2018年3月24日土曜日

戦国時代の将棋

 藤井六段の活躍で将棋が注目されています。将棋もコンピュータのソフトが進歩し、下手の横好きでも棋譜解析が行え、楽しむことができるようになりました。羽生永世七冠の棋譜解析をたまにしますが、真摯に将棋に向き合っておられるように感じます。AIも何かしら問題があるようで、がんばってもらいたいものだと思います。
 現代の将棋ですが、洗練されたゲームになっていると思います。いつの時代からかということになれば、江戸時代以降であろうと思われます。
 ものと人間の文化史23 将棋、増川宏一著、法政大学出版局
将棋についに詳しく書かれています。出版年が1977年で少し古く、話が変わっている可能性もあります。
 将棋の起源ですが、駒の文字は漢字なので中国から。しかし中国では駒が線上を動きます。東南アジアでは立体的でマス目にあるので、日本で両者が合体したような話です。よく考えれば、簡単に、日本将棋連盟の日本将棋の歴史https://www.shogi.or.jp/history/story/
があるので、そちら良くわかると思います。そのなかで
15、16世紀には小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられます。とあります。この「醉象(すいぞう)」ですが、真後ろに動けないだけで玉と同じ動きをし、醉象が成ると「太子(たいし)」に変わり、玉将(王将)と同じ働きになります。 たとえ玉を取られても太子が存在する場合は、太子が取られるまで対局を続けることができました。奈良県の興福寺境内から発掘された駒が最古といわれ、「醉象(すいぞう)」も出土しました。駒は16点あり、同時に【天喜6年】=1058年=と書かれた木簡(もっかん。細長い木片)が出土しました(正確には天喜6年7月26日)。
しかし、この醉象が除かれた経緯について将棋連盟のところでは述べられていません。確定した話では無いようです。
先の本によると、
元禄七年(一六九四)版の『諸象戯図式』」には小将棋は「縦横九間駒数四二枚、近代醉象を除いて駒数四十枚」とあって、二代目西沢の説明にその理由は記されていない。しかし元禄九年の西沢太兵衛梓の『諸象戯図式』には、醉象のある小将棋の図と共に「天文年中(一五三二-一五五四)に後奈良帝が日野亜相藤晴光、林伊勢守平貞孝等に命じて醉象の駒を除く」とあり、それで現在のような駒数四十枚の将棋になったと説明している。故松浦大六氏所蔵の『象戯図式』は前記二書と同じであるが、駒数四十枚になったのは「日野郷士臣貞孝などが後奈良帝の勅をうけて小象戯の駒組から醉象の駒を除いた」と、やや異なった表現になっている。後奈良帝が命令して将棋の駒を四十二枚から四十枚にしたのはにわかに信じがたいが、元禄七年に<近代>と言っているのには何らかの根拠があったのかもしれない。・・と述べてある。続いて朝倉遺跡の話になる。
朝倉氏遺跡の駒 福井県(越前)一乗谷を織田信長の軍勢が攻め、朝倉義景など滅亡したが、館跡から駒が発見された。九十八枚、王将、飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵とそれと醉象、他は墨書不明二十枚(近代将棋誌第二十六巻第一号)。九種類は現在の駒と同じで一枚だけ醉象の駒がある。大将棋や中将棋のようなほかの駒がないことから、元禄七年の記述が確認された。同時に発掘された木製品より永禄三年(一五六〇)、同四年、同十年(一五六七)であり、遺物の下限をこの年におくのが妥当とされている。つまりこの頃まで四十二枚型の小将棋が遊ばれていたと推定できる。
と書いてある。
 ここで、醉象の駒が除かれた理由である。醉象の駒は成ると王将と同じ扱いになり、勝負がつきにくくなる。従ってゲーム的なことを考えれば、除かれるのも当然と考えられる。なぜ、後奈良天皇が出てくるのかと言うことが気になる。以下、私の想像である。
将棋の駒も現実の政治体制を反映していると思われ、右大臣。左大臣が王将の横の金将にイメージされていたかもしれない。室町幕府の前半の時代であれば、天皇と征夷大将軍が並立していたと考えられ、二頭体制であり、将棋にも同様に王将・醉象が取り入れられていたのではないか。しかし、実際の将棋のゲームでは具合が悪く、醉象を取り除きたかったものの、政治体制では足利氏排除となる形なので慮って出来なかった。ところが、この時代は、室町幕府でも戦国時代になり、足利氏の権威は衰えていて、将軍も都を離れたりしているので、醉象を除くことが可能になった。と想像される。
 後奈良天皇ですが、御製の和歌も多く、学問の造詣も深かったらしい。しかし朝廷も財政逼迫していて、10年後に即位式を行ったという。このような状態で将棋の駒の話などあるのかとも思えますが、先代の後柏原天皇の時、即位の礼まで二十一年かかったとのことで、この時は即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍足利義稙(10代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。(ウィキペディアより)
 後奈良天皇の将棋に関する文書があれば、確実だが、今のところ、天皇の命令があった可能性だけの妄想である。


