漢字には訓読み・音読みがあります。「犬」とあれば、この字を「いぬ」と読んで違和感は全然ありません。音訓の区別がわかりにくいですが、たとえば「dog」とかの単語で考えるとわかりやすいです。これを「ドッグ」と読むのが音読みで、「いぬ」と読むのが訓読みになります。漢字ではすごいことをやってると思います。 音読みですが、一種類ではありません。呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音します。ウィキペディアの音読みの項では
漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。
とあります。漢音は遣隋使や遣唐使によって伝えらているので、呉音は倭国の時代に伝えられたとと考えられます。 この呉音の「呉」は中国の六朝(りくちょう)時代、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳のひとつです。
呉(ご、拼音: Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。
日本と呉国との関係ですが、日本の地名に中国南部の古名が残っています。以下の本にあります。 『五感で読む漢字(文春新書)』、張/莉、文藝春秋、2012/3/16、146ページ
殷末に周国の世子相続からはずれた太伯が江南の地に出奔し、呉を建国したという。中国の梁(五〇二~五五七)王朝の歴史を記した暦書『梁書』の「東夷伝」に、倭人が「自謂太伯之後謂(自ら太伯の後と謂う」とあり、当時の倭人が呉の太伯の末裔だとする伝承があった。備前国(岡山県)の邑久(おく)は古くは太伯と表記され、「おおく」「おおはく」「おおあく」と呼ばれていたが、『続日本紀』によると奈良時代には邑久郡と記されたようになったという。
また広島の呉市、高知県の高岡郡中土佐町久礼(くれ)、大分県の豊後高田市呉先(くれさき)・宇佐市呉橋(くれはし)など、「呉」・「くれ」のつく地名が残っている。古代に戦争で敗れた呉の民が、朝鮮半島を経て、あるいは直接に日本の地に渡ってきた証かもしれない。
呉という地名は、中国の呉の方角が日暮れの方向にあるから「くれ」というのだと、呉市在住の人から聞いたことがある。呉からの移民がかって住んでいた呉を懐かしんで、そのような名称をつけたとは信じがたいが、それにしても越や呉・くれの名のつく地名が多いのには、何らかの理由があると感じざるをえない。
北陸地方の越前・越中・越後にまたがる越(こし)といわれる地域があり、中国の越国が楚国に敗れて流浪した民が建国した国と解釈する考え方もあるが、古文献にはそのような記述がない。・・・以下略
越国は、前306年ごろ楚に滅ぼされるとのことで、そちらは置いといて、呉の方です。私は「倭国=吉備説」を考えているので、注目します。呉国からの難民を倭国が受け入れるには倭国の周辺地域に住むことになります。データが少ないですが、「くれ」の残っている地域は吉備の周辺地域にあるように思えます。その地域に住んだ一つ人たちは、出自を示すために、地名に「くれ」を残したように思えます。倭国と呉国に交易関係があり、呉音が日本に伝わり、それが、呉国が滅んだ後の遣隋使の派遣につながったと妄想されます。呉国との強い交流があったからこそ呉音が残っていると思います。『日本書紀』では、倭国と日本が違うとはいえないので、倭国と呉国のつながりを述べることはできず、隠しているような感じになってます。
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