文学には興味ないので、ノーベル賞を取られたイシグロ氏については、全く知りませんでした。たまたま、テレビの「カズオイシグロの白熱教室」が再放送され、録画してたものをついつい見てしまいました。
この本の内容についても、読んでないので、もちろんわかってはおりませんが、たぶん、白熱教室で話となった「忘れられた記憶」のことがテーマだと思います。その白熱教室で、歴史の問題の話があって、過去の過ちにつきあうのは難しい。思い出さない方が良いのか悪いのかということが出てました。例として、イシグロ氏は第2次大戦後のフランスを取り上げておられます。
大戦中、フランスはドイツに占領され、その時にドイツ軍に協力する人と、反抗してレジスタンス運動を行った人と別れました。戦後、ドゴール大統領は、全員がフランスのために戦ったとして、偉大なフランスを目指すということで、対立を封印したそうです。この辺はちょっと違うかもしれません。とにかく、最近の事例でも、意識的に思い出さないようなことになっています。このことは、どこにでもあるような話かもしれません。
安田仮説も、古い時代の話で、私は今まで意識していませんでしたが、天皇制の問題など日本のタブーに関係してきて、だれも望まないことをやっているような気がしてきました。古い時代のことは時効のように感じられてきているようには思います。今後の日本にとって、かさぶたでおさまっている傷口を開けることになる可能性はあるかもと感覚的に思っています。しかし、多くの人が納得する形で、今後は受け入れていかなくてはならず、段々と認められつつあるのだろうという気でおります。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2017年10月29日日曜日
2017年7月3日月曜日
大谷駅
京阪京津線の駅で、プラットホームが傾いていることに興味を持ちました。
ここは大津市大谷町にありますが、駅をおりたところに、由来として
「かってこのあたりが、深い谷間に挟まれていたことから名付けられた町名です」との表示がありました。いつの時代かわかりませんが、地形以来の地名のようです。明治時代には大谷町があるので、それ以前ということですが、近くに逢坂関跡の記念碑があるようで、かなり古い時代かもしれません。
国道と線路を挟んで谷間になっているような写真は撮れてません。
ここは大津市大谷町にありますが、駅をおりたところに、由来として
「かってこのあたりが、深い谷間に挟まれていたことから名付けられた町名です」との表示がありました。いつの時代かわかりませんが、地形以来の地名のようです。明治時代には大谷町があるので、それ以前ということですが、近くに逢坂関跡の記念碑があるようで、かなり古い時代かもしれません。
国道と線路を挟んで谷間になっているような写真は撮れてません。
2017年6月4日日曜日
奈良、旧国名地名
奈良県磯城郡田原本町に十六面というところがあります。漢字だけを見ていればわかりませんが、Jurokusenと読みます。道路の標識で知りました。線と面は適当なところがあり、角材のとがったところの角を落とすのを面取りと言います。実際は線取りだとは思いますが、この地も、「せん」の発音に漢字を当てるときに面としたのだと思います。奈良県の地名にはもともと発音していたものに、対応する意味の漢字を当てた痕跡が残っているのではということで、興味をもっています。
奈良の地名の本を図書館で借りてきました。
奈良地名の由来を歩く、谷川彰英著、KKベストセラーズです。
最後の第七章で、奈良の旧国名について書かれています。天理市では、上総・備前・武蔵。桜井市では出雲・吉備など、旧国名の地名が多く残っているということです。
この本で指摘されているのは、旧国名の地域が
①西日本に偏っている
②実は畿内の国名は見当たらない
③東海道沿いにはかなり勢力が伸びていたと考えられる。
④奈良市には皆無である
とのことです。
また、奈良県の図書館で
地名の考古学--奈良地名伝承論、池田末則著、勉誠出版、12000円(税別)
もちらっと見ました。こちらの本では、旧国名の地域が大和川流域の平坦部、藤原宮跡を中心とする地域となっています。
同じ国名の地域があることから、この地域の出身者が各地方に進出し、国名になったのではなく、各地域から人が集まり、その出身地の地名になったものと思われます。桜井市に残っている吉備というところはその横が安倍で、遣唐使で同期の阿倍仲麻呂と吉備真備とかの関係があったのかとも思います。
江戸時代の各大名の江戸屋敷みたいなものでそれぞれの地域の出先機関があったかもしれません。おそらく自給自足が原則で食べるものなども調達しなければならないので、ある程度の領域を必要としたのかもしれません。
安田仮説での地図との関連ですが、大雑把には、西日本中心ということで、まあ合ってるように思います。細かくには、名字が先で国名が後であり、日本の統一の過程があらわれているのだとは思いますが、良くわかりません。日本に漢字が導入され、文字を通じての中央集権化(言向け和す?)のような変化が奈良の地から急激に起こっていたのではということにしておきます。
下は奈良県基準の名字パターンの相関係数、奈良県の分布に近いほど黒っぽくなります。
奈良時代の影響が残っていると考えています。
