日経新聞2015年12月29日の記事です。
人力で、米西部サンフランシスコからオーストラリア北東部ケインズまで
209日、太平洋13700kmを横断したとのことです。
古代にもこういう人がいたかもしれません。
メモ書きです。
youtube
日経
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2016年1月4日月曜日
2015年12月20日日曜日
銅鐸の分布
日本史通覧の分布図を見て、興味を持ちました。
関連して、銅鐸の絵を読み解く―歴博フォーラムを図書館から借りてきました。
その初めにのところ以下のようです。
銅鐸とは2000年前の祭りのカネです。近畿を中心として西は中・四国、東は中部にいたる範囲では、弥生時代-本格的な水田で稲を作り始めた最初の時代-に銅鐸を使い、しかもそれを山や丘の斜面などに穴を掘って埋めています。古い銅鐸は、たしかに鳴らした証拠をとどめています。しかし新しい銅鐸は、大きくなり紋様で飾り立てており、本来のカネから離れて、目にも立派な姿へと変貌しました。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変わったのです。・・・・
この本は1997年なので、「見る銅鐸」には違和感がありますが、現在も考えられているようです。
銅鐸は当時のハイテク製品と思います。最新の文化・文明が表されていて、それが各地へ伝達されていったはずです。銅鐸に描かれている絵も先端技術を示していると考えて良いと思います。
高床式の倉庫のような家屋、上記の「絵を読み解く」本にもありましたが、鹿は占いに必要な重要な動物のように書いてました。そうであれば本には書いてませんが、スッポンも実は亀で亀甲の占いに通じます。占いもハイテクだったと思います。カタカナの「エ」に似た道具も機織りの道具で、機織りの新技術を示しているのかもしれません。トンボも「田の神」で豊作をもたらす象徴であるという考えがあるそうです。新しい農耕技術のシンボルの生物です。素朴なスケッチではないだろうということでしょう。と思ったのですが、銅鐸に示される他の生物、トカゲやカマキリ、サギなども何かしらの意味があるはずですがわからないので、残念ながら断定できません。銅鐸は謎だらけです。
さて、日本史通覧の分布図(P.34-35)に戻ります。銅鐸には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸と違いがあるようです。三遠式とは三河・遠江のことで、東海地方に政治的・経済的にまとまりのある地域があり、また近畿地方にも四国や和歌山県などでまとまりのある地域、国のようなものがあったと考えられます。この図では、岐阜県には銅鐸の分布があまり及んでいないように見え、まだまだ未開の地であり、安田仮説と整合性はあります。図では近畿式は四国を含んでいて、海辺に近い地域で海上の交易が盛んであったことを伺わせるものです。分布も陸路が限られた地域でつながりがあったようにも見えます。(この図は集英社「日本の歴史②」からとなっています。)
何を言ってるかわからない文章になってしまいました。完全な個人メモです。
似たような銅鐸分布図
こちらの図では陸路とかはわかりません。図によって微妙に違い、思い込みかもしれません。
関連して、銅鐸の絵を読み解く―歴博フォーラムを図書館から借りてきました。
その初めにのところ以下のようです。
銅鐸とは2000年前の祭りのカネです。近畿を中心として西は中・四国、東は中部にいたる範囲では、弥生時代-本格的な水田で稲を作り始めた最初の時代-に銅鐸を使い、しかもそれを山や丘の斜面などに穴を掘って埋めています。古い銅鐸は、たしかに鳴らした証拠をとどめています。しかし新しい銅鐸は、大きくなり紋様で飾り立てており、本来のカネから離れて、目にも立派な姿へと変貌しました。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変わったのです。・・・・
この本は1997年なので、「見る銅鐸」には違和感がありますが、現在も考えられているようです。
銅鐸は当時のハイテク製品と思います。最新の文化・文明が表されていて、それが各地へ伝達されていったはずです。銅鐸に描かれている絵も先端技術を示していると考えて良いと思います。
高床式の倉庫のような家屋、上記の「絵を読み解く」本にもありましたが、鹿は占いに必要な重要な動物のように書いてました。そうであれば本には書いてませんが、スッポンも実は亀で亀甲の占いに通じます。占いもハイテクだったと思います。カタカナの「エ」に似た道具も機織りの道具で、機織りの新技術を示しているのかもしれません。トンボも「田の神」で豊作をもたらす象徴であるという考えがあるそうです。新しい農耕技術のシンボルの生物です。素朴なスケッチではないだろうということでしょう。と思ったのですが、銅鐸に示される他の生物、トカゲやカマキリ、サギなども何かしらの意味があるはずですがわからないので、残念ながら断定できません。銅鐸は謎だらけです。
