「イズミ」と読みます。大阪府泉北地域に和泉市があります。
地名の和泉ですが、和泉国があった所です。もともとは泉であったが、好字令により国名を2字にする必要から「和」をつけ、「和」は読まないということです。
ここで問題は、
1.なぜ、この地が泉と呼ばれたのか
2.なぜ、好字令で「和」が選ばれたのか
ということがあると思われます。
歴史の中の石造物 ー人間・死者・神仏を」つなぐー、山川 均著、吉川弘文館発行
をみての単なる思いつきです。
この石造物の本ですが、第1章の慶政《けいせい》と石塔のところに注目です。20頁に
慶政は日本で最初に石造宝篋印塔を創出した人物である。宝篋印塔とは、基礎・塔身・屋根・相輪からなる中国起源の塔形で、屋根の四隅につく耳状の隅飾りと呼ばれる突起が外見上の特徴である。石塔以外にも、金属塔や木製塔がある。「宝篋印塔」という名称は、塔身に宝篋印陀羅尼という経文を納めたことに由来する。・・途中省略・・
前記したように、石造宝篋印塔は中国起源である。しかし、その宋代における分布範囲は、福建省泉州から厦門《アモイ》にかけての沿海部で、中国大陸全体から見ると非常に狭い範囲にすぎない。一方、当時我が国から中国に渡った僧侶の活動範囲は、その大半が浙江省《せっこうしょう》寧波《ニンポー》を中心としており、福建省まで足を延ばす者はいなかった。この時代の日中交易の正式ルートは博多ー寧波間であり、また、同地には阿育王寺《あいくおうじ》や天童寺《てんどうじ》などの著名な寺院が存在したため、わざわざ福建省まで行く必要がなかったからだ。
こうした状況下で、慶政は福建省泉州に滞在したことが文献から明らかになる唯一の僧侶である(「波斯文文書」)。当時の泉州は、マルコポーロが「東方見聞録」中でアレキサンドリアと並び称したように、東南アジアや西アジア、さらにヨーロッパの人や物が行き交う、アジア最大級の貿易港であった。慶政は僧侶としての立場だけでなく、九条家の一員としても、この地に興味を抱いていたのだろう。
と書いてあります。慶政は九条道家(鎌倉幕府第4代将軍頼経の父)の兄とされます。
時代が違いますが、古代に、中国泉州と和泉が何らかの交易関係にあり、泉に対して中国の泉州が頭にあり、日本の泉州であることから和泉となったのかと妄想します。問題1・2の答えに繋がります。これは遣唐使の南海ルートに和泉が関連していた可能性があることを示しているので、まだまだ証拠不十分ですが、これから考えていきたいと思います。
宝篋印塔
追記:2018.10.02
「大阪春秋」和泉市特集号、今年度の夏号ですが、和泉の地名由来が書かれていました。
JR和泉府中駅から東へ5分のところに泉井上神社が鎮座している。この神社は平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に見える古社の一つで、本殿北側に大阪府指定史跡の和泉清水(いずみしみず)があったという。和泉の名のもととなったという。
とありました。実際に泉があったとのことです。そうだろうなとは思いました。もう少し考えてみたいと思っています。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2018年9月19日水曜日
2018年9月18日火曜日
日本列島 人々の起源探る 新たなプロジェクト開始へ
NHKのニュースで放送されていました。
リンク
とのこと。
5年後が楽しみです。
リンク
旧石器時代から現代までの人々の遺伝情報を解析することで、日本列島に暮らしてきた人々の起源を探ろうという新たなプロジェクトを、国内の複数の研究機関と大学が共同で始めることになりました。
チームでは、旧石器時代や弥生時代などの古代人の人骨からDNAを取り出して遺伝情報を解析し、日本各地に住む現代人500人と比較するほか、海外のデータとも比べることにしています。とのこと。
5年後が楽しみです。
2018年9月12日水曜日
奈良の墨
奈良では古くから墨作りが行われ、国内のシェア9割だそうです。律令時代から引き継いでいるにかと思いました。しかしそうではないようです。奈良で古い店で創業1577年とのことで、奈良時代ではありません。菜種油を燃やして煤をとり、にかわで練ります。型をとって乾燥させるそうです。これが油煙墨(ゆえんぼく)。もともとは松を燃やして「すす」を採り、これを松煙墨と言い、古来の墨を作り方で、油煙墨の方が黒く品質が優れていたようです。律令制で文字の保存が必要になり、その結果から、和紙や墨で古代を追っていけるかと思いましたが、難しいようです。興福寺とかで仏教のお経とかの需要が多く、奈良の産地が残ったようです。
