聖徳太子が存在しないとすれば、飛鳥時代とは何かということになります。
倭国の中心は吉備の国にあり、その後、前期難波宮に移ったとして、飛鳥の地をどう考えるかということになります。
吉備の国が中心とすると、現在の明日香村は周辺の地域に思われます。飛鳥地方に変わった石造物が残っています。七世紀頃のもののようですが、日本では通常見られない造形のもので、その時代のみでその後は廃れてしまいます。朝鮮半島由来の土俗信仰に基づくものか?ということです。これを考えると、朝鮮からの渡来人は倭国の中心に住居を構えることは難しく、周辺地域に配置され、文化習慣が違うので集団で住んだのではと想像します(イメージは現在の横浜や神戸の南京町)。また山に近いところなので、農業生産力があまり無さそうなところです。それ以外のこと、たとえば工人集団として、物作りで生活する必要があります。その一つとして石造物が造られたのではと思います。多くは花崗岩で硬く、当時としてはレベルの高い物のようで、軟質の凝灰岩製ではないようです。
また近江大津宮というところがあった地域で、大津北郊域の住居跡には床暖房のオンドルなどを持つものが見つかっています。この地も琵琶湖西岸で農業生産力が無さそうな地域ですが渡来人一世の配置された地域に思われます。朝鮮からの生活習慣を持ち込んだオンドルなども二世の時代には廃れたことは、飛鳥の石造物も日本の中では受け入れられずに廃れたということと同様だと思います。微妙な地域差もありそうです。
飛鳥寺の場所(チェックマーク)緑に示された際にあるように思います。都があるような所には思われません。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2018年8月31日金曜日
2018年8月12日日曜日
阿蘇ピンク石製石棺
古墳時代の生産と流通、和田晴吾著、吉川弘文館発行
この本に阿蘇ピンク石が載っています。その少し前からの抜き書きです。
古墳時代後期のところから
①古墳秩序の変化
古墳時代後期(五世紀後葉~六世紀後葉)に入ると、古墳の築造状況に大きな変化が現れた。中期に偉容を誇った大型前方後円墳やその古墳群が急速に衰退・消滅する一方で、新たな墓域に中小の前方後円墳が築かれだすとともに、これまで首長の下にあって、弥生以来の伝統的な墓制(方形周溝墓や方形台状墓。一部に円形)を採用してきた共同体上層部の墓が一斉に円墳化するのである。群集墳と呼ばれる小型の円墳群が広汎に出現したのである。中略。五世紀末から六世紀初頭ごろを中心に、王権は大きく動揺し混乱したのである。この状況が克服され、中央集権的体制づくりが本格化しだすのは、後期中葉後半(六世紀第2四半期)からのことである。(和田二〇〇四)
②埋葬施設と棺の変化
ところで、この変革期には、古墳の埋葬施設関係にも大きな変化が起こった。前期以来の長大な竪穴式石槨や粘土槨が衰退し、中期を代表した長持形石棺が消滅する一方で、畿内でも新たに伝わった横穴式石室が定着し、内部に家形石棺という新形式の棺を配置する墓制が生み出されたのである。
(2)阿蘇ピンク石製石棺
まず石棺では、阿蘇ピンク石製石棺が作り出された。阿蘇石といえば、これまでは灰石が用いられてきたが、この時期には熊本県宇土市産するピンク石(地元では馬門石と呼ぶ)が開発され、刳抜式石棺が作られた(渡辺ほか一九八九)。最初は舟形石棺として作られ、竪穴式石槨の中に納められたが、まもなく新来の横穴式石室に納められるようになると、石室の平らな床にあわせて棺の底が平面化するととみに、すべての稜線が直線化した。この形態が家形石棺である。
