以前に 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) で匈奴の話がありました。冒頓単于の時代、強大な版図を持っていて、その時の言語は何だったか疑問でした。 シルクロードがあるので、ウラル・アルタイ語に関係するのかと思ったのでしょう。『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10)を借りてきました。
ウラル・アルタイ語がどうして出てくるのかの疑問にこたえてくれました。ウラルとはウラル山脈でユーラシアとアジアを分ける山脈です。アルタイ山脈は、西シベリア、モンゴル、カザフスタンにまたがる山脈で、その山麓でモンゴル語とトルコ語の諸方言が話されているとのことですが、どうしてこの地域が注目されたかについて書かれていました。 北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人のタッベルトがいた。ロシア人の悪口が書いてあって、自分たちは手を汚すことなくシベリア開発をすすめ、
第二次大戦後は60万人もの日本人がシベリアの開発に大きく貢献したのである。
とか書いてます。タッベルトに戻って、シベリアでの言語をまとめ、この人が戻って一族がフォン・ストラーレンベルクの名で爵位を得た。その名を冠して、ストックホルムで著書が出版されたとのこと。
いろんな話が出てきて、「ウラル・アルタイ語」の元は、「トゥラン語族」と言われており、これはフリードリッヒ・マックス・ミューラーによるとして204頁に
形態論的類似 さて、ミュラーの『言語の科学についての講義』では、トゥラン諸語は「アーリア語やセム語」のように、同系の語族(family)というよりは語種(class)もしくは語群(group)と言うべきもので、系譜的類似というよりは形態論的類似を共有すると言っている。この指摘は、言語は類型論的な共通性によってグループをなす私の主張に近い。こうしたトゥラン語群はさらに北方群と南方群に分けられ、北方群は時に「ウラル・アルタイ」もしくは「ウグリア・タタール」とも呼んでいる。南方群に入るのはタミール、ブータン、タイ、マラヨ、ポリネシアであると述べている。
これらトゥラン諸語は、アーリアやセムとは異なり、遊牧民であるから、「かって政治的、社会的文化的核が形成されたことがない」と言っている。
マックス・ミュラーの「トゥラン語群」は、屈折語を原理とする印欧語に対立する、あるときは、そこにはいれなかった、膠着原理にもとづく雑多な諸言語をまとめて呼ぶという便宜的な性格が強い。ミュラーは膠着型の言語が発展して屈折語に移ったとという考えを示している。
蔑称として「トゥラン」で、207頁に
ヨーロッパでは言語の生存競争に勝ち抜き、偉大なヨーロッパ文明の担い手、印欧諸語の共通起源を立証した、印欧語比較言語学が印欧語と印欧文化の優秀性と、それを担ったアーリア民族をたたえるとともに、その影の面として、印欧語のすぐれた特徴を欠いた言語、非アーリア諸族に刺激を与えないではおかなかった。・・・
この後に、ハンガリーに生じたトゥラン主義と続きます。印欧語に対立するものとして生まれたとのようです。ハンガリー語やフィンランド語は非ヨーロッパ言語で起源を探す中でウラル・アルタイ語にたどり着いたようです。
ウラル・アルタイ語の話はここまで。以下、屈折語と膠着語の説明メモです。
ここで屈折語についての解説が前の方にあります。フンボルトによる類型です。99頁。
「屈折」とはラテン語のflexio(曲げる)を漢字で翻訳したことばで、最近は日本語でもとりいれてフレキシブルなどと使う。では何を「曲げる」かと言えば、ある単語の中味である母音を変化させることを言う。日本語の単語には、このような方式はない。日本語では単語はどのような環境の中でも変わらず一定していて、どんな文法要素が後につづこうと、ヤマ、カワ、ウミ、モリのように、一定の変わらぬ形であらわれる。ところが英語ではそうではない。簡単な例を出すと、
foot - feet
man - men
がそれで、[fut](足)の語頭と語末の子音をそのままにしておいて、単語の中味そのものである[u]を[i:]に入れ替えると複数になる。ーー日本語では、ヒトビトとかヒチドモとかで後に継ぎ足すなっど例が示されるーー
こうした、単語の中味の母音そのものを変える(曲げる)ことによって名詞を動詞にしたり、形容詞を名詞にしたりすることさえやる。例えば
food ー feed 食べ物 ー 食べさせる
hot ー heat 熱い ー 熱さ
のように、はじめのf音、語末の子音はそのままにしておいて、中味の母音を入れ替えれば形容詞が名詞だの動詞になる。
膠着型
このように、複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾を「くっつける」方法をフンボルトは「膠着」と呼んだのである。「膠着」という訳語は、agglutinierendのラテン語の語根になっているgul(s)を「膠」と訳したところにはじまる。ヒトビトのように、「くっつけること」を「膠でくっつける」と訳したのであるが、この膠はノリであってもかまわないのだから「ノリづけ」と言ったほうがわかりやすい。
モンゴル出身の相撲力士の日本語が流暢との話題が出てきます。モンゴル語はわかりませんが、言語としての枠組みが両者で似ていて、単語を入れ替えるだけで成立しやすいのではと妄想します。そうであれば、単語が似ているとか似ていないということはそれほど問題ではなくなります。