2014年10月2日木曜日

兵主大社

 前の投稿に関連してアップします。
 元の住所は野洲郡中主町大字五条とのことです。中主とは旧村名「中里」「兵主」から採った合成地名だそうです。今は野洲市五条となっています。五条という地名から条里制を思い出します。地図を見て、近くに井口というところを見つけました。井とは単純ですが縦横の2本線から条里制を表す漢字です。つまり井口は条里制の田んぼの入り口を表しています。神社が条里制の田んぼの周囲に配置されること(マイ仮説?)を考えると、兵主大社もこの頃からあった可能性大です。たまたま図書館から借りてきている「空から見た古代遺跡と条理」という本のP.68-69に西河原森ノ内遺跡が載っています。兵主大社の南側に位置し、航空写真がありますが、残念ながら兵主大社はぎりぎりはずれています。この本では7世紀中葉から10世紀前葉の重層し重複する官衙状の建物群がこの地にあると書いてあります。
このページの下に参考として
辻広志(1992)「西河原森ノ内遺跡第13次発掘調査」「平成3年度中主町埋蔵文化財発掘調査集報Ⅰ」とあります。

兵主大社庭園について
 図書館に行き、日本庭園史大系の兵主大社庭園のところを見てきました。鎌倉時代の庭園と考えられています。昭和46年3月の実測図では南側から北を見る方向については間違いのないようには思いました。ただ真北ではなく、北西の方向に感じました。
 この本の解説では、五条・六条の地名は、「近江国輿地志略」の中から五条・六条家の領地なる故となっていると引用しています。五条から条里制と思いましたが、歴史とともに変化していってるので単純にはいかないようです。井口も井ノ口となってました。井口から条里制に結びつくとは思いますが、五条・六条からは結びつかないことになります。しかし、しばらく条里制として考えてみます。

0 件のコメント:

コメントを投稿