この石棺の最大の特徴は、その分布にあり、製品が地元に一例もないのに対し、舟形石棺は奈良県東部に四ないしは五例、大阪府の古市古墳群に二例、岡山県に一例、家形石棺は奈良県に二例(一例は後期後葉)、滋賀県に三例(一例は推定)も出土しているのである。石材産地は九州であるが、突起をはじめとする蓋の形式は畿内的で、使用地も畿内であることから判断すれば、この石棺は、畿内の意図のもとに九州で作られ、畿内まではこばれたと考えられる。竜山石を利用できない、奈良県東部を中心とする畿内の一部勢力が、石材を九州に求め、長持形石棺とは異なる独自の型式の舟形石棺・家形石棺を作り出した可能性が高い。この時期、畿内の一部勢力はそれだけ九州の有明海沿岸勢力と強いつながりをもったのである。しかし、王権が安定し、竜山石が再び利用されだし、新たに二上山白石の開発が始まると、阿蘇ピンク石製石棺は衰退する。ただ、この石棺の下で生まれた家形石棺の型式は、後の畿内的家形石棺の基本形となった。
とあります。この本の少し前のところに、古墳時代の前期のところで、石棺が遠くから運ばれるのには、石棺の被葬者がその製作地の一族または近い関係の人でなかったかということが述べられています。つまり阿蘇のピンク石製石棺の被葬者は阿蘇の出身の人ではないかということです。阿蘇からこれらの地域に移住した人は遣隋使の前の頃と考えると、阿蘇山の噴火で避難した人たちに思えてきます。このあたり妄想になります。吉備の地区の「あそ」だけでなく、各地に移住したと考えられます。阿蘇から移住し、のたれ死にした人は痕跡は残りにくいですが、功成り名を遂げた人はお墓が出来ます。生まれ育ったところに埋葬されるのが理想ですが、その子の二世の代では墓参りが大変で何とかしたいと思うでしょう。阿蘇山を持ってくるわけにはいかないので、その一部の阿蘇のピンク石製石棺を持ってきて、埋葬する事で我慢してもらおうということです。三世の時代になると、そこまでの思いがなくなり、大変な労力を要するので、近くの竜山石で良いだろうとなり、継続しなかったと思います。ここでピンク石製石棺の分布ですが、私には岡山県が少なく、離れた地域に多いように思われます。つまり、阿蘇から避難してきた人で必要な人は吉備国、それほでない人は周辺地に配置されたように見えてきます。つまり倭国は吉備が中心であったことを間接的に示しているように思われました。この考え方にまだまだなところはあります。古墳前期にも阿蘇灰石が畿内に運び込まれています。この時は阿蘇山の噴火と言えないように思われますので(しょっちゅう阿蘇山が噴火するとは考えられないので)、人の移住がどのように行われたか想像できず、思いつきの話ではあります。
この本に阿蘇ピンク石が載っています。その少し前からの抜き書きです。
古墳時代後期のところから
①古墳秩序の変化
古墳時代後期(五世紀後葉~六世紀後葉)に入ると、古墳の築造状況に大きな変化が現れた。中期に偉容を誇った大型前方後円墳やその古墳群が急速に衰退・消滅する一方で、新たな墓域に中小の前方後円墳が築かれだすとともに、これまで首長の下にあって、弥生以来の伝統的な墓制(方形周溝墓や方形台状墓。一部に円形)を採用してきた共同体上層部の墓が一斉に円墳化するのである。群集墳と呼ばれる小型の円墳群が広汎に出現したのである。中略。五世紀末から六世紀初頭ごろを中心に、王権は大きく動揺し混乱したのである。この状況が克服され、中央集権的体制づくりが本格化しだすのは、後期中葉後半(六世紀第2四半期)からのことである。(和田二〇〇四)
②埋葬施設と棺の変化
ところで、この変革期には、古墳の埋葬施設関係にも大きな変化が起こった。前期以来の長大な竪穴式石槨や粘土槨が衰退し、中期を代表した長持形石棺が消滅する一方で、畿内でも新たに伝わった横穴式石室が定着し、内部に家形石棺という新形式の棺を配置する墓制が生み出されたのである。
(2)阿蘇ピンク石製石棺
まず石棺では、阿蘇ピンク石製石棺が作り出された。阿蘇石といえば、これまでは灰石が用いられてきたが、この時期には熊本県宇土市産するピンク石(地元では馬門石と呼ぶ)が開発され、刳抜式石棺が作られた(渡辺ほか一九八九)。最初は舟形石棺として作られ、竪穴式石槨の中に納められたが、まもなく新来の横穴式石室に納められるようになると、石室の平らな床にあわせて棺の底が平面化するととみに、すべての稜線が直線化した。この形態が家形石棺である。
