川のつく名前が多いように思いました。滋賀県は中央に琵琶湖があり、三方から川が流れ込み、南の瀬田川に出て行きます。川が多いということです。よって川のつく名字が目立つのではと思いました。当たり前のことかもしれませんが、地形由来の名字であらためて、川というのがあるんだと気がつきました。中川、西川、北川については滋賀県から広がった可能性大です。中川の中ですが、川の中ではなく、川と川の間で両側からはさまれた場所の意味ではないかと思います。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2013年9月9日月曜日
名字:中川、西川、北川
滋賀県での順位で川のつく名字では、中川、北川、西川、小川の順となっています。
川のつく名前が多いように思いました。滋賀県は中央に琵琶湖があり、三方から川が流れ込み、南の瀬田川に出て行きます。川が多いということです。よって川のつく名字が目立つのではと思いました。当たり前のことかもしれませんが、地形由来の名字であらためて、川というのがあるんだと気がつきました。中川、西川、北川については滋賀県から広がった可能性大です。中川の中ですが、川の中ではなく、川と川の間で両側からはさまれた場所の意味ではないかと思います。
川のつく名前が多いように思いました。滋賀県は中央に琵琶湖があり、三方から川が流れ込み、南の瀬田川に出て行きます。川が多いということです。よって川のつく名字が目立つのではと思いました。当たり前のことかもしれませんが、地形由来の名字であらためて、川というのがあるんだと気がつきました。中川、西川、北川については滋賀県から広がった可能性大です。中川の中ですが、川の中ではなく、川と川の間で両側からはさまれた場所の意味ではないかと思います。
2013年9月8日日曜日
名字:大西、中西、小西、西
「小」のつく名字が気になっていて、小西についてです。
大西、中西、小西、西の順に名字の分布図を並べます。
大西は、香川県がダントツで、愛媛県、徳島県、兵庫県の順です。
中西は、三重県、奈良県、和歌山県の順です。
小西は、京都府、滋賀県、香川県、奈良県、兵庫県と分散しています。
西は、鹿児島県、和歌山県、石川県の順ですが、九州にも多いです。
西の九州の分布を除いて、微妙に分布が違いますが、私にはよくわかりません。
ただ相関係数で見ると(「安田仮説」本)、
大西は、4者の中では、小西、中西の順です。20位までで川西、西谷があるくらいで他の西との関係は目立ちません。
中西は、4者の中では、小西が次ですが、中井、西口、西川など、中とか西のつく名字と相関が高く、中+西が合体したことを想像させます。
小西は、4者の中では、中西、大西の順ですが、西川などが3位にあるなど、小西川のイメージもあります。九州地方を無視すれば、西の分布と似ているように思えます。
大西、中西、小西、西の順に名字の分布図を並べます。
大西は、香川県がダントツで、愛媛県、徳島県、兵庫県の順です。
中西は、三重県、奈良県、和歌山県の順です。
小西は、京都府、滋賀県、香川県、奈良県、兵庫県と分散しています。
西は、鹿児島県、和歌山県、石川県の順ですが、九州にも多いです。
西の九州の分布を除いて、微妙に分布が違いますが、私にはよくわかりません。
ただ相関係数で見ると(「安田仮説」本)、
大西は、4者の中では、小西、中西の順です。20位までで川西、西谷があるくらいで他の西との関係は目立ちません。
中西は、4者の中では、小西が次ですが、中井、西口、西川など、中とか西のつく名字と相関が高く、中+西が合体したことを想像させます。
小西は、4者の中では、中西、大西の順ですが、西川などが3位にあるなど、小西川のイメージもあります。九州地方を無視すれば、西の分布と似ているように思えます。
名字:小川
川のつく名字は、石川、小川、長谷川、中川、古川・・・があります。小川の「小」は子孫を表すとしての想定です。この中で中川が古そうな名字で、小川など東に広がったように見えますが、
小川の元の名字は中川とまではいいにくいです。
小川と中川の名字分布を示します。
実は「安田仮説」本で見てもらうと、小川と相関の高い名字に、大・小などサイズを表すものが出てきています。「小」は子孫をいつも表すとはいえないように思います。小川と相関の高い2・3番目に、川島、小島があります。
( 小 + 川 )× 島 = 小島 + 川島
となり、小川から、小島と川島に別れたように見えてしまいます。偶然とは思えません。
(小島と川島が合体して、その小川が全国的に広がったとは考えにくいので。)
2013年9月6日金曜日
名字:小山のもとの名字
小がつく名前です。林→小林のパターンで考えます。
長野県が多いようですが、まあ東日本に多い名字です。小林と同様に考えれば元の山のつく名前は、山本・山田かなと思われます。下に山本の分布を示します。
山田の分布を示します。
「安田仮説」本に相関係数の27番目に小林があります。小林のもととなる林に相関が高いのが山田です。したがって山田が移動し、そこで小山になった可能性が大きいです。山田の分布で岐阜県が最大のように見えますが、小山は逆に岐阜県が小さくなっていて、そうかなという感じです。
