2018年10月30日火曜日

カースト制度から

 カースト制度はヒンドゥー教の身分制度で、大枠はヴァルナと呼ばれる4つのグループとその下におかれた不可触民のグループにわかれます。前者はブラーマン(司祭・学者階級)、クシャトリア(王侯・戦士階級)、ヴァイシャ(商人・平民階級)、シュードラ(上位三階級に奉仕する隷属民・農民・職人)から構成されており、それぞれのヴァルナには多数のカースト集団(ジャーティと呼ばれる)が属している。ジャーティは「生まれ(を同じくする者の集団)を意味する」とのことで職種によって区分された職能集団で、地域共同体の分業関係が維持され、世襲制のものとなり、結婚もグループ内ということになるようです。インドがイギリスの植民地となったとき、国勢調査が行われ、中位のカーストでは曖昧だったものが、これで序列が固定化したそうです。序列については不明ですが、古い時代から職人集団が村落内だけで無く広いネットワークの中で成立していたことが考えられます。
 参考本には、
かって村落在住のカースト集団の間には、それぞれの生業に基づいた分業関係が維持されており、王国支配下の地域共同体の場合、分業体制は各世帯が地域の生産物を世襲的に受け散る職分権により成り立っていた。壺造り、大工、鍛冶屋、職工、染色屋、仕立屋などの職人カーストや、床屋、産婆、洗濯屋などのサービスは・カーストは、多数を占める農民をはじめ、ほとんどの村人に、年間を通じて生産したものやサービスを提供し、その報酬として穀物や野菜、壺、布などの現物を受け取ったり、サービスを受けていた。このような関係は、生産品やサービスを提供する側とされる側の間の契約によって成立するものであるが、特別なことが無い限りこの契約関係は排他的かつ恒久的に継続していくものとされる。こうした分業体制によるカースト間の経済的総合依存関係はジャジマーニー制度(ジャジマンとは顧客のこと)と呼ばれ、1936年に、北インドで調査を行ったワイザーの報告によって明らかになったのである。
以下引用を省略します。これは日本の古い時代でも職業的なものは違いますが、ある程度の農業生産が行われて、経済的な余裕が生まれ、分業体制ができたものと思われます。ヤマト王権の部民制(王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制)のことが妄想され、中央集権的な体制でなくても良さそうに思われます。

参考:カーストから現代インドを知るための30章、金 基淑(キム・キスク)編、明石書店発行

2018年10月26日金曜日

五十音図と梵字

梵字の五十音図を見ました。


梵字は表音文字です。ひらがなの「か」をローマ字で表せば、「ka]となります。「き」はローマ字では[ki]ですが、梵字では[ka]+[i]で「き」になります。
ローマ字の[ka]では「k」+「a」の子音+母音の組み合わせですので、横書きで左から右方向に向かう並びになります。ひらがなであれば特に方向は関係なく縦書きでも問題ありません。梵字も同様のようです。梵字について、五十音図でかなりわかりますが、表音文字で「あ」、「か」、「さ」、・・・の「あ」の行が基準になり、子音に相当するものが「い」行、「う」行とついています。ひらがなであれば、「か」の列、こちらをか行というのかもしれませんが、縦の列の文字からは「k」音を感じることはできません。梵字であれば、子音の字形のどこかに母音を示すものがついて、縦横の関係でなんとなくわかるような気がします。梵字では母音に相当するものが日本語のあ~おの五音より多くありるので、縦に伸びることが考えられ、実際はもっと多いはずで、違いはありますが、かなの五十音図は基本は梵字の悉曇学にあるようです。
ひらがなは漢字の草書体から取り入れられたというのが定説ですが、納得しにくいところがあります。この梵字の五十音表を見ていて、「つ」のところです。拡大します。