この石棺の最大の特徴は、その分布にあり、製品が地元に一例もないのに対し、舟形石棺は奈良県東部に四ないしは五例、大阪府の古市古墳群に二例、岡山県に一例、家形石棺は奈良県に二例(一例は後期後葉)、滋賀県に三例(一例は推定)も出土しているのである。石材産地は九州であるが、突起をはじめとする蓋の形式は畿内的で、使用地も畿内であることから判断すれば、この石棺は、畿内の意図のもとに九州で作られ、畿内まではこばれたと考えられる。竜山石を利用できない、奈良県東部を中心とする畿内の一部勢力が、石材を九州に求め、長持形石棺とは異なる独自の型式の舟形石棺・家形石棺を作り出した可能性が高い。この時期、畿内の一部勢力はそれだけ九州の有明海沿岸勢力と強いつながりをもったのである。しかし、王権が安定し、竜山石が再び利用されだし、新たに二上山白石の開発が始まると、阿蘇ピンク石製石棺は衰退する。ただ、この石棺の下で生まれた家形石棺の型式は、後の畿内的家形石棺の基本形となった。
とあります。この本の少し前のところに、古墳時代の前期のところで、石棺が遠くから運ばれるのには、石棺の被葬者がその製作地の一族または近い関係の人でなかったかということが述べられています。つまり阿蘇のピンク石製石棺の被葬者は阿蘇の出身の人ではないかということです。阿蘇からこれらの地域に移住した人は遣隋使の前の頃と考えると、阿蘇山の噴火で避難した人たちに思えてきます。このあたり妄想になります。吉備の地区の「あそ」だけでなく、各地に移住したと考えられます。阿蘇から移住し、のたれ死にした人は痕跡は残りにくいですが、功成り名を遂げた人はお墓が出来ます。生まれ育ったところに埋葬されるのが理想ですが、その子の二世の代では墓参りが大変で何とかしたいと思うでしょう。阿蘇山を持ってくるわけにはいかないので、その一部の阿蘇のピンク石製石棺を持ってきて、埋葬する事で我慢してもらおうということです。三世の時代になると、そこまでの思いがなくなり、大変な労力を要するので、近くの竜山石で良いだろうとなり、継続しなかったと思います。ここでピンク石製石棺の分布ですが、私には岡山県が少なく、離れた地域に多いように思われます。つまり、阿蘇から避難してきた人で必要な人は吉備国、それほでない人は周辺地に配置されたように見えてきます。つまり倭国は吉備が中心であったことを間接的に示しているように思われました。この考え方にまだまだなところはあります。古墳前期にも阿蘇灰石が畿内に運び込まれています。この時は阿蘇山の噴火と言えないように思われますので(しょっちゅう阿蘇山が噴火するとは考えられないので)、人の移住がどのように行われたか想像できず、思いつきの話ではあります。
2018年8月10日金曜日
牛の歴史
馬は古墳で良く出てきます。一方、牛はどうだろうかということですが、牛は六世紀に日本に入ってきたので古墳の時代には関係ないようです。牛についての本はあまりありませんが、たまたま図書館で見つけた
人と動物の日本史2 歴史の中の動物たち、中澤克昭編、吉川弘文館
の中の「農耕と牛馬」のところが面白かったので抜き書きです。
その前に、明治時代のものですが、東の馬、西の牛とのデータがあります。この七頁・八頁の図です。これを見て、いろいろな東西の日本の違いの分布の一つと考えられますが、単純なものではなさそうです。先の本では牛馬の東西の分布にいたった紆余曲折が詳しく書かれています。
『魏志倭人伝』が倭の地には牛馬なしと伝えているように弥生時代から古墳時代初めの日本列島には牛も馬もいなかった。五世紀になって大和政権が朝鮮半島から軍事用に馬の導入をはかり、その後、倭の五王の使節が中国江南地方から馬鍬を持ち帰った。牛はまだ飼われていなかったので、馬鍬を馬に引かせることになって、馬の農耕利用が始まった。これは福島県を境界領域として関東以西に広まった。六世紀には大和政権や地方首長に招かれた渡来氏族が朝鮮半島から生活用具として牛を持ち込み、彼らの居留地で牛に犂を引かせた。これが日本列島の牛耕の始まりで、この牛を持ち込んだ渡来人は畿内・西日本に多くが分布していたと考えられ、これが「西の牛」の起源となる。