奈良の地名の本を図書館で借りてきました。
奈良地名の由来を歩く、谷川彰英著、KKベストセラーズです。
最後の第七章で、奈良の旧国名について書かれています。天理市では、上総・備前・武蔵。桜井市では出雲・吉備など、旧国名の地名が多く残っているということです。
この本で指摘されているのは、旧国名の地域が
①西日本に偏っている
②実は畿内の国名は見当たらない
③東海道沿いにはかなり勢力が伸びていたと考えられる。
④奈良市には皆無である
とのことです。
また、奈良県の図書館で
地名の考古学--奈良地名伝承論、池田末則著、勉誠出版、12000円(税別)
もちらっと見ました。こちらの本では、旧国名の地域が大和川流域の平坦部、藤原宮跡を中心とする地域となっています。
同じ国名の地域があることから、この地域の出身者が各地方に進出し、国名になったのではなく、各地域から人が集まり、その出身地の地名になったものと思われます。桜井市に残っている吉備というところはその横が安倍で、遣唐使で同期の阿倍仲麻呂と吉備真備とかの関係があったのかとも思います。
江戸時代の各大名の江戸屋敷みたいなものでそれぞれの地域の出先機関があったかもしれません。おそらく自給自足が原則で食べるものなども調達しなければならないので、ある程度の領域を必要としたのかもしれません。
安田仮説での地図との関連ですが、大雑把には、西日本中心ということで、まあ合ってるように思います。細かくには、名字が先で国名が後であり、日本の統一の過程があらわれているのだとは思いますが、良くわかりません。日本に漢字が導入され、文字を通じての中央集権化(言向け和す?)のような変化が奈良の地から急激に起こっていたのではということにしておきます。
下は奈良県基準の名字パターンの相関係数、奈良県の分布に近いほど黒っぽくなります。
奈良時代の影響が残っていると考えています。
2017年6月3日土曜日
奈良の地名
名字の長谷川から思い出してきて、奈良の地名に興味を持っています。「ながたに」と書いて「はせ」と読むのは、長谷寺とかある地域がちょうど長い渓谷の地域にあり、漢字が導入されたときに発音はそのままに、漢字はその地域の形状的な特徴などを元に名を表すものになったためと思われます。たとえば、日本に山という漢字が入ってきたときに、「やま」という言葉に漢字がくっついた と考えられます。
平城京をナラノミヤコとふりがなをつけてあるのを見て、平城の部分がならに相当します。ならが発音で、地域の形態を表したのが平「城」であろうと思いました。「城」は都が城壁に囲まれていて、都のことを示していますが、平らな城であることを示しています。今まで意識してませんでしたが、実際に都とされた場所は、最初から平坦な地域ではなく、でこぼこなどのところを整地して(ならして)建設されたところであろうと考えられます。「平」に「ならす」の意味があるということです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都と成しつ」
という歌もあるぐらいで、都を作るのに土地の造成事業とか、今では考えられないくらいに大変なものであったかもしれません。都は大王の存在価値を示すようなシンボルであったとも考えられます。漢字は意味を表し、発音は和語を表すという例になるかもと思います。
古代地名紀行ー大和の風土と文化、池田末則著、東洋書院の最初の方、13ページから、奈良についてのところに「ならす」との記述がありました。昔から考えている人がいたということです。
平城京をナラノミヤコとふりがなをつけてあるのを見て、平城の部分がならに相当します。ならが発音で、地域の形態を表したのが平「城」であろうと思いました。「城」は都が城壁に囲まれていて、都のことを示していますが、平らな城であることを示しています。今まで意識してませんでしたが、実際に都とされた場所は、最初から平坦な地域ではなく、でこぼこなどのところを整地して(ならして)建設されたところであろうと考えられます。「平」に「ならす」の意味があるということです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都と成しつ」
という歌もあるぐらいで、都を作るのに土地の造成事業とか、今では考えられないくらいに大変なものであったかもしれません。都は大王の存在価値を示すようなシンボルであったとも考えられます。漢字は意味を表し、発音は和語を表すという例になるかもと思います。
古代地名紀行ー大和の風土と文化、池田末則著、東洋書院の最初の方、13ページから、奈良についてのところに「ならす」との記述がありました。昔から考えている人がいたということです。
2017年6月1日木曜日
井上、田中、田伏
寝屋川市に石の宝殿古墳があります。寝屋川市ホームぺージによれば、発掘調査の時の須恵器の小片から7世紀中ごろのものとされています。また古墳背後の埋まった石と列石から角度が135度あり、古墳の形が八角形の可能性もあるそうです。八角形といえば天武天皇のお墓とされる野口王墓も八角形です。この時代の可能性がたかまります。とにかく7世紀のこの地域の有力豪族の墓とのことです。ここは打上神社の奥にあります。神社の鳥居の額には甲良神社とあるところです。
