写真に外れた、左に大きな木の根っこがのこっています。
建保七年正月二七日、鶴岡八幡宮において将軍実朝の右大臣拝賀の儀式が行われ、終了後の帰途、八幡宮別当の公暁に暗殺された。義時の代わりに御剱役を務めた源仲章も同時に切られた、という。犯行とされた場所は、石橋や社壇で(鎌倉歴史散歩、奥富敬之著、新人物往来社より)、大銀杏ではないようである。関係者の処分もあったかわからない。そもそも、公暁は鶴岡八幡宮寺の別当で、トップの地位にあり、実朝も何度も鶴岡八幡宮にくるので、この時でなくても良いようにも思われる。おそらく、北条政子の構想では、将軍実朝が万一の時に、公暁が還俗して将軍になるはずで、最悪のケースとなってしまっている。吾妻鏡では実朝の首を持って逃走しているが、公暁としては、ただ実朝がいなくなればよいだけなので、話としては無理があるように思われる。泰時も首実検で、見たことがなくわからないとかあるので(吾妻鏡)、とにかくあやしげな事件である。よくわからないが、実朝が公暁に殺され、犯人とされた公暁も殺されたということである。
源氏の関係がわかってなかったので、簡単な図を作ってみました。
頼朝の時から感じたが(安田義定の処分の話)、御家人つぶしをしているように感じました。かなり無理があり、御家人たちの納得したものではなく反発は強かったように思います(私個人的なものです)。頼家が家督を相続しての一三人の合議制、御家人六六人連署による側近の梶原景時に対する弾劾状がもとで梶原氏滅亡。頼家派の比企氏の滅亡、同時に子の一幡も殺されます。頼家も修善寺に幽閉されます。将軍の力をそぐ方向で考えられているようです。実朝が三代将軍として擁立されますが、建保四年(一二一六)九月、義時が大江広元を通じて実朝の大将任官の望みを諫める(理由は昇進のスピードが速すぎるとのことです)ことがありました。実朝はこれを却けます(吾妻鏡)。これは後付けみたいな話で実際にあったか不明ですが、義時は実朝が昇進して将軍の力が強くなることを嫌っていたことが、エピソードとして入ったように思えます。北条時政が平賀朝雅を将軍にと画策し(実際は牧御方?)、政子や義時がこれを防いだことで、時政は出家します。この時点で時政は、将軍は誰でも良いと考えていたようです。実朝暗殺の時も、義時配下の誰かが、実朝の力が強くなることを警戒して、源氏の系統を消し去ってように妄想します。
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