七世紀には大化の改新政府が唐に対抗する殖産興業政策の一環として中国系長床犂の普及政策を展開、政府モデル犂を評督となった地方首長に配布した。この政策を拒否できなかった西日本では犂耕の空白地帯がほぼ姿を消すことになるが、大和政権の支配力の弱かった東国では、長床犂普及政策を無視する地域もあったようで、この東西の差が牛馬耕の西高東低状況を基本的に形づくったと考えられる。その後、百済・高句麗の滅亡にともなう難民が日本列島に渡ってくるが、政府は彼らを中部・関東地方に配置した。難民は牛を連れてくる余裕はなどなく、牛の入手が困難な東国では馬に犂を引かせた。これが東日本の馬耕の起源となる。平安時代以降は、蝦夷の馬の受容によって東北地方が馬産地になったこと、中部・関東地方は武士団の勃興とともに牛から馬へのシフトが起こったこと、これとは逆に西日本では田堵=一般百姓の成長とともに馬から牛へのシフトが起こったこと、これらが中世を通じて進行して近世を迎えるころには「東の馬、西の牛」という分布ができあがっていた。近世では加賀藩・薩摩藩などで馬耕の奨励がおこなわれ、牛から馬へのシフトがみられた。土佐藩や北九州諸藩でもそうした動きがあったと推測され、西日本の牛地帯にも馬優位の地域が混在することになる。近代に入ると福岡県の馬耕教師が全国に派遣されて乾田馬耕の普及をすすめた結果、犂を使っていなかった東北地方が馬耕地帯となり、中部・関東地方に点在した鍬《くわ》耕地帯にも馬耕が普及した。満州事変からアジア・太平洋戦争の進行にともなって軍馬の徴発がすすみ、馬の代わりに牛が導入される地方も見られた。これらの牛馬は、戦後の食糧難を克服する過程で大きな役割を果たしたが、一九六〇年代以降の農業の機械化の中で姿を消し、五世紀以降の牛馬の農耕利用の歴史の幕を閉じた。
とのことです。丸写しになりましたが、西日本は大まかに馬→馬と牛→牛、東日本は馬→遅れて牛が導入され馬と牛→また馬に戻るようです。単純な東西分布では無いようです。大化の改新政府とかはなかったという(私の考え)のと整合性が必要ですので、もう少し考える必要があります。
牛と犂は朝鮮半島からということで、渡来人がどこに持ち込んだのかということがこの本に述べられています。牛に犂などを引かせるのに首木《くびき》を用いる。関西では牛の首にひもで取り付ける形式である。ところが紀伊半島の首木には牛の首に両側からはさむ首かせ棒がついている。これが朝鮮半島の形式なので、この地に渡来人が持ち込んだと考えられる。この地ではこの農具をオナグラやウナグラと呼んで、ウナ+グラで、ウナジ(首筋)に置いたクラ(鞍)の意味で、鞍は背中に置くが、なんと首に置くのかとの驚きがあったという。鞍は背中に置くという先入観を持っていたので、馬や馬鍬よりも後と推定される。ウナはウナズク、ウナダル(うなだれる)、ウナガスなど首筋に関する言葉で、日本書紀ではすでにウナジであり、ウナは六世紀と推定しています。この首木をウナグラと呼ぶ地域がもう一カ所、山口県東部の周防地方である。この二カ所のみが、中国や朝鮮と同じ首引き法という牛の胴体を利用しない方法を残していること、ウナグラという古い時代の言葉を伝えていること、この地域が朝鮮からの伝統を守り続けたのはなぜかということです。この地域の室積湾が、天然の良港であり、ムロツミ(館)が古語で客館を意味し、迎賓施設あった可能性があり、遣隋使の返使の裴世清来たときの秦王国に関係すると考えられる。外交に関わる場所で、通訳としての任務が求められたことで、朝鮮語を使い続けるために、その環境を残したとのことである。私の今の理解では江戸時代の長崎のような外国との窓口のようなところだったのだろうと思います。
鎌倉時代、東大寺大仏殿の再建の時、近畿地方では木材の調達ができず、この地方から輸送した話を思い出しました。その時は唐突に思っていましたが、今思えば、農具が伝わったのが、二カ所の一つ、木の国(紀伊国)で、もう一つの周防も実質木の国であって、海外に向かう木造船を古い時代から作っていた実績があって当然のように思えてきます。