墨ー奈良市
2018年9月10日月曜日
越前和紙
美濃和紙から越前和紙を思い出しました。
日経新聞で、ぐねぐね屋根の謎の神社の記事があったところです。
次ページ
記事読めなければすみません。
岡太(おかもと)神社・大瀧神社というところで、
紙祖神(紙すきの神)をまつり、近くに和紙の里公園とかあるようです。どこまで信じられるか不明ですが、古いようです。岡本でないところが興味あります。近くの川も岡本川だったと思います。太いで「もと」と呼んでいますが、なぜかはわかりません。
写真などは
越前和紙 1500年の伝統 にあります。
日経新聞で、ぐねぐね屋根の謎の神社の記事があったところです。
次ページ
記事読めなければすみません。
岡太(おかもと)神社・大瀧神社というところで、
紙祖神(紙すきの神)をまつり、近くに和紙の里公園とかあるようです。どこまで信じられるか不明ですが、古いようです。岡本でないところが興味あります。近くの川も岡本川だったと思います。太いで「もと」と呼んでいますが、なぜかはわかりません。
写真などは
越前和紙 1500年の伝統 にあります。
2018年9月9日日曜日
美濃和紙
美濃和紙は中世に濃紙《のうし》。薄白《うすしろ》とよばれ、障子紙・扇の下紙・草子紙として重宝され、現在は文化財の補修などにはかかせないものとなっている。地域の特産品だろうと思います。地域の特産は、その時代に需要と供給がマッチして生まれるもので、古い時代に紙が重要になった時、つまり律令制の時代になり、文字で管理する必要が生じ、いろんな多量の文字データの保存が考えられたはずです。最初は木簡だろうと思いますが、扱いにくくて、代わりに和紙が求められたものの、都の付近では生産が出来ず周辺地域で渡来人の指導のもと和紙の生産が考えられ、これが美濃和紙のもとになった可能性はあるのではと思いつきました。
いつも参考にする「岐阜県の歴史散歩、山川出版」をみました。
美濃市蕨生には美濃和紙会館があり、その北西にあたるところに集落上野《かみの》があり、対岸の御手洗《みたらい》とともにかっては和紙生産の盛んなところで、上野には太田縫殿助信綱《おおたぬいとのすけのぶつな》が1173(承安3)年に牧谷にきて紙を漉きはじめた。また御手洗には、羽場蔵人秀治《はばくろうどひではる》が810(弘仁5)年に牧谷で製紙をを始めたという伝承が残っている。
とのことです。残念ながら律令の時代からは一世紀は遅れているので、この話は成り立たないように思われます。
ですが、それほどトンチンカンな話でないようで、アップしました。
いつも参考にする「岐阜県の歴史散歩、山川出版」をみました。
美濃市蕨生には美濃和紙会館があり、その北西にあたるところに集落上野《かみの》があり、対岸の御手洗《みたらい》とともにかっては和紙生産の盛んなところで、上野には太田縫殿助信綱《おおたぬいとのすけのぶつな》が1173(承安3)年に牧谷にきて紙を漉きはじめた。また御手洗には、羽場蔵人秀治《はばくろうどひではる》が810(弘仁5)年に牧谷で製紙をを始めたという伝承が残っている。
とのことです。残念ながら律令の時代からは一世紀は遅れているので、この話は成り立たないように思われます。
ですが、それほどトンチンカンな話でないようで、アップしました。
2018年9月5日水曜日
飛鳥時代の仏教と寺院造営
「入門 歴史時代の考古学、近江俊秀著、(株)同成社発行」
を見ています。考古学の研究史を踏まえながら、いかに文字資料と向き合っていくかとのことで、最初の章の話です。
石田茂作は、仏教が飛鳥や斑鳩から全国に拡散したとして、瓦の文様と寺院の伽藍配置の形式を調べ、クリアにしたが、実際にはその後の発掘調査などで多様な伽藍形式があることがわかったということです。一つの系統から拡散したものではなく、蘇我氏から広まるのに加え、厩戸王一族(上宮王家)ももまた仏教の担い手になったらしく、また地方でも独立した別系統のものもあるようです。
誤解しているかもしれませんが、この時代のグループが、戦国大名の治める領国のようなものでなく、まだら模様にいろんな地域が結びついていたように思えます。つまり天皇をトップにしてはおらず、それぞれの地域をモザイク状にグループ化されていたのかとも思います。仏教が公伝したとしても、基準化されることなく、それぞれの地域で自由に取り入れられ、多様な伽藍形式・瓦の文様になったということでしょう。公伝の時の年号など何年かとかあまり意味がないように思います。