長野県が多いようですが、まあ東日本に多い名字です。小林と同様に考えれば元の山のつく名前は、山本・山田かなと思われます。下に山本の分布を示します。
山田の分布を示します。
「安田仮説」本に相関係数の27番目に小林があります。小林のもととなる林に相関が高いのが山田です。したがって山田が移動し、そこで小山になった可能性が大きいです。山田の分布で岐阜県が最大のように見えますが、小山は逆に岐阜県が小さくなっていて、そうかなという感じです。
2013年9月5日木曜日
名字:林と小林
670-690想定図の続きの話になります。西日本が統一されたのですが、名字の分布を見ると地域の偏りがあります。それぞれの地域の連合体として成立したのではと想像します。福井県、滋賀県、奈良県の分布の名字がないか見てましたが、林がそれらしく思えてきました。
670-690想定図に比べ岐阜県とかに広がっていて時代が下がっているとは思いますが、古い近畿地方の縦型の分布のように見えます。
次に小林の分布です。
関東地方中心の分布になっています。林と小林の関係ですが、私は小を子孫の意味にとらえました。つまり林の子孫が小林となったということです。林グループが平安時代に関東進出し、小林となったのではと思います。単純な名前は西日本に多く、東日本には少ないと「安田仮説」本で言ってるのに、小林はどうなんだということでしたが、何とかこの問題もクリアできたように思います。
670-690想定図に比べ岐阜県とかに広がっていて時代が下がっているとは思いますが、古い近畿地方の縦型の分布のように見えます。
次に小林の分布です。
関東地方中心の分布になっています。林と小林の関係ですが、私は小を子孫の意味にとらえました。つまり林の子孫が小林となったということです。林グループが平安時代に関東進出し、小林となったのではと思います。単純な名前は西日本に多く、東日本には少ないと「安田仮説」本で言ってるのに、小林はどうなんだということでしたが、何とかこの問題もクリアできたように思います。
2013年9月1日日曜日
神武東征
これからの話は妄想といって良いかもしれません。しかし日本書記は歴史書ではなく、当時の政権の正当性を主張する文書であることをつい忘れてしまいます。
さて、神武東征ですが、神武天皇が九州からやってきて奈良にたどり着いたところから始まるということです。これが紀元前の神話になっています。
前の記事での670-690年の分布図を見ると関東の方からやってきたのであればおかしいといえますが、そうでないので、整合性はあります。ただ、670-690の分布図では東の方には広がっていないので神武東征はそれほど古い時代の話ではないように思われます。紀元前の話ではないということです。問題は別にあって670-690の分布図で北陸地方の方に領域が広がっている部分をどう考えるかです。神武東征のあと、広がっていったとは考えにくく、ヤマトタケルノミコトが北陸を征服したということが無いようなので、最初は北から奈良の方にやってきた。その後神武東征のグループが西からやってきた。ということになれば、前政権が北陸に以来するもので、それが越前からやってきた継体天皇の話とかになり、そのあとを西からのグループが引き継いだことになるのでしょうか。ただ正当性を主張するためには2番目にやってきたストーリー展開では、かっこわるくなるので、はるか古い昔に神武東征を入れたとなるのでしょうか。現在の歴史認識ではどうなっているのか勉強不足でわかりません。日本書記などを読んでおらず、もやもや度が増しますので今後の課題として打ち切りとします。
追記 H25.09.05
----- 神武東征近畿地方の経路について思うこと -----
九州から近畿地方に来ますが、最後の近畿地方で迷走してるように思います。
(神武東征の経路で検索すれば移動経路の図を見ることができます。)
この理由について無視されているか、あまり述べられていないようです。
日本書記が対外的な、特に中国の唐を意識して作られたことが重要です。
Wikipedeaの遣唐使を見れば、20回説の表示で次のようになってます。
1 舒明2年(630年)- 舒明4年(632年) 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国
2 白雉4年(653年)- 白雉5年(654年)
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) 道昭・定恵
第2船が往途で遭難
3 白雉5年(654年)- 斉明元年(655年)
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
4 斉明5年(659年)- 斉明7年(661年)
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳 2 第1船が往途で南海の島に漂着し、
坂合部石布が殺される
5 天智4年(665年)- 天智6年(667年)
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6) 天智6年(667年)- 天智7年(668年)
(送唐客使)伊吉博徳 唐使法聡を送る。唐には行かず?