人と動物の日本史2 歴史の中の動物たち、中澤克昭編、吉川弘文館
の中の「農耕と牛馬」のところが面白かったので抜き書きです。
その前に、明治時代のものですが、東の馬、西の牛とのデータがあります。この七頁・八頁の図です。これを見て、いろいろな東西の日本の違いの分布の一つと考えられますが、単純なものではなさそうです。先の本では牛馬の東西の分布にいたった紆余曲折が詳しく書かれています。
『魏志倭人伝』が倭の地には牛馬なしと伝えているように弥生時代から古墳時代初めの日本列島には牛も馬もいなかった。五世紀になって大和政権が朝鮮半島から軍事用に馬の導入をはかり、その後、倭の五王の使節が中国江南地方から馬鍬を持ち帰った。牛はまだ飼われていなかったので、馬鍬を馬に引かせることになって、馬の農耕利用が始まった。これは福島県を境界領域として関東以西に広まった。六世紀には大和政権や地方首長に招かれた渡来氏族が朝鮮半島から生活用具として牛を持ち込み、彼らの居留地で牛に犂を引かせた。これが日本列島の牛耕の始まりで、この牛を持ち込んだ渡来人は畿内・西日本に多くが分布していたと考えられ、これが「西の牛」の起源となる。七世紀には大化の改新政府が唐に対抗する殖産興業政策の一環として中国系長床犂の普及政策を展開、政府モデル犂を評督となった地方首長に配布した。この政策を拒否できなかった西日本では犂耕の空白地帯がほぼ姿を消すことになるが、大和政権の支配力の弱かった東国では、長床犂普及政策を無視する地域もあったようで、この東西の差が牛馬耕の西高東低状況を基本的に形づくったと考えられる。その後、百済・高句麗の滅亡にともなう難民が日本列島に渡ってくるが、政府は彼らを中部・関東地方に配置した。難民は牛を連れてくる余裕はなどなく、牛の入手が困難な東国では馬に犂を引かせた。これが東日本の馬耕の起源となる。平安時代以降は、蝦夷の馬の受容によって東北地方が馬産地になったこと、中部・関東地方は武士団の勃興とともに牛から馬へのシフトが起こったこと、これとは逆に西日本では田堵=一般百姓の成長とともに馬から牛へのシフトが起こったこと、これらが中世を通じて進行して近世を迎えるころには「東の馬、西の牛」という分布ができあがっていた。近世では加賀藩・薩摩藩などで馬耕の奨励がおこなわれ、牛から馬へのシフトがみられた。土佐藩や北九州諸藩でもそうした動きがあったと推測され、西日本の牛地帯にも馬優位の地域が混在することになる。近代に入ると福岡県の馬耕教師が全国に派遣されて乾田馬耕の普及をすすめた結果、犂を使っていなかった東北地方が馬耕地帯となり、中部・関東地方に点在した鍬《くわ》耕地帯にも馬耕が普及した。満州事変からアジア・太平洋戦争の進行にともなって軍馬の徴発がすすみ、馬の代わりに牛が導入される地方も見られた。これらの牛馬は、戦後の食糧難を克服する過程で大きな役割を果たしたが、一九六〇年代以降の農業の機械化の中で姿を消し、五世紀以降の牛馬の農耕利用の歴史の幕を閉じた。
とのことです。丸写しになりましたが、西日本は大まかに馬→馬と牛→牛、東日本は馬→遅れて牛が導入され馬と牛→また馬に戻るようです。単純な東西分布では無いようです。大化の改新政府とかはなかったという(私の考え)のと整合性が必要ですので、もう少し考える必要があります。
牛と犂は朝鮮半島からということで、渡来人がどこに持ち込んだのかということがこの本に述べられています。牛に犂などを引かせるのに首木《くびき》を用いる。関西では牛の首にひもで取り付ける形式である。ところが紀伊半島の首木には牛の首に両側からはさむ首かせ棒がついている。これが朝鮮半島の形式なので、この地に渡来人が持ち込んだと考えられる。この地ではこの農具をオナグラやウナグラと呼んで、ウナ+グラで、ウナジ(首筋)に置いたクラ(鞍)の意味で、鞍は背中に置くが、なんと首に置くのかとの驚きがあったという。鞍は背中に置くという先入観を持っていたので、馬や馬鍬よりも後と推定される。