2020年7月26日日曜日

英語の語順から思うこと

なぜSVOの語順なのか?
引用元:なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)(後編)
にあります。
古い時代の英語では、格変化を示す語尾の変化がアクセントの弱い部分にあり、格変化がわかりにくくなり、語順に頼ることで主格と目的格を区別するようになった。その時に、SVOかSOVがあるが、SVOが主流であったとのことです。
私には、格変化がない場合に、SOVの形式が成立しにくい気がします。
今でも英語ではI-my-me-mineとか残っています。「I you love.」のような文章があったとき、「I love you.」のことかもしれないと想像できます。「Me you love」でも「You love me」と理解できそうな気がします。単数の場合は良いのですが、「A B C D love.」といった文章の場合「A B C love D」、「A B love C D」のどちらかというのがわかりません。andを使用すれば良いのですが、「A B love C D.」の方がはるかにわかりやすく表現できます。SとOが連なっていると区別が付きにくくなり、区別するためにはandを入れれば良いのですが、聞き取りにくければ、誤解が生じます。コミュニケーションをきちんとするにはSVOにならざるをえないような気がします。最初はわからなくても、時間をかけて段々と最適化されたのではということです。ドイツ語では文の二番目に動詞が来ます。格変化が弱くなればOVSは考えにくいのでSVOに確定するはずです。
元々の言語はSOVであって、格変化がなくなればSVOになっていくこと法則が考えられます。
英語の格変化の弱体化は、SVOの語順の後半にWhyで説明があります。
英文法の変化がイングランド北部で起こったのはバイキングが8世紀後半以降侵攻し、9世紀後半以降イングランド北部に定住したことがあるということです。ややこしい格変化を捨て、語順を固定化しなければならなかった。古英語話者と古ノルド語話者によって変化し、英語全体に広まったということです。
これは、中国語でも同じことが考えられそうに思います。中国語にも格変化がありません。つまり語順が大事になります。SOVを捨て、SVOになったことが考えられます。
中国の周辺国で、日本語・朝鮮語・モンゴル語など語順が似た国が多いです。つまりもともとアジアではどこもSOVであったのが、中国とその近辺が突然変異的にSVOになったのではと思います。中国語が特別で周辺の地域の言語は古い時代を残していると思います。
人類の歴史では、アフリカで生まれ、中東に渡り、さらに東に向かいモンゴロイドとなり、西に向かったのがコーカソイド。バイカル湖付近に至った北方モンゴロイドは寒冷地の季候に順応して短足胴長鼻ペチャの特等を持つようになったといわれています。1万年以上昔の話です。アジアに北方モンゴロイドの人たちが祖語的な言語と共に広まったと考えれば、大野晋氏の日本語タミル語起源説も、時代をさかのぼればありうる話です。直接日本にやってきたと考えにくいですが、共通祖語から分かれたとすればありえます。
あと、日本語で語順というのはかなり強固な感じがします。単語とかはどんどん輸入されたものが広がります。しかし、昔から中国から漢文が入り、今も英語が入ってきていますが、語順については、受け付けていないような気がします。ほかの中国周辺の地域も同様で、強固なSVOが残っていると思います。
参考:図がこちらにあります。今となってはちょっとあやしいですが。

2020年7月21日火曜日

道切りと感染症

道切りですが、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。疫病などの災厄が村に入ることを防ぎための習俗。辻切り(つじぎり)とも称される。とのことです。
最近まで各地にあった習俗のようです。何をしてるのか良くわかりませんでしたが、今思えば、感染症を災いとして危機意識を持っていて、現在の国境か県境かで封鎖するイメージのものであったんだということです。いつからか不明ですが、現在では、感染症の恐れを忘れてしまっていて、長い歴史の中で、人々は常に感染症の恐れを持っていたはずですが、医学の進歩とかを過大評価してしまい、これが抜け落ちた気がしてきました。律令体制の崩壊から戦国時代の後の統一まで感染症の克服が出来なかったことがあったのかもしれません。遣唐使の廃止とか江戸時代の鎖国とか、感染症対策であったという話を聞いたことがなかったのですが、ありうるのではと思ってきました。
今は店に入るときに、入口で手の消毒をします。これも神社とかに手水舎があって浄めるのと同じような気がします。神社とかは奈良時代前後から形式が整えられてきているはずで天然痘とかの対策になっていたことが考えられます。方違え(かたたがえ、かたちがえ)とかも、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにした。とのことで、外国から入獄した場合にホテルとかで二週間ほど様子を見るというのと似ています。昔はおかしな事をしているなと思ってましたが、合理性のある行動であったかもしれません。

2020年7月11日土曜日

北国の春 ミャオ語

どうして現れたのかわかりませんが、YouTubeで出てきました。
まったく違和感がありません。古い時代の先祖が日本人と同じような気がしてきます。
感覚的なものですが。
北国の春 ミャオ語
中国の少数民族版とのことです。ミャオ語の歌のようです。歌っている人が上手なのか
歌詞が良いのかわかりませんが、まったく違和感を感じません。
文字化された言葉では通じなくても、実際に話されている言葉では通じそうな気が
あらためてしてきます。
他にもありましたが、ミャオ語が一番しっくりします。

