図の上の方が段葛で、参道、太鼓橋の両側が源平池 |
平家池の方の写真です。手前のロープ側も島の先です。3島向こうの方にあります。4島入れるのはむつかしいです。
池の中島にある弁財天社の由緒記に、
頼朝公夫人の政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景善に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家の滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
とありました。鎌倉時代には源平の対立のような考え方は無かったと考えていたので、少しショックでした。しかし、調べてみると
「御鎮座八百年 鶴岡八幡宮」平成三年十一月二十一日発行
発行:鶴岡八幡宮
上記の本の中の一二頁の源平池の解説に
寿永元年(1182)四月二十四日、社前の絃巻田と呼ばれる水田三町余の耕作をやめ、専光房良暹や大庭景義らが奉行になって池に改めた。源平池の名は江戸時代からの俗称で、東方の池中に三島(中ノ島に弁天社を祀る)を築き、三に産をかけて源氏池、西方の池には四島を築いて四を死にかけて平氏池と称したという伝説がある。七月中旬から八月中旬にかけて紅白の蓮が美しい。
とあり、伝説と書かれています。別の所には
池は開削された後、埋め立てられたりはしていないようだが、豊臣秀吉によって進められた造営に関する、いわゆる」天正の指図」には池が描かれていない。しかし、享保十七年の鶴岡八幡宮境内図には現在に近い池の姿が描かれている。その後、明治年間には池が埋め立てられ馬場に改めたり、また開削されたようである。
ともあり、池には変遷があり、秀吉の頃には池がなさそうで、政子の話は伝説と考えられているように思われました。当時は源氏と平氏の対立だけで無く、源氏の中でも対立があり、源平の対立でまとめられなかったはずなので、考え方を変えずにいけそうです。
(おまけ)白に関連して、段葛を登校する小学生。案外目立ちます。
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