2018年3月23日金曜日

やぐらと瑞泉寺庭園

 やぐらは鎌倉地方を中心に、三浦半島・房総半島などに集中して存在する方形の岩窟で、その多くには五輪塔などの石塔が収められている。・・・やぐらは山裾《やますそ》を人工的に切り落とした切岸《きりぎし》とよばれる崖に彫り込まれている。
「神奈川県の歴史散歩下巻」鎌倉・湘南・足柄 山川出版社、2005年5月発行より
やぐらはあちこちで目につきました。下の写真は円覚寺の参道だったと思います。


 瑞泉寺の庭園ですが、写真で見た時にはけったいな庭だなと思いましたが、この地方にやぐらがあることから、当地にあった庭園と納得しました。

夢窓国師の庭とされていますが、まあそうかなと思います。中央の大きなのが天女窟、右手の小さなものが座禅窟だと思います。右わきに滝があり、中央の中島がある池に注いでいます。左の橋を渡ったところから階段があり上に行けるようです。残念ながら立ち入り禁止です。この先には偏界一覧亭があり、富士山を望むことができるようです。永保寺庭園にも上から池などを見下ろすところに座禅石があったような気がしているので、おそらくここもそういう景色が見られるんだと思います。夢想疎石は、鎌倉幕府・足利尊氏・後醍醐天皇などに取り入ったスーパースターのように思ってますが、地域にあった庭づくりを考えた柔軟性のある人かもしれません。偏界一覧亭とか是非公開してほしいと思います。

2018年3月22日木曜日

鶴岡八幡宮の大銀杏

 3代将軍実朝を暗殺した公暁が隠れていたという大銀杏ですが、平成22年に倒れ、幹の部分が横に移され、元の場所には小さな木があります。
写真に外れた、左に大きな木の根っこがのこっています。

建保七年正月二七日、鶴岡八幡宮において将軍実朝の右大臣拝賀の儀式が行われ、終了後の帰途、八幡宮別当の公暁に暗殺された。義時の代わりに御剱役を務めた源仲章も同時に切られた、という。犯行とされた場所は、石橋や社壇で(鎌倉歴史散歩、奥富敬之著、新人物往来社より)、大銀杏ではないようである。関係者の処分もあったかわからない。そもそも、公暁は鶴岡八幡宮寺の別当で、トップの地位にあり、実朝も何度も鶴岡八幡宮にくるので、この時でなくても良いようにも思われる。おそらく、北条政子の構想では、将軍実朝が万一の時に、公暁が還俗して将軍になるはずで、最悪のケースとなってしまっている。吾妻鏡では実朝の首を持って逃走しているが、公暁としては、ただ実朝がいなくなればよいだけなので、話としては無理があるように思われる。泰時も首実検で、見たことがなくわからないとかあるので(吾妻鏡)、とにかくあやしげな事件である。よくわからないが、実朝が公暁に殺され、犯人とされた公暁も殺されたということである。
 源氏の関係がわかってなかったので、簡単な図を作ってみました。