ここからが本題ですが、この神社の玉垣というのかわかりませんが、石の垣根にある名前で,同じ名字で古い時代の痕跡が残っている地域です。この地域の人の名前が彫られているようです。
井上、田中、田伏が目立ちます。
『井上』は井が条里制の田んぼの形状を線で表したもので、結局田んぼの上の方の意味です。また『田中』は文字通り田んぼの中ほどの意味だと思います。『田伏』は私の想像ですが、伏せた姿勢から下の意味だと思います。つまりこの地域は田んぼの上・中・下を現した名字から成立してることになります。先ほどの古墳はこの地域で条里制の田んぼを開発していった有力者のお墓であり、この地域が7世紀中ほどまでには開発されていったこと、その時の名字の発生とつながりがあることを印象付けるものだと思います。
あと、『田伐』という名字も目立ちました。伐採しながら田んぼを開発していった様子がうかがえます。
ここからが本題ですが、この神社の玉垣というのかわかりませんが、石の垣根にある名前で,同じ名字で古い時代の痕跡が残っている地域です。この地域の人の名前が彫られているようです。
井上、田中、田伏が目立ちます。
『井上』は井が条里制の田んぼの形状を線で表したもので、結局田んぼの上の方の意味です。また『田中』は文字通り田んぼの中ほどの意味だと思います。『田伏』は私の想像ですが、伏せた姿勢から下の意味だと思います。つまりこの地域は田んぼの上・中・下を現した名字から成立してることになります。先ほどの古墳はこの地域で条里制の田んぼを開発していった有力者のお墓であり、この地域が7世紀中ほどまでには開発されていったこと、その時の名字の発生とつながりがあることを印象付けるものだと思います。
あと、『田伐』という名字も目立ちました。伐採しながら田んぼを開発していった様子がうかがえます。
2017年5月25日木曜日
日本人のおなまえっ
4月から始まったNHKの番組です。
最初は『サイトウ』、続いて『山田』、『●子』、『言われてみれば不思議な読み方で』は長谷川・東海林、『高橋』、『太郎』と放送されました。姓名がいろいろ出てきています。参考になり、自分の思い込みが恥ずかしくなることも多いですが、おいおいブログの訂正もしていきたいと思います。サイトウについては感心して、その後は見ています。山田と高橋の回はどうだろうということもありました。バラエティ番組ですが、勉強になります。
最初は『サイトウ』、続いて『山田』、『●子』、『言われてみれば不思議な読み方で』は長谷川・東海林、『高橋』、『太郎』と放送されました。姓名がいろいろ出てきています。参考になり、自分の思い込みが恥ずかしくなることも多いですが、おいおいブログの訂正もしていきたいと思います。サイトウについては感心して、その後は見ています。山田と高橋の回はどうだろうということもありました。バラエティ番組ですが、勉強になります。
2017年1月3日火曜日
中山寺と清荒神
初詣に出かけました。さすがに人が多く、普段なら通り過ごすようなところも拝観出来ました。
中山寺
華蔵院だったかに、中山寺再建の普請奉行の片桐且元の遺愛の庭がありました。中山寺略縁起によれば、秀吉の祈願により秀頼を授かったことから、子の秀頼が且元に命じ伽藍を再建したそうです。今回はお寺の中に石の櫃(イシノカラト)とよばれる古墳跡があるのを知りました。多分ですが創建時からあったものと思います。この横穴式石室が、何らかの女性的なイメージとつながり安産の寺となったのではと妄想しました。
関係ないですが、新しい五重塔がありました。塔といえばくすんだイメージだったので、色鮮やかで感動しました。
清荒神
参道からではなく迂回路からのお参りでした。途中に川西という地名を見つけ、これは多田源氏発祥の地の川西と関係があり、源氏と何かの縁があるのかと思いましたが、見間違いで川面というところでした。似た文字で親戚関係を表わすことがあるかもしれないので、ほかに事例があればと思います。
清荒神ですが、かまどの神様ということです。なぜなのか考えていたのですが、多分ここも古墳の跡ではないかと思うようになりました。ホームページの境内案内に荒神影向(こうじんようごう)の榊というのがあります。「現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。」と書かれていますが、ぱっと見は賽銭泥棒のように思ってしまいびっくりします。
そちらでは無く、周りが石垣で囲まれているのが注目ポイントです。古いものではないですが、創建時にはかまどのような形であったものと思います。「ご本社の背後には、当山開創に際し、荒神様がお姿を現されたと伝えられる「荒神影向の榊」があります。当時、この霊験の報告を受けた宇多天皇は、大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。」とホームページにありますが、当時、天井の方に穴のあいた古墳跡がここにあり、大きなかまどと見立てたのではとの想像です。
当時、多田銀山の開発とか行われていて、ところかまわず発掘したなかで、お墓とかも認識していてそのままではまずいと思い、その後に、神社やお寺を作ったのではないかとも思えます。
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