2015年11月7日土曜日

鹿島神宮

鹿島神宮が重要なポイントであるとは思っていて、今
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。

65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
 これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
 つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。

2015年11月5日木曜日

第67回正倉院展

 今年も奈良国立博物館に出かけてきました。
国家珍宝帳のトップに記される七条褐色紬袈裟27[しちじょうかっしょくのつむぎのけさ]
を見ることが出来ました。透けるようなネットのような編み方で、日曜美術館で織り方の話
がありましたが、理解できませんでした。とにかく、聖武天皇にとってこの袈裟がいかに大切
なものか、仏教に対する信仰の強さを示すもののようです。
 伎楽面力士16の面内に「周防」との墨書も私にはわかりませんでした。このことから周防国か
らこの面が貢進されたらしいとのことです。この国名ですが、防の字が使われており、国名
が考えられた時代、山口県が防衛の拠点であったかもしれないと思います。
 続修正倉院古文書 第13巻43、隼人計帳で、南九州出身者の徴税基本台帳とのことです。
良く理解できていないのですが、男女比のバランスが悪く男子の比率が小さいので戸籍のよ
うなものでは無いように思われました。古い時代の戸籍の残っている可能性は小さそうです。


2015年10月24日土曜日

沢のつく名字

 沢のつく名字が記憶ですが山梨県に多いなと思っていました。名字の傾向が地方によって異なり、偶然では無く何らかの意味があると思っていました。常陸風土記のことから思い出しました。
 〇沢の形の名字が多い地域を2年ほど前に調べていました。今あらためてこの図を見ると沢のつく名字は長野県に始まり東北地方に広がっています。以前であれば、平安時代ぐらいに沢のつく名字がその後の東北進出とともに広がっていったと解釈しますが、常陸国のことを考えると、時代の前後関係が微妙で分けわからなくなります。沢のつく名字は同一時期に発生したことは確実ですが、奈良時代か平安時代か、今後の課題です。またこのようにクリアに分布が出ている名字はなかなかありません。他には〇根の名字は山陰地方に多いような結果があります。
元々、一文字の名字が、好字令で二文字にするときにこの地域では便宜的に沢をつけたという可能性があるのかこれも何とも言えません。地域としての統一されたものがあることは確かですが。

2015年10月18日日曜日

常陸国

 安田仮説では、大和政権は西日本までの統一であると言ってますが、常陸国風土記が問題と
なっていました。常陸国は今の茨城県です。飛び地であるとしていましたが、知識が増えて
きましたので、現時点のメモ書きとしてアップします。
 常陸風土記とは、ウィキペディアによれば、奈良時代初期の官選の地誌とされていて、その
写本が5つ残っていてその一つです。この風土記の編者は、当時常陸守であった藤原宇合が
有力とされています。出だしの常陸国総記の中に
・・難波長柄豊崎大宮臨軒天皇(注で孝徳天皇)の時代に、高向臣・中臣幡織田連らを遣わ
して、坂(前の方の相模の足柄岳の坂か?)より東の国を総領めしめき(注で東国の八国を
統治)。・・・
とあり、彼は後期難波宮造営の責任者で、孝徳天皇を意識していてそうかもしれないと私は
思いました(弱い理由ですが)。納得いく説明は
「常陸国風土記」の世界-古代史を読み解く101話-、井上辰雄著、雄山閣の第100話
にあります。
 常陸国は藤原氏とつながりが強いようで、藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社は、・・768年
(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた
天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている
(ウィキペディア春日大社より)となっています。常陸国を藤原氏が注目していたのだと思います。
 さて鹿島神宮の武甕槌命が春日大社に白鹿に乗ってこられたとのことですが、どのような交
通手段であろうかと思います。もちろんイメージの話です。私は海上ルートではと想像します。鹿島神宮の位置は東が海で、名前の通りヒタチ(日立)を見ることができます。これはアマテラスを皇祖神とする伊勢神宮と同じパターンで伊勢神宮-熱田神宮-鹿島神宮が海上ルートでつながるような気がします。東海道というものがあります。今は電車が走っている地域を思ってしまいますが元々の意味は東の海の道のはずです。飛び地であっても船を使えば移動は問題無いように考えられます。
 あと、常陸風土記を詳しく見てないですが、侵略的な雰囲気を感じます。
古老の話のスタイルになっていますが、倭武天皇の話などそれほど古い話ではないのではな
いかとも思います。地名の話なども中央からの目線を感じます。
 藤原氏などの律令制を採用した中央集権的な体制の大和の勢力が、前方後円墳の文化を持つ
、地方分権的な共同体組織であった地域を制圧していく過程が風土記にあらわれているような気がします。防人も捕虜的な扱いであったことにつながるはずです。
 七世紀から八世紀にかけて劇的な変化が起こっていて、この前後の時間的な関係がシビアで
あることは認識しました。今は妄想段階で、どうなるかわかりませんが、現段階のメモとして残します。