ウナはウナズク、ウナダル(うなだれる)、ウナガスなど首筋に関する言葉で、日本書紀ではすでにウナジであり、ウナは六世紀と推定しています。この首木をウナグラと呼ぶ地域がもう一カ所、山口県東部の周防地方である。この二カ所のみが、中国や朝鮮と同じ首引き法という牛の胴体を利用しない方法を残していること、ウナグラという古い時代の言葉を伝えていること、この地域が朝鮮からの伝統を守り続けたのはなぜかということです。この地域の室積湾が、天然の良港であり、ムロツミ(館)が古語で客館を意味し、迎賓施設あった可能性があり、遣隋使の返使の裴世清来たときの秦王国に関係すると考えられる。外交に関わる場所で、通訳としての任務が求められたことで、朝鮮語を使い続けるために、その環境を残したとのことである。私の今の理解では江戸時代の長崎のような外国との窓口のようなところだったのだろうと思います。
鎌倉時代、東大寺大仏殿の再建の時、近畿地方では木材の調達ができず、この地方から輸送した話を思い出しました。その時は唐突に思っていましたが、今思えば、農具が伝わったのが、二カ所の一つ、木の国(紀伊国)で、もう一つの周防も実質木の国であって、海外に向かう木造船を古い時代から作っていた実績があって当然のように思えてきます。
2018年8月3日金曜日
遣隋使のストーリー
遣隋使が可能な条件として、途中の交通路と通訳(当時の日本では中国語が話されておらず、おおよそアイヌ語の古語であったと思っています)が必要に思われます。そのきっかけを考えてみました。
まず阿蘇山の噴火があります。この地にいた渡来系の人たち(かなりの複数)は、どこかに難を逃れることを考えると思います。生産力に余裕のある地域として近くには見当たらず、吉備国にやってきたのではないでしょうか。五月雨式に吉備国に移住し、「あそ」の集落を作り、そこで鍛冶や焼物などの技術を伝え、地域の発展に貢献したと思われます。吉備国には生産余力があり、受け入れることが出来たのだと思います。この時に、吉備の首長は、避難してきた交通路を用い、おそらく渡来系の人の中に当時の中国の人と会話能力を持った人がいて、通訳として遣隋使を派遣することを考えたのだと思います。返使として裴世清がやってきた道中などで、通訳の人との間で出自が話題となり、阿蘇山がでてきたと考えられます。返使には山が噴火することの知識がなく、強い印象が唐側の記録に残ったのでしょう。阿蘇の人たちがきっかけとなり、倭国の首長が使いを送ることを考え、移住してきた人のノウハウ(まだ倭国と認識されていなかった中間地の国々との宿泊の交渉など)を頼ることができたからと思えます。本当に思いつきで、阿蘇山の噴火がその当時あったのか、移住したとしてその痕跡があるのかとか、まったく無いので、証拠探しが必要です。しかしありうる話と思われます。
まず阿蘇山の噴火があります。この地にいた渡来系の人たち(かなりの複数)は、どこかに難を逃れることを考えると思います。生産力に余裕のある地域として近くには見当たらず、吉備国にやってきたのではないでしょうか。五月雨式に吉備国に移住し、「あそ」の集落を作り、そこで鍛冶や焼物などの技術を伝え、地域の発展に貢献したと思われます。吉備国には生産余力があり、受け入れることが出来たのだと思います。この時に、吉備の首長は、避難してきた交通路を用い、おそらく渡来系の人の中に当時の中国の人と会話能力を持った人がいて、通訳として遣隋使を派遣することを考えたのだと思います。返使として裴世清がやってきた道中などで、通訳の人との間で出自が話題となり、阿蘇山がでてきたと考えられます。返使には山が噴火することの知識がなく、強い印象が唐側の記録に残ったのでしょう。阿蘇の人たちがきっかけとなり、倭国の首長が使いを送ることを考え、移住してきた人のノウハウ(まだ倭国と認識されていなかった中間地の国々との宿泊の交渉など)を頼ることができたからと思えます。本当に思いつきで、阿蘇山の噴火がその当時あったのか、移住したとしてその痕跡があるのかとか、まったく無いので、証拠探しが必要です。しかしありうる話と思われます。
