ以降の古い時代である可能性は十分あります。鶴林寺と安田で検索すると鶴林寺の正月の行事に修正会という行事があることがわかりました。鬼払いの前に安田吉道?という謡曲が奉納され、追儺(ついな)という鬼払いの儀式が行われるそうです。由緒では平安時代後期の村上天皇の御代、ともひら親王の後胤につながるそうです。時代的に詳しくしりたいと思います。鶴林寺の宝物殿で、鶴林寺と近くの一乗寺の寺に関する10哲?みたいな比較があり8人同じで、残りの1人が聖徳太子と弘法大師の違いでした。略してタイシさんというときにごっちゃになってるのかなとも思います。これはおいといて、条里制により田が整備され、その後に寺域が出来てきた可能性が高く(寺がありその周りに条里制の田が出来た可能性は小さいように思います)、いろいろ思うだけで、確証は無いのですが、加古川の西側の地域で条里制について何かしらありそうです。