さて、日本史通覧の分布図(P.34-35)に戻ります。銅鐸には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸と違いがあるようです。三遠式とは三河・遠江のことで、東海地方に政治的・経済的にまとまりのある地域があり、また近畿地方にも四国や和歌山県などでまとまりのある地域、国のようなものがあったと考えられます。この図では、岐阜県には銅鐸の分布があまり及んでいないように見え、まだまだ未開の地であり、安田仮説と整合性はあります。図では近畿式は四国を含んでいて、海辺に近い地域で海上の交易が盛んであったことを伺わせるものです。分布も陸路が限られた地域でつながりがあったようにも見えます。(この図は集英社「日本の歴史②」からとなっています。)
何を言ってるかわからない文章になってしまいました。完全な個人メモです。
似たような銅鐸分布図
こちらの図では陸路とかはわかりません。図によって微妙に違い、思い込みかもしれません。
2015年12月1日火曜日
図説日本史通覧
帝国書院の本です。歴史の知識が無く、年表のようなものが欲しいなと思って、
上記の本を購入しました。925円でした。ボリュームあり、お買い得です。
ビジュアルで見ていて楽しいです。なぜ今まで買わなかったのかと思うほどです。
同様のものに、山川 詳説日本史図録があります。アマゾンで見るとレビューなど多くて
こちらが売れているようです。どちらかですが、後ろの年表で山川の方が詳しく、当方は
シンプルな方が良いかと思い、こちらにしました。
上記の本を購入しました。925円でした。ボリュームあり、お買い得です。
ビジュアルで見ていて楽しいです。なぜ今まで買わなかったのかと思うほどです。
同様のものに、山川 詳説日本史図録があります。アマゾンで見るとレビューなど多くて
こちらが売れているようです。どちらかですが、後ろの年表で山川の方が詳しく、当方は
シンプルな方が良いかと思い、こちらにしました。
2015年11月12日木曜日
歴史認識
安田仮説での考えを追求していけば、
聖徳太子と推古天皇は存在しない、蘇我・物部の神仏争いは次世紀の話など、日本史の教科書との違いは大きいです。これについて考えてみました。
今の歴史がいかに成立したかというと
江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始された大日本史の影響が強いように思います。神仏分離が江戸時代に水戸藩などでは進められ、排仏棄釈が明治維新後、全国に拡大してます。明治維新により日本の歴史を天皇中心にまとめ、皇国史観の考え方が採用された気がします。大戦後はこの皇国史観は、否定されましたが徹底はされませんでした。現日本国憲法には、戦後の日本の進む道として、平和主義が取り入れられ、戦争放棄がうたわれています。これは聖徳太子の十七条憲法、「和を以て貴しと為す」がベースにあり、戦後の高度成長の時代を担ってきました。直感的な例ですが、聖徳太子の肖像がお札に使用されていて、具体的なシンボルとなっていたと思います。戦後の皇国史観の検証が徹底しなかったのは、聖徳太子を残すためではなかったのかと思います。20世紀後半の日本には現憲法が果たした役割は大きく、聖徳太子を否定するより肯定する方がはるかに有意義であったと思います。歴史は一つではないので、当然といえば当然のことです。しかしながら、いろいろな思惑がある中で、あれこれ考えていくことは無意味ではなかろうと思います。
聖徳太子と推古天皇は存在しない、蘇我・物部の神仏争いは次世紀の話など、日本史の教科書との違いは大きいです。これについて考えてみました。
今の歴史がいかに成立したかというと
江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始された大日本史の影響が強いように思います。神仏分離が江戸時代に水戸藩などでは進められ、排仏棄釈が明治維新後、全国に拡大してます。明治維新により日本の歴史を天皇中心にまとめ、皇国史観の考え方が採用された気がします。大戦後はこの皇国史観は、否定されましたが徹底はされませんでした。現日本国憲法には、戦後の日本の進む道として、平和主義が取り入れられ、戦争放棄がうたわれています。これは聖徳太子の十七条憲法、「和を以て貴しと為す」がベースにあり、戦後の高度成長の時代を担ってきました。直感的な例ですが、聖徳太子の肖像がお札に使用されていて、具体的なシンボルとなっていたと思います。戦後の皇国史観の検証が徹底しなかったのは、聖徳太子を残すためではなかったのかと思います。20世紀後半の日本には現憲法が果たした役割は大きく、聖徳太子を否定するより肯定する方がはるかに有意義であったと思います。歴史は一つではないので、当然といえば当然のことです。しかしながら、いろいろな思惑がある中で、あれこれ考えていくことは無意味ではなかろうと思います。