頼朝の時から感じたが(安田義定の処分の話)、御家人つぶしをしているように感じました。かなり無理があり、御家人たちの納得したものではなく反発は強かったように思います(私個人的なものです)。頼家が家督を相続しての一三人の合議制、御家人六六人連署による側近の梶原景時に対する弾劾状がもとで梶原氏滅亡。頼家派の比企氏の滅亡、同時に子の一幡も殺されます。頼家も修善寺に幽閉されます。将軍の力をそぐ方向で考えられているようです。実朝が三代将軍として擁立されますが、建保四年(一二一六)九月、義時が大江広元を通じて実朝の大将任官の望みを諫める(理由は昇進のスピードが速すぎるとのことです)ことがありました。実朝はこれを却けます(吾妻鏡)。これは後付けみたいな話で実際にあったか不明ですが、義時は実朝が昇進して将軍の力が強くなることを嫌っていたことが、エピソードとして入ったように思えます。北条時政が平賀朝雅を将軍にと画策し(実際は牧御方?)、政子や義時がこれを防いだことで、時政は出家します。この時点で時政は、将軍は誰でも良いと考えていたようです。実朝暗殺の時も、義時配下の誰かが、実朝の力が強くなることを警戒して、源氏の系統を消し去ってように妄想します。
 
 

2018年3月20日火曜日

二階堂

日本人のお名前の番組で取り上げられていました。
永福寺(ようふくじ)は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂長寿院を模して建久三年(1192)に、工事に着手しました。【案内板より】
 写真では、中央の基壇から奥の方にあります。礎石の本物は土の中で、表れているのはレプリカのようです。



鎌倉歴史散歩/奥富教之著/新人物往来社発行 によれば
北の薬師堂(写真では手前の基壇)、本堂の永福寺(二階大堂)、南の阿弥陀堂とからなっている。左手の池は毛越寺の池を模したのではないかと書いてある。頼朝は工事の時に近くの藤原行政館に立ち寄っている。のちに、二階大堂のある永福寺の近くに館があったことから藤原行政は二階堂行政と名乗ることになる。このあたりの地名も二階堂と呼ばれるようになった。流れている川も二階堂川である。下の写真の真ん中、ひらがなです。

2018年3月19日月曜日

鎌倉大仏

1262年(弘長2年)の説とかあるようです。
内部に入れます。中に銘板があり、大正12年の地震(関東大震災?)で修理を行ったことが記しています。もう一枚は、私にはほとんど読めませんが、昭和34年?ごろ調査及び修理がされたようです。

詳しくは、国宝鎌倉大佛因由にありました。

鎌倉の七切通のひとつ、朝夷奈切通


江戸時代にも整備されていたそうで、雰囲気が残っています。
途中、ぬかるんだところもあり、ハイキングコースです。往復したかったのですが、時間なくゆっくりできませんでした。鎌倉時代に土木工事が進んでいった様子が残されているといっても不思議ではありません。

以前の記事の関連から(志賀の大仏)、今回見学できてよかったです。

2018年3月18日日曜日

鶴岡八幡宮の軸線

 神社の参道は中央は神様が通る道とのことで、右か左を歩くとのことです。中央を意識しないといけないようです。
しかし、鶴岡八幡宮では段葛のところから鳥居を介して社殿を見ると左に寄っているように見えます。


また、舞殿を通して石段を見ると(中央部)、両端の切れた位置が左右で異なり、やはり石段が左に寄っているように見えます。


 つまるところ、中央を歩いても神社の中心線は避けていることになり気にしなくても良いのではと思います。この写真ではわずかに撮った位置がずれているようにも思えるので確認してみてください。軸線のずれを今まで意識したことはありませんでした。
 軸線のずれは昔からあったのかと思いましたが、鶴岡八幡宮はもともとお寺で、鶴岡八幡宮寺といったそうです。*より。
  家康・秀忠の改修があり、その時の絵図が残っています。*に図があるが、小さくてよくわかりません。その後の元禄の地震、文政の火災などもあり、明治の神仏分離とかで、軸線のこととかわからないのではと思います。寺の要素が排除され、配置も変化したのかもしれません。