7 天智8年(669年) -不明 河内鯨(大使)
第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8 大宝2年(702年) -慶雲元年(704年)
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良・道慈
9 養老元年(717年)- 養老2年(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
10 天平5年(733年)- 天平7年(735年)
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成・大伴古麻呂
帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
-以下省略-
古事記・日本書紀との関係です。
--日本書記
舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全三十巻。系図一巻が付属したが失われた。
--古事記
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)によって献上された。
遣唐使の第9回に古事記、10回の時に日本書紀を持って行ったのではないかと思います。未完成の状態であれば、第8回・9回かもしれません。当時は唐からの侵略も考えられていたはずです。神武東征の経路は、敵に侵攻経路を教えるものであってはなりません。そのため近畿地方に入り、迷走し、東征に苦労したことで日本への侵略は大変であることをアピールしているのではと思えます。
さて、神武東征ですが、神武天皇が九州からやってきて奈良にたどり着いたところから始まるということです。これが紀元前の神話になっています。
前の記事での670-690年の分布図を見ると関東の方からやってきたのであればおかしいといえますが、そうでないので、整合性はあります。ただ、670-690の分布図では東の方には広がっていないので神武東征はそれほど古い時代の話ではないように思われます。紀元前の話ではないということです。問題は別にあって670-690の分布図で北陸地方の方に領域が広がっている部分をどう考えるかです。神武東征のあと、広がっていったとは考えにくく、ヤマトタケルノミコトが北陸を征服したということが無いようなので、最初は北から奈良の方にやってきた。その後神武東征のグループが西からやってきた。ということになれば、前政権が北陸に以来するもので、それが越前からやってきた継体天皇の話とかになり、そのあとを西からのグループが引き継いだことになるのでしょうか。ただ正当性を主張するためには2番目にやってきたストーリー展開では、かっこわるくなるので、はるか古い昔に神武東征を入れたとなるのでしょうか。現在の歴史認識ではどうなっているのか勉強不足でわかりません。日本書記などを読んでおらず、もやもや度が増しますので今後の課題として打ち切りとします。
追記 H25.09.05
----- 神武東征近畿地方の経路について思うこと -----
九州から近畿地方に来ますが、最後の近畿地方で迷走してるように思います。
(神武東征の経路で検索すれば移動経路の図を見ることができます。)
この理由について無視されているか、あまり述べられていないようです。
日本書記が対外的な、特に中国の唐を意識して作られたことが重要です。
Wikipedeaの遣唐使を見れば、20回説の表示で次のようになってます。
1 舒明2年(630年)- 舒明4年(632年) 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国
2 白雉4年(653年)- 白雉5年(654年)
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) 道昭・定恵
第2船が往途で遭難
3 白雉5年(654年)- 斉明元年(655年)
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
4 斉明5年(659年)- 斉明7年(661年)
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳 2 第1船が往途で南海の島に漂着し、
坂合部石布が殺される
5 天智4年(665年)- 天智6年(667年)
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6) 天智6年(667年)- 天智7年(668年)
(送唐客使)伊吉博徳 唐使法聡を送る。唐には行かず?
7 天智8年(669年) -不明 河内鯨(大使)
第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8 大宝2年(702年) -慶雲元年(704年)
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良・道慈
9 養老元年(717年)- 養老2年(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
10 天平5年(733年)- 天平7年(735年)
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成・大伴古麻呂
帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
-以下省略-
古事記・日本書紀との関係です。
--日本書記
舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全三十巻。系図一巻が付属したが失われた。
--古事記
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)によって献上された。
遣唐使の第9回に古事記、10回の時に日本書紀を持って行ったのではないかと思います。未完成の状態であれば、第8回・9回かもしれません。当時は唐からの侵略も考えられていたはずです。神武東征の経路は、敵に侵攻経路を教えるものであってはなりません。そのため近畿地方に入り、迷走し、東征に苦労したことで日本への侵略は大変であることをアピールしているのではと思えます。
2013年8月30日金曜日
ヤマトタケルノミコトの東征
実は困った問題です。ヤマトタケルノミコトは日本武尊または倭建命、第12代景行天皇の皇子とされ、日本書紀や古事記においてのヒーローです。このヤマトタケルノミコトの東征の話があります。この時代がいつ頃かを考えると、670-690年時点の分布図では岐阜県より以東はヤマト政権の領域外という奈良県の分布図から見て、東に向かう話は古い時代とは思えません。東国を平定後、ヤマトタケルノミコトがヤマト政権の国境あたりでさまよい死んでしまうのも妙にリアリティがあります。ヤマトタケルノミコトの伝説は6世紀後半から7世紀前半くらいの話だと言えば、エエーッと思う人が多いのではないでしょうか。このことは「安田仮説」本ではまったくふれてませんというか、考えていませんでした。景行天皇が7世紀前半の人であれば問題なくなってきます。ウィキペディアでは、景行天皇について、「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、・・・とあります。この説を採れば問題は一応解消されます。しかしそれでつじつまが合ってるのかよく考えないといけない問題ではありますが、いったん打ちきりとします。
参考に高知県を基準にした図で北海道、関東地方、大分県を周りのレベルに修正した図を参考に示します。本当は高知県の図を見てもらえばいいんですが。東征の図はネットで探してもらえば出てきます。資料をまとめられておられる方は大変だと思います。当方は手抜きです。
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