2018年8月1日水曜日
古墳時代のイメージ
あくまで個人的な理解です。
古墳時代は、吉備か畿内かの地域で始まったと思います。鉄器など用い、ある程度の規模の水田が開発され、生産力拡大により、大きな集団がまず成立しました。生産余力があるので、近辺も開発され、水田の造成しやすい所に拡張されていきます。おそらく、ある程度の人手を集中して棚田などが開発されていき、稲の生産が順調井なれば、また遠いところへと延伸していき、地理的条件の良いところ(扇状地の根元などか)ではより大きな水田が開発されていったと考えられます。生産力の大きいところでは、開発のリーダーである首長が死ねば、祀るか業績を顕彰することで大きなお墓が作られたと思います。それが前方後円墳にあたるもので、巨大な労力を要し、人力だけでなく、馬などの家畜を利用し、おそらく棚田が開発されていたと思われるので、階段状の棚田をイメージし、技術的には吉備か畿内の技術的な支援を得て造成されたと想像します。その時には、各地域の棚田が村として成立し、ネットワークが完成し(石棺などの大きな物も運送できるネットワークになっていた?)、人の移動が容易になっていたと思われます。これは空海が高野山と京都を移動するのに、観心寺・大和飛鳥の川原寺(弘福寺)・東大寺・東寺と中継ポイントを作って、食料と宿の確保を容易にしたことから、類推されます(観心寺の出来た理由)。棚田の生産性が低くてもネットワークの維持ということで、違う価値観で棚田が存在できたとも考えられます。古墳時代の画期は、馬を利用することで人力から棚田開発のレベルを上げたというイノベーションにあると思えます。牛馬による開発と思っていましたが、牛については骨などが発掘されていないようで、いつ頃に導入されたか不明ですが、馬については馬具が古墳で見つかるので確実であろうと思われます(1より)。
時代的にはいつかわかりませんが、鉄器の存在も大きいと思われます。今でも包丁を使っていると切れ味が悪くなってきます。研ぐことになりますが、古い時代に良い砥石がなかったのではと思います。鉄器をメンテするには、焼鈍しでまず軟らかくして、刃の修正を行い、そのままでは長く使用できませんので、焼入れで硬くして使用します。熱処理をして修正しながらでないと継続的に使用できません。鉄器の利用し続けるには職人的な人を必要とします。最初は商業ベースの鍛冶屋さんはいませんので国家的な集団の中で確保しなければならなかったと思います。古墳時代には鉄器の継続使用のシステムが完成していたと思われます。
またネットワークの発達で、人の移動が活発になり、言語的には日本語の元となったアイヌ語の古い時代のものが広い地域に成立したことも想像させます。ついでですが、古墳時代からその後の条里制の律令制の時代への変化ですが、文字の導入がイノベーションになったかもしれません。(農地開発の何らかの技術革新が何かあったはずです)。渡来人が文字を持ち込み、人数的には比率は小さかったものの影響力は大きくて、アイヌ語の祖先と朝鮮語の祖先の言語が衝突して日本語の最初のものができたと考えます。条里制の時代に牛が導入されたことが画期となった可能性もあります。後の「東日本の馬、西日本の牛」ということにつながっているかもしれません。平安時代には牛車であって、馬車ではありません。どうも農村には牛がいるイメージが私には強くあります。午の字を「うま」と理解しますが牛から角をとったことからと聞いたことがあります。昔、うま小屋と聞いて、馬がいるのかと思ったのが、実際は牛であったことがありました。牛と馬が同じようなものと考えられていたのか、それとも最初は馬だったのが、後に牛に変化したからかもと考えられますが、千数百年前に遡る話になるのかとも思います。まだまだ大雑把で、多分あちこちに間違いがあるはずですが、現在の古墳時代のイメージです。
1.列島の考古学 古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社