*鶴岡八幡宮寺 -鎌倉の廃寺、貫 達人著、有隣新書

上記の本に二十五坊のことが書いてあります。源頼朝が、八幡神の本地仏の阿弥陀如来を安置し、二十五菩薩になぞらえて二十五坊をおいたとのことで、専門的な任務があったようです。二十五坊の初代の僧のうち、平家の一門とされる人が十五人いる。平家の一門だったといってもすべて殺されるものではなかったようです。

2018年3月17日土曜日

鶴岡八幡宮の源平池

平家物語の関連で、鶴岡八幡宮の源平池に興味を持ちました。

図の上の方が段葛で、参道、太鼓橋の両側が源平池

平家池の方の写真です。手前のロープ側も島の先です。3島向こうの方にあります。4島入れるのはむつかしいです。
 

昔は太鼓橋から両方の池が見渡せたと思いますが、今は太鼓橋でなく横を通ります。

池の中島にある弁財天社の由緒記に、
頼朝公夫人の政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景善に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家の滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
とありました。鎌倉時代には源平の対立のような考え方は無かったと考えていたので、少しショックでした。しかし、調べてみると
「御鎮座八百年 鶴岡八幡宮」平成三年十一月二十一日発行
発行:鶴岡八幡宮

上記の本の中の一二頁の源平池の解説に
寿永元年(1182)四月二十四日、社前の絃巻田と呼ばれる水田三町余の耕作をやめ、専光房良暹や大庭景義らが奉行になって池に改めた。源平池の名は江戸時代からの俗称で、東方の池中に三島(中ノ島に弁天社を祀る)を築き、三に産をかけて源氏池、西方の池には四島を築いて四を死にかけて平氏池と称したという伝説がある。七月中旬から八月中旬にかけて紅白の蓮が美しい。

とあり、伝説と書かれています。別の所には
池は開削された後、埋め立てられたりはしていないようだが、豊臣秀吉によって進められた造営に関する、いわゆる」天正の指図」には池が描かれていない。しかし、享保十七年の鶴岡八幡宮境内図には現在に近い池の姿が描かれている。その後、明治年間には池が埋め立てられ馬場に改めたり、また開削されたようである。
ともあり、池には変遷があり、秀吉の頃には池がなさそうで、政子の話は伝説と考えられているように思われました。当時は源氏と平氏の対立だけで無く、源氏の中でも対立があり、源平の対立でまとめられなかったはずなので、考え方を変えずにいけそうです。

(おまけ)白に関連して、段葛を登校する小学生。案外目立ちます。

2018年3月12日月曜日

安田義定(やすだよしさだ)

 平家物語に出てくる人のようです。源平合戦事典に詳しく述べられています。甲斐源氏の一人ということです。なぜ甲斐に安田という名があったかということに興味があります。
1.甲斐で条里制の田が開発され、安田の名が残った。奈良時代以前。
2.安田の名を持って(近畿・中部地方から)移住してきた。
  林→小林から、律令制の崩壊に伴うので、奈良時代か平安時代。
3.もちろんその他の可能性もあります。
 古い時代の中でも、甲斐は新興の地のように感じるので、2の可能性が大きいと私は考えます。

以下、
源平合戦事典、福田豊彦・関 幸彦 編、吉川弘文館発行
安田義定の項のメモです。

  平安・鎌倉前期の武将。清和源氏義光流、義光の子の義清が甲斐国に配流され、逸見《へみ》、武田・加賀美《かがみ》、小笠原、安田など甲斐源氏の祖となったという。尊卑分脈によれば、義定はこの義清の子清光の三郎子であるが、吾妻鏡は義清の子とする。長承三年(一一三四)生まれ。治承四年(一一八〇)八月、武田信義らとともに源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げ、波志太《はしだ》山の合戦で平家側を撃破し・・、玉葉によると、源氏の富士川の勝利は主として甲斐源氏の活躍によるもので、吾妻鏡はこののち頼朝が武田信義・安田義定を駿河・遠江の守護に任じたとするが、両国の支配は彼らが実力によって獲得したとみるのが妥当であろう。寿永二年(一一八三)七月に源義仲が入洛すると、義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、八月に従五位下遠江守に任じられた。これによって、実力による義定の遠江国支配は国家から公認されたことになるが、さらに義仲が北陸道の追捕使《ついぶし》に任じられると、義定は東海道の追捕使に任じられている。・・・義定は間もなく義仲と袂をわかち、その滅亡後は平家との一谷の戦に搦手《からめて》軍として参加、文治五年(一一八九)の奥州出兵にも従軍しており、頼朝との関係は次第に御家人的な色彩を強めるようになる。・・・
しかし、建久四年一一月、子息の越後守、義資《よしすけ》が院の女房に艶書(恋文)を送ったことが発覚。翌日に斬首される。その縁座として義定の所領遠江浅羽荘を没収され、翌年八月一九日には謀反計画の発覚を口実に梟首《きょうしゅ》、前滝口榎下重兼以下の供類五人が首を刎ねられた。享年六十一。その鎌倉の屋敷は北条義時に与えられ、遠江の守護職も北条家領となる。一連のこの出来事は頼朝の政策とは無関係のように見えるが、義資の付け文を表沙汰とした人物は頼朝の腹心梶原景時であり、客観的には範頼殺害に次ぐ有力源氏排除のじけんであった。これより先、甲斐源氏の棟梁武田信義も子息忠頼の事件によって頼朝の勘気を蒙ったまま、文治二年に没している。
参考文献「大日本史料四の四、建久五年八月十九日条(福田豊彦)

2018年3月8日木曜日

平家物語からのアナロジー

 最近、平家物語の講座を受けました。敦盛最後の段で、生年17の敦盛が熊谷次郎直実に討たれる話です。敦盛と言えば、織田信長が桶狭間の戦で敦盛を舞ってから出陣したことで有名です。人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。このフレーズが平家物語にあると思いましたが、全然出てきません。敦盛は能の演目になっているようで、その脚本のようなものを取り出したのが謡曲のようです。その中にあるのかと思いましたが、実はありませんでした。信長が舞ったのは幸若舞で、能・平曲(平家物語)と並んで中世庶民の耳目を楽しませた芸能とのことです。舞の本(新日本古典文学大系59、岩波書店)を借りてきて見たら、後半にありました。同じ敦盛ですが違いに驚きました。信長公記の桶狭間の戦の前の敦盛の舞の記述は嘘だったのかと疑いましたが、そうではないようです。
 平家が都を追われて、最終的には壇ノ浦で滅びます。平家物語の関係年表を見ると、1180年に源頼政が挙兵、その後に頼朝、木曽義仲が挙兵しますが、平家の壇ノ浦の戦いが1185年になり、5年間もあります。没落まで案外時間がかかっています。1184年正月に義仲敗死、二月には一ノ谷の戦いで平家が敗れています。その後、1年後の二月に屋島の戦い、三月に壇ノ浦の戦いとなり、平氏滅亡となります。屋島から壇ノ浦はすぐですが、一ノ谷から屋島の合戦までの1年間をもう少し詳しく知りたいと思いました。平家物語も「盛者必衰の理を示す」のテーマなので話もそれにあったものにはなってるのですが、奢れる者の何が悪かったのか興味を持ちます。
 屋島の合戦では1185年2月源義経、夜、風雨に乗じ150騎を率い、阿波へ漕ぎ渡る (吾妻鏡)。「勝浦合戦」義経、田口成良の弟桜庭良遠を破る(吾妻鏡)。「屋島合戦」義経、屋島の内裏を襲う。佐藤継信戦死。平宗盛以下、安徳天皇を奉じて西海に逃れる(吾妻鏡)。と源平合戦事典の年表にあります。屋島の合戦では那須与一が平家方の小舟に立てた扇の的を一矢でみごとに射落とした話で有名ですが、義経が屋島の内裏を急襲した感じでは本当か疑いたくなります。注意しないといけないようには思います。
 話変わって、神武天皇の東征の話ですが、平家と逆コースで似たようなものに思われます。平家が日宋貿易で利益を得て、ある程度、貨幣経済が発達した時代でも軍隊の移動は大変であるので、神武天皇も生活を維持しながら侵攻していくわけで、実態はどのようなものであったのか想像がつきません。それらしきものがあったのかも含めてです。
 また平家物語は、琵琶法師によって語られたということですので、もっと古い時代に、稗田阿礼が古事記を語り物のようにして伝えていたのかもしれないと思うと、案外嘘っぱちではなくて、何かしら伝承的なものがあり、文字化され古事記が出来たのかもしれないという気もしてきました。棒読みではなく、歌うような音楽を含めた、講談的(良くわわかってはいませんが)なものであったかもしれません。
少なくても音については、三分損益法が中国であり(紀元前3世紀らしい)、古墳時代とかに日本に伝わってきていて、音曲のような形で古事記があったとして不思議ではありません。単なる妄想の話ですが。

三分損益法

2018年3月7日水曜日

三分損益

 三分損益については、あちこちに記されているので、不要ではあると思うが、一応のメモ書きである。確認のため、電卓たたいて計算してみました。

 古い時代を考えるのに、音楽の知識を抜きにして考えているが、これで良いのかということがある。何かしら抜け落ちている部分があると思われます。
しかし、とっかかりがありません。
 CDブック、和歌を歌う 歌会始と和歌披講、笠間書院
からのメモです。
 雅楽の旋法は、呂と律がある。呂律がまわらないの語源である。中国から伝わったとのことで、音律の定め方に三分損益という方法があるとのことである。
弦の長さで言えば、三分の一を減じ、次にその音を基準に三分の一増やす、また三分の一減ずる。これを繰り返して音列を作り出す方法である。
最初の音をドとすれば、次の音は弦の長さが2/3になる。つまり周波数で言えば逆数で1.5倍の高さになる。これがソの音になるとのことである。
次は、2/3*(4/3)=8/9で、  逆数は9/8=1.125
次は、8/9*(2/3)=16/27で、逆数は27/16=1.6875
次、16/27*(4/3)=64/81、逆数は81/64≒1.1.266
次、64/81*(2/3)=128/243で、逆数は128/243≒1.898
次、128/243*(4/3)=512/729で、 逆数は729/512≒1.423
何をしているのかわからなくなってくるので
平均律で考えると、ドを1とするとオクターブ上のドは2となる。その上のドは4となり、等比級数になっている。1オクターブを12音で分ければ、2の12分の1乗づつ増加する。すると
ド ・・ 1.0
レ ・・ 1.122
ミ ・・ 1.260
ファ・・ 1.335
ソ ・・ 1.498
ラ ・・ 1.682
シ ・・ 1.888
ド ・・ 2.0
である。途中の数値は四捨五入しているが、三分損益との対応がわかる。
ド → ソ → レ → ラ → ミ → シ → ファ#
となる。ずれが出てくるが、三分損益では音の決め方が、基準音から完全5度あがり、次に完全4度下がる、これを繰り返していることになっているらしい。
実際にファの音はドの音との比で1.33なので、3:4のすっきりとした整数比だが、あらわれない。
この最初の5音をベースにしたのが呂音階で、ドレミソラが五声となる。宮ー商ー角ー微ー羽と名付ける。さらにシとファ#が二変声である。宮・微より一律(半音)低いことから変宮・変微と呼ぶ。
ピタゴラス音階では、完全5度と完全4度を考えるので、
最初のドの周波数を1とすれば、ドレミファソラシドの周波数は
1,9/8,81/64,4/3,3/2,27/16,243/128,2
となるそうです。
何が言いたいのかというと、音階は基本が分数比でできているので、
ばらつきがあっても世界共通の部分があるということです。分数の比で簡単に音階ができるので、古い時代から演奏が行われた可能性は大きいです。

(おまけ)
音楽で♯(シャープ)と♭(フラット)記号が出てきます。布などを引っ張り上げるととんがります。また土の山などをたたいて低くすると平坦になります。シャープとフラットにアップダウンの意味があったことに気がつきました。半音上がる方がシャープです。もう間違いません。