2015年11月9日月曜日
NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第3集「中国 始皇帝陵と兵馬俑」を見て
日本も中国の影響を受けていることを感じました。
1.番組では日本の前方後円墳とは始皇帝陵が異質なものであるとの説明でしたが、日本のものもスケールが小さいですが、埴輪とか墓の周りに配置するなど影響を受けているように思いました。
2.中国の統一にあたって、文字の統一政策の話がありましたが、日本での万葉集(防人の歌など)に結びつくものがあるかも。
3.始皇帝は銅車馬というもので統一後に全国を巡ったそうです。この巡行を5回行っているそうですが、行く先には、少し前まで敵の地であったところがあり、命を狙われることもあったそうです。斉があった山東省成山の海にのぞむ小高い丘で祈りをささげる玉壁と玉圭が発見され、これが秦などの西の方の風習だと考えられ、斉の人が東から昇る太陽をあがめてきた場所で始皇帝も同じく祈りをささげる行為を行った、との話でした。映像では、何か伊勢神宮を思い出しました。
日本での天皇巡幸も同じく、中国のやり方をまねて、その当時の国境の地域を巡ったと十分に考えられます。東限を表している可能性は大です。忘れるかもしれませんが、覚えておきたいことです。
1.番組では日本の前方後円墳とは始皇帝陵が異質なものであるとの説明でしたが、日本のものもスケールが小さいですが、埴輪とか墓の周りに配置するなど影響を受けているように思いました。
2.中国の統一にあたって、文字の統一政策の話がありましたが、日本での万葉集(防人の歌など)に結びつくものがあるかも。
3.始皇帝は銅車馬というもので統一後に全国を巡ったそうです。この巡行を5回行っているそうですが、行く先には、少し前まで敵の地であったところがあり、命を狙われることもあったそうです。斉があった山東省成山の海にのぞむ小高い丘で祈りをささげる玉壁と玉圭が発見され、これが秦などの西の方の風習だと考えられ、斉の人が東から昇る太陽をあがめてきた場所で始皇帝も同じく祈りをささげる行為を行った、との話でした。映像では、何か伊勢神宮を思い出しました。
日本での天皇巡幸も同じく、中国のやり方をまねて、その当時の国境の地域を巡ったと十分に考えられます。東限を表している可能性は大です。忘れるかもしれませんが、覚えておきたいことです。
2015年11月7日土曜日
鹿島神宮
鹿島神宮が重要なポイントであるとは思っていて、今
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。
65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。
65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。
2015年11月5日木曜日
第67回正倉院展
今年も奈良国立博物館に出かけてきました。
国家珍宝帳のトップに記される七条褐色紬袈裟27[しちじょうかっしょくのつむぎのけさ]
を見ることが出来ました。透けるようなネットのような編み方で、日曜美術館で織り方の話
がありましたが、理解できませんでした。とにかく、聖武天皇にとってこの袈裟がいかに大切
なものか、仏教に対する信仰の強さを示すもののようです。
伎楽面力士16の面内に「周防」との墨書も私にはわかりませんでした。このことから周防国か
らこの面が貢進されたらしいとのことです。この国名ですが、防の字が使われており、国名
が考えられた時代、山口県が防衛の拠点であったかもしれないと思います。
続修正倉院古文書 第13巻43、隼人計帳で、南九州出身者の徴税基本台帳とのことです。
良く理解できていないのですが、男女比のバランスが悪く男子の比率が小さいので戸籍のよ
うなものでは無いように思われました。古い時代の戸籍の残っている可能性は小さそうです。
国家珍宝帳のトップに記される七条褐色紬袈裟27[しちじょうかっしょくのつむぎのけさ]
を見ることが出来ました。透けるようなネットのような編み方で、日曜美術館で織り方の話
がありましたが、理解できませんでした。とにかく、聖武天皇にとってこの袈裟がいかに大切
なものか、仏教に対する信仰の強さを示すもののようです。
伎楽面力士16の面内に「周防」との墨書も私にはわかりませんでした。このことから周防国か
らこの面が貢進されたらしいとのことです。この国名ですが、防の字が使われており、国名
が考えられた時代、山口県が防衛の拠点であったかもしれないと思います。
続修正倉院古文書 第13巻43、隼人計帳で、南九州出身者の徴税基本台帳とのことです。
良く理解できていないのですが、男女比のバランスが悪く男子の比率が小さいので戸籍のよ
うなものでは無いように思われました。古い時代の戸籍の残っている可能性は小さそうです。
登録:
投稿 (Atom)