古墳時代は、吉備か畿内かの地域で始まったと思います。鉄器など用い、ある程度の規模の水田が開発され、生産力拡大により、大きな集団がまず成立しました。生産余力があるので、近辺も開発され、水田の造成しやすい所に拡張されていきます。おそらく、ある程度の人手を集中して棚田などが開発されていき、稲の生産が順調井なれば、また遠いところへと延伸していき、地理的条件の良いところ(扇状地の根元などか)ではより大きな水田が開発されていったと考えられます。生産力の大きいところでは、開発のリーダーである首長が死ねば、祀るか業績を顕彰することで大きなお墓が作られたと思います。それが前方後円墳にあたるもので、巨大な労力を要し、人力だけでなく、馬などの家畜を利用し、おそらく棚田が開発されていたと思われるので、階段状の棚田をイメージし、技術的には吉備か畿内の技術的な支援を得て造成されたと想像します。その時には、各地域の棚田が村として成立し、ネットワークが完成し(石棺などの大きな物も運送できるネットワークになっていた?)、人の移動が容易になっていたと思われます。これは空海が高野山と京都を移動するのに、観心寺・大和飛鳥の川原寺(弘福寺)・東大寺・東寺と中継ポイントを作って、食料と宿の確保を容易にしたことから、類推されます(観心寺の出来た理由)。棚田の生産性が低くてもネットワークの維持ということで、違う価値観で棚田が存在できたとも考えられます。古墳時代の画期は、馬を利用することで人力から棚田開発のレベルを上げたというイノベーションにあると思えます。牛馬による開発と思っていましたが、牛については骨などが発掘されていないようで、いつ頃に導入されたか不明ですが、馬については馬具が古墳で見つかるので確実であろうと思われます(1より)。
時代的にはいつかわかりませんが、鉄器の存在も大きいと思われます。今でも包丁を使っていると切れ味が悪くなってきます。研ぐことになりますが、古い時代に良い砥石がなかったのではと思います。鉄器をメンテするには、焼鈍しでまず軟らかくして、刃の修正を行い、そのままでは長く使用できませんので、焼入れで硬くして使用します。熱処理をして修正しながらでないと継続的に使用できません。鉄器の利用し続けるには職人的な人を必要とします。最初は商業ベースの鍛冶屋さんはいませんので国家的な集団の中で確保しなければならなかったと思います。古墳時代には鉄器の継続使用のシステムが完成していたと思われます。
またネットワークの発達で、人の移動が活発になり、言語的には日本語の元となったアイヌ語の古い時代のものが広い地域に成立したことも想像させます。ついでですが、古墳時代からその後の条里制の律令制の時代への変化ですが、文字の導入がイノベーションになったかもしれません。(農地開発の何らかの技術革新が何かあったはずです)。渡来人が文字を持ち込み、人数的には比率は小さかったものの影響力は大きくて、アイヌ語の祖先と朝鮮語の祖先の言語が衝突して日本語の最初のものができたと考えます。条里制の時代に牛が導入されたことが画期となった可能性もあります。後の「東日本の馬、西日本の牛」ということにつながっているかもしれません。平安時代には牛車であって、馬車ではありません。どうも農村には牛がいるイメージが私には強くあります。午の字を「うま」と理解しますが牛から角をとったことからと聞いたことがあります。昔、うま小屋と聞いて、馬がいるのかと思ったのが、実際は牛であったことがありました。牛と馬が同じようなものと考えられていたのか、それとも最初は馬だったのが、後に牛に変化したからかもと考えられますが、千数百年前に遡る話になるのかとも思います。まだまだ大雑把で、多分あちこちに間違いがあるはずですが、現在の古墳時代のイメージです。
1.列島の考古学 古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社
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