参考:常陸国風土記 
   編著者:沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉

2015年9月13日日曜日

三茎蓮文

蓮の3本の茎を型どりしたもので、石造物の基礎に施される近江式文様のひとつとされています。このルーツを、奈良国立博物館の白鳳展で感じました。きちんとまとめられなかったのですがメモとして残します。
白鳳時代の仏像では個人のものでパブリックなものではない雰囲気の仏像があり小さめのものが展示されていました。いうなれば初期の仏像と考えられるものです。
衝撃的なものが
No.32 銅造阿弥陀如来及び両脇侍像 飛鳥時代後期(献納宝物144号)
 です。阿弥陀仏が蓮の花から生まれたイメージを感じるものです。背面に山田殿像とあり、山田寺の関係もありそうな仏像です。
No.84 伝橘夫人稔侍仏(阿弥陀三尊像)
 伝ということで白鳳時代ということです。
橘三千代ともいい、藤原不比等の後妻となり、光明子の母です。蓮の茎に注目です。

塼仏-塼仏(せんぶつ)は、かつて中国の北魏から唐代に発展し、日本には7世紀に伝来し、発達したレリーフ形式の仏像。(ウィキペディアより)
NO.24 川原寺裏山遺跡出土 三尊塼仏
No.130 伝橘寺出土 三尊塼仏
No.131 南法華寺出土 三尊塼仏
  これらは蓮の茎まで表現されていて、三茎蓮を強く感じました。
No.117 長谷寺銅板法華説相図
  中段の左右五尊仏のところ。
No.27 山田寺跡出土品 金銅板五尊像
  
仏像の原則は蓮の上ということなのでしょうが、仏像が巨大化してくると強度的に茎でサポートすることは出来なくなり(仏像が2倍なら茎は2√2倍でバランス悪くなる)、個人的な仏像では可能であった三茎蓮が白鳳の時代以降消え去ってしまったのかもと思いました。塼仏などもおそらくこの時代のみの特徴であろうと思われますが、鎌倉時代からの近江式文様とはどういうつながりがあるのだろうと思います。関係ないと言えばそれで終わりになりますが。

2015年8月28日金曜日

白鳳展

 行ってきました。奈良国立博物館で開催されています。
歴史的には飛鳥時代→奈良時代となっているが、美術史的にはこの間に白鳳時代といわれる
時代をいれるようです。実在が疑わしく、孝徳天皇の時代の白雉の別称とされています。
 展示では、山田寺の創建のコーナーで国宝の仏頭(27日まで)や阿弥陀三尊像(伝橘夫人念
持仏)及び厨子、長谷寺の銅板法華説相図など見ることが出来て良かったと思いました。全
体として白鳳文化の雰囲気に浸れる感じです。
 図録を買ってきました。安田仮説にとって重要な時代ですので、展示を思い出しつつ読
んでいきたいと思います。ブログの更新なしのまま、夏休みが終わってしまいました。

2015年7月15日水曜日

名字:樋口


敷葉工法(しきはこうほう)が用いられているとのことで狭山池(さやまいけ)博物館に行ってきました。池ということですが、日本最古のダム式ため池だそうです。この博物館にはいろいろ展示されています。写真は館内に展示されている堤を切り出したものです。下の方に樋と呼ばれる木製の筒状の水路があります。年輪年代測定法から7世紀前半に作られたと想定されています。この樋の取り出し口が樋口ということで調べて見ました。
 
樋口の分布を示します。新潟県が多いようですが目立った特徴は感じません。

 
 
しかし他の名字との関係を見ると面白い結果がでています。
相関の高い順番に並べると、
風間、村山、小柳、青柳、小林、丸山、小池、羽田、笠原、桑原、米山、笹川、堤、坂井、橫尾、本間、中沢、片桐、早川、遠山、大矢、渡辺、内山、小宮、今井、依田、星野、保坂、浅川、五味と続きます。ぱっと見たところ水のものとかあり、堤とかは完全にダムに関係していