滋賀県、湖東三山の一つ、金剛輪寺があるところです。紅葉で有名です。まだ早かったのですが、緑の紅葉もいいものです。国宝の本堂は入母屋檜皮葺で、屋根は何か洗練された雰囲気を示しています。内部の須弥壇に弘安11年(1288)の銘がありますが、そこまではさかのぼらず南北朝の建立と考えられているそうです。蒙古襲来のおり、戦勝祈願をし、その感謝として建てられたと言っておられました。この寺の開祖は行基で、天平十三年(741)のこととされ、当時すでにこの地域は開発されていたことを示しています。
その後、愛荘町立歴史文化博物館によりました。もらったパンフレットによれば、渡来系集団、依智秦氏(えちはたうじ)が、この湖東の愛知郡に分布したそうです。琵琶湖に近い側には条里制が地名で残っており、宇曽川右岸には県下最大級の6世紀半ばから7世紀にかけての群集墳、金剛寺野古墳群があるそうです。博物館の人の話では桂川を伝って太秦の方に、別に淀川の方から移ってきたのが依智秦氏ということでしたが、私は日本海側から近江高島を経由して移ってきた可能性もあると思います。野洲市にある兵主神社庭園の基準軸方向が北で、渡来系で祖先の方向に向かって礼拝すると聞いたことがあります。似たような 阿自岐(あじき)神社庭園がこの近くにあります。移動経路が、日本海側→近江高島市→野洲市→愛荘町(旧愛知川町)となるのではと思います。愛知つながりで、さらに移住して愛知県に進出していったというのが私の説です。
その見学の後、偶然に畑田廃寺遺跡に行きました。説明板を以下に記します。・・・・畑田は古い瓦が見つかるところで有名です。・・昭和53年に発掘調査が行われ、白鳳時代に創建し平安時代まで繁栄した寺院の跡を確認しました。南北約18mの金堂跡、東西24m以上の細殿(掘立柱建物)、銅製品を作っていた鋳造工場跡、寺域を示す大きな溝跡などが確認されました。また、出土した遺物のなかには緑釉陶器や白磁なども見られます。また「僧寺」と墨で書かれた須恵器や「秦」と記された習書木簡が出土しました。畑田廃寺遺跡は、古代に愛知郡で大きな勢力をもっていた豪族「依智秦氏」の氏寺と考えられています。・・・・畑は秦から発音の関係で変化したものです。畑田の発音はハタケダとなっていて、ハタケと田んぼの意味にとられますが、秦さんの田んぼの意味だと思います。以前に畑と八田の発音でハタとハッタで相関あると言ってましたが、おなじようなことが考えられるかもしれません。この地域に肥田という地名がありました。肥沃な田んぼの意味にとられますが、私は畑→火+田→ヒダ→肥田ではないかと想像します。秦氏の中で連帯感があって、名字の変化になったのだと思います。
畑田廃寺遺跡で展示されていた礎石、2個の内1個。
同行の人の話では焼けたときに柱のところが残り、
円形の形状として残るらしいです。
(追記)H2610.01。不正確な記述でした。兵主神社庭園は兵主大社庭園で、ネットで見たところ、鎌倉時代から平安時代の庭園ということでした。思い過ごしでした。訪れたとき、12月くらいで神職の方が琵琶湖の水に入る神事でおられないということがあり、古い時代の記録をとどめるためにこの神事が行われ、近江高島市→野洲市のように思ってしまいましたが、ウィキペディアで見れば、穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)から欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え・・とあり、琵琶湖の湖岸沿いを伝ってやってきたようです。八ケ崎神事というようです。近江高島市からダイレクトに野洲市にやってきたとは断定できません。妄想的な話でした。
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