現在、七堂伽藍が整えられた最古の寺として飛鳥寺が考えられているとのことです。百済からの工人の指導の下に建てられていて、基壇なども朝鮮半島由来のもののようです。一方、塔の地中深くに埋められた新礎の上から出土した舎利荘厳具は、馬具や短甲が含まれるなど後期古墳の埋葬品と何ら変わらないことがわかった。つまり、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺には、渡来の技術と日本の古墳文化の融合がみられたのである。と書いてあります。
これは、クレオール的な話になっています。古墳文化と渡来系の文化の融合というか衝突のようなものが、この時期に起こっていますが、文字を取り入れて、古代のアイヌ語と朝鮮語がぶつかり、日本語の基礎が形成されたことと一体の話のように思われてきました。傾向的には合っています。
を見ています。考古学の研究史を踏まえながら、いかに文字資料と向き合っていくかとのことで、最初の章の話です。
石田茂作は、仏教が飛鳥や斑鳩から全国に拡散したとして、瓦の文様と寺院の伽藍配置の形式を調べ、クリアにしたが、実際にはその後の発掘調査などで多様な伽藍形式があることがわかったということです。一つの系統から拡散したものではなく、蘇我氏から広まるのに加え、厩戸王一族(上宮王家)ももまた仏教の担い手になったらしく、また地方でも独立した別系統のものもあるようです。
誤解しているかもしれませんが、この時代のグループが、戦国大名の治める領国のようなものでなく、まだら模様にいろんな地域が結びついていたように思えます。つまり天皇をトップにしてはおらず、それぞれの地域をモザイク状にグループ化されていたのかとも思います。仏教が公伝したとしても、基準化されることなく、それぞれの地域で自由に取り入れられ、多様な伽藍形式・瓦の文様になったということでしょう。公伝の時の年号など何年かとかあまり意味がないように思います。
現在、七堂伽藍が整えられた最古の寺として飛鳥寺が考えられているとのことです。百済からの工人の指導の下に建てられていて、基壇なども朝鮮半島由来のもののようです。一方、塔の地中深くに埋められた新礎の上から出土した舎利荘厳具は、馬具や短甲が含まれるなど後期古墳の埋葬品と何ら変わらないことがわかった。つまり、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺には、渡来の技術と日本の古墳文化の融合がみられたのである。と書いてあります。
これは、クレオール的な話になっています。古墳文化と渡来系の文化の融合というか衝突のようなものが、この時期に起こっていますが、文字を取り入れて、古代のアイヌ語と朝鮮語がぶつかり、日本語の基礎が形成されたことと一体の話のように思われてきました。傾向的には合っています。
2018年9月3日月曜日
「DNA追い古代人に迫る」の記事
日経9月2日朝刊の記事にありました。
有料記事でデジタルの新聞では詳しく読めないです。
ほかのところに関連する記事がありました。
縄文人、ルーツは東南アジア? 金沢大など、人骨の全ゲノム解読
約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。
とのことです。
日経記事では、東南アジアについてもう少し詳しいです。
その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。
とのことです。
解析の古人骨のあった伊川津貝塚の場所ですが、渥美半島のところです。日経記事ではラオスから日本へやってくるのに、海洋ルートか朝鮮半島経由か?としていますが、直感的に、黒潮の海洋ルートでやってきた気がしました。
人の移動は海洋ルートが主であったかもというメモです。
有料記事でデジタルの新聞では詳しく読めないです。
ほかのところに関連する記事がありました。
縄文人、ルーツは東南アジア? 金沢大など、人骨の全ゲノム解読
約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。
とのことです。
日経記事では、東南アジアについてもう少し詳しいです。
その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。
とのことです。
解析の古人骨のあった伊川津貝塚の場所ですが、渥美半島のところです。日経記事ではラオスから日本へやってくるのに、海洋ルートか朝鮮半島経由か?としていますが、直感的に、黒潮の海洋ルートでやってきた気がしました。
人の移動は海洋ルートが主であったかもというメモです。
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