北国の春(チベット語)
<北国の春>のモンゴル語版

2020年7月7日火曜日

賀茂斎院跡(櫟谷七野神社)


「いちいだにななのじんじゃ」と読みます。
葵祭の斎王(代)行列発祥の地で、この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、『紫野斎院」とも称された。とホームページにあります。






 
 
都名所図会の七野社では鳥居が木造のようで、現在は石造になっていて場所も図の右手に移動していますが、本社の前の石の階段とかはそのままのようです。
 
都名所図会では、上加茂社・下加茂社ともに天武天皇白鳳5年の造営とあって、時代的には加茂と天武天皇の結びつきを示しているようです。しかも、地図で見ると、賀茂斎院跡と下鴨神社が東西に位置し、京都盆地の中で良い場所にあるように思います。賀茂川に沿っては出雲の地名が残っており、出雲の影響を強く感じます。
賀茂祭(葵祭:あおいまつり、正式には賀茂祭)という賀茂氏と朝廷の行事では、賀茂祭の翌日、斎王 (いつきのみこ) が上社から紫野の斎院に帰ること・またはその行列を【祭の帰さ】というらしく、これも見物の対象であったとあります。地図で位置関係がわかると思います。
 
 



2020年6月18日木曜日

天平の疫病大流行

最近、新型コロナウイルス関連で、感染症についての番組を見ることが多くなりました。
東大寺の大仏も、天平の疫病大流行の後、建立されたとの説があることを知りました。
ウィキペディア「天平の疫病大流行」を見ています。
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735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
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とあります。藤原四兄弟が全員死亡したとのことで、致死率が25-35パーセントというのは低いのではないか思いました。エクセルで計算してみました。間違ってはないと思います。合計は100%で、小数点以下が実際はあるのでほぼ100%ということです。

表は下に行くほど致死率の増加によって0-4人死亡の割合をパーセントで示しています。致死率10%では、四兄弟だれも死なない可能性が66%ということです。致死率が20%になればだれも死なない41%、1人死亡が41%になります。致死率30%では1人死亡が41%となります。致死率50%では2人死亡が38%となります。当たり前ですが、4人×致死率50%=2人で、計算しなくてもわかりますが。4人死亡の普通にありえるのは80%ぐらいかなと思います。ウィキの致死率が25-35パーセントですが平均として30%を考えると四兄弟死亡はわずか1%になり、信じがたい低い数値です。致死率50%はありうると思います。天平文化が花開いた時代のように思っていましたが、異常な時代で、この時代のいろいろ説明のつかない事象も天然痘の影響で説明ができそうな気がしてきました。律令体制の崩壊も、天然痘の流行が原因となったのかもしれないです。

2020年6月14日日曜日

祖先たちの遥かな旅路、ヘウレーカ!

元の番組は
又吉直樹のヘウレーカ! 「僕はどこからきたのですか?」
2018年10月31日(水)
午後10:00~午後10:43
篠田謙一先生の解説
父は沖縄、母は奄美大島出身の又吉。では祖父母や曾祖父母はどこの人で、僕のルーツはどこにある?今回、採取した又吉のだ液から“祖先たちの遥かな旅路”が見えてきた!
再放送で見ました。人類起源はアフリカで、又吉さんの遺伝子解析でルーツが示されていました。
母方と父方の遺伝子を調べることができるそうですが、
番組のなかで、アフリカから日本へ至るルートが示されていました。

左の赤丸がアフリカ、東に進みます。下に続く。

インドくらいからで3方向から日本へ到着


一枚目がアフリカからで、二枚目が日本にたどりつく部分です。番組では、地球儀でくるくる回って表示されました。母系のルーツとのことです。注目すべきは赤のラインがほぼ海岸沿いを通っているように見えることです。古代においては海洋ルートが重要であったということを示しているように思われます。メモ書きです。

2020年6月5日金曜日

マヤ遺跡のニュース

日経新聞令和2年6月4日朝刊の記事、最大・最古のマヤ遺跡か
が掲載されていました。樹木に覆われた遺跡を上空からレーザーを照射して測量したといいます。
日経の図のコピーを示します。図では右下が北の方角です。太陽は左から右に移動します。

今回の発見された大基壇は祭事に利用とされていますが記事ではよくわかりません。
英科学誌ネイチャーに発表されたということで、見てみると何となくわかってきました。
中央の細い筋が見えますが、これがプラットホームで、南北方向に位置しています。その右手、西側に四角推のようなものがあり、ここがビューポイントとなり、日の出がプラットホームの端に来た時に冬至や夏至がわかります。古代の人にとっても1年の移り変わりを正確に知ることは重要なことであったと思います。そのために大掛かりな遺跡が生まれたのだと思いました。
下の図はネイチャーより

ネイチャー

マヤ文明は、一つの帝国でなく、都市を拠点に多くの王朝が共存していたと記事の解説にあり、一つの都市国家では、このような施設がむつかしく、連合の象徴的なものとして建設され、決定されたカレンダーのようなものが、それぞれの都市国家に伝達されたと想像されます。
古代ギリシャも都市国家の集まりであったので、初期の国家は、どこでも都市国家の集まりであったということで、日本も7世紀でも都市国家の集まりだったと考えられなくもないので、参考になります。