「つ」は手元の五體字類を見ると、門、川、都、徒、津などから取り入れられたようですが、梵字からではという気がします。「つ」は梵字の下の部分ですが、「う」の字も梵字の上部が点になったように思われます。「す」の字も下の方のくるっと回ったところなど似ています。
漢字は直線的であり、梵字は曲線的なようです。これを考えると
漢字→カタカナ
梵字→ひらがな
ということになります。無理を承知で言ってますが、部分的には梵字が仮名に取り入れらた可能性はゼロではなく、仏教を日本へ持ち込んだ時に、梵字の簡略化されたものが用いられたものの、日本では種子《しゅじ》として諸仏諸尊をあらわしており、神聖なものとして、利用が制限されてしまった可能性はあります(単なる想像です)。紀貫之の土佐日記も何かしらの制約があったのではと思います。

2018年10月25日木曜日

インダス文明の衰退原因について

環境人学と地域、インダス 南アジア基層世界を探る、長田俊樹編、京都大学出版会発行
を見ています。インドについて古い本を見ていると、かなりの認識の差があり判断をあやまる可能性があります。インダス文明とはインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および平行して流れる川のあたりに栄えた文明とされています。
タイトルの衰退原因ですが、
1.アーリア人侵入破壊節
2.メソポタミアの貿易停止説
3.社会的文化的変容説
4.森林破壊大洪水説
5.インダス川の河流変化説
6.インダス川自然ダム水没説
7.サラスヴァティー川消滅原因説
8.気候変動説
があげられています。
1の説には、イギリスの考古学者ウィーラーで、モヘンジョダロにおける虐殺跡とされる人骨の発見である。これと「リグ・ヴェーダ」の中の記述の「砦」などと結びついて生まれた説という。この説はa)アーリア人の侵入した年代とインダス文明の衰退した年代にはかなりの差があること、b)モヘンジョダロで発見された人骨は決して虐殺されたものではないこと。c)「リグ・ヴェーダ」は神話であり、これがどこまで史実を示しているかということがあるとのことである。
 最終章においてもアーリア人侵入破壊説の否定が述べられている。この本は2013年に出版されたのであるが、2011年にもまだ旧態依然として訂正されていない穀物倉の写真があると書いてあり、一度定説化したインダス文明像を覆すのは大変であるとのことです。海上交通とインダス文明という章立てやネットワーク共同体としてのインダス文明なども述べられています。私の理解するところ、中央集権的な絶対王権の世界では無かったということだと思います。古代の日本も大和政権が絶対的なものではなかったと考えることに通じていくように思います。

2018年10月18日木曜日

都市国家

梵字入門(応用編)、松本俊影編、三密堂出版
この本の最初に梵字の歴史について記述されているところ丸写しです。

1,インドの変遷(梵字に関係ある部分のみ)
 梵字の歴史を語るに先だって、インドの古代の様子を簡単にたどって置きたいと思う。インドの文明を建設した人種はアーリア民族であるが、この民族はもとからインドにいたわけではない。紀元前二五〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域には原住民による高度の都市文明が発達し、一種の象形文字もあった(但しこの文字は未だ解明されていない。)。この文明をインダス文明と呼ぶが、前二〇〇〇年頃、アーリア人が中央アジアのオクサス川流域方面からインダス川流域へ侵入して来て定住し、ドラヴィダ族等その地方の原住民を服属させて奴隷とした。こうしてインダス文明は破壊された。それ以後はアーリア人中心の文化に移る。始めアーリア人は半農半牧の民であったが、川の恵みによって農耕の生活に変わっていった。この頃、リグ・ヴェーダ(前一五〇〇~一〇〇〇)が成立。前一〇〇〇年頃、その勢力は東のガンジス川流域へと拡大していき、都市国家が成立。それにつれて部族長であるラージャの権力が増大し、インド人の間に階級が生じてきた。これをカースト制度という。その制度はバラモン(僧族)を最高身分として、次が軍事面の指導者である王や武士階級、第三が農工商を営む普通の人民で、これらの三階級はアーリア人であるが、最下位の奴隷はアーリア人以外の征服されたドラビタ族(*最初と表記が違っています。)等の人達で、 種々の賤業苦役に従事させられた。結婚、職業などにも強い制約をもった世襲の厳しい身分制度であった。こうした制度を認め、僧族偏重のバラモンの説く教に反抗の声があがるのは当然であって、その支配に反対する宗教革新運動を展開したのが仏教とジナ教であった。釈尊(前五六六~前四八五?)はこの時期に在って、人間の平等と八正道をおこなうことによって苦を解脱することが出来ると説き仏の慈悲を説いた。仏教が特に士族に支持されたのに対し、ジナ教は商人階級に支持をえた。・・・・以下略。
 仏教の話も面白く、カースト制度が紀元前からというのは驚きですが、都市国家というのに興味が引かれます。初期には都市国家であるのは、ギリシャでアテネやスパルタがあったように、都市国家ができて文明が発達していくのが一般的ではないかと思われます。日本の場合も皇国史観にこだわりすぎていて、古い時代にすでに統一されていたような錯覚を持っていますが、少なくとも奈良時代より前は、日本でも都市国家のようなものがあって、ある程度文化的な面(祭祀儀礼など)では共通するところがあっても、ほかの面では、ばらばらであったと考える方が無理がないです。

追記:H30.10.24
この梵字入門の本は古いので、アーリア人が侵攻してきたことやカースト制度については現代では認識が違ってきているようです。

2018年10月17日水曜日

鴨稲荷山古墳の石棺

近江、石の文化財、瀬川欽一著、サンライズ出版
を図書館から借りてパラパラと読みました。石造物について丁寧に書かれいて勉強になりそううです。その中で、
近江に各地から持ち込まれた石材として
笏谷石(越前凝灰岩)や和泉石(阪南市にある葛城山系の砂岩)などが入って来ているようです。和泉石は安土桃山時代を迎えた頃より、淀川水系を舟で琵琶湖に大量に運び込まれて湖岸地方を中心に、これ以降の供養塔となる一石五輪塔として近江の墓石の大半を占めていくようになります。・・・石棺の項で
滋賀県で最も有名なのは、高島町大字鴨にある稲荷山古墳の石棺で、大和時代の継体天皇の父にああたる彦牛王の墓という伝説があります。この石棺は、家形石棺といって、石室は近江では出ていない白色凝灰岩が使われていて、大和の国の二上山山麓から近江までわざわざ運ばれています。たぶん水運によって運ばれたものと思われますが、伝説として残る6世紀前半の彦牛王の湖西における権力の偉大さと、政治的な大和朝廷との結びつきの強固さをうかがうことができます。
 もとの古墳は全長45メートルの前方後円墳で、石棺の長さは2.3メートル、幅1メートル30センチ。棺外と棺内のそれぞれにあった豪華な副葬品が、古代朝鮮半島の新羅国にある墳陵の副葬品と似ていることから、近江に特徴的な渡来人の文化を示す例でもあります。
とあります。
伝説的な話はおいといて、陸路を二上山から運んできたとは思われません。湖上のルートが古い時代から確立していて、それが継続していたように思われます。

2018年10月14日日曜日

芦浦観音寺と秀吉の朝鮮出兵

 芦浦観音寺は滋賀県草津市北部の芦浦町にあります。国会図書館のデジタルライブラリーで「近江:歴史と文化」川勝政太郎著の中に載っていました。
秀吉の時代に船奉行を命ぜられ、琵琶湖の水運を一括差配するようになったということです。この本には
近世の琵琶湖の湖上通行の実権を握っていたことは有名だが、湖上通行の許可と通交税の徴収によって大きい権力と経済力を持ったのである。叡山焼打ちのあと、坂本にいた西川氏出身の詮舜《せんしゅん》は観音寺に入り、秀吉の征韓の軍に、琵琶湖の水手《かこ》200人を集めて水軍を組んで参加した・・・
とあります。
 秀吉の時代であっても、対外的には琵琶湖の水運に利用価値があったということだろうと思います。遣隋使や遣唐使の時代であればなおさら琵琶湖の水運の利用が重要であったと思います。
芦浦観音寺のpdf

追記:H30.10.29
船奉行は12名いたと何かに書いていました。それほど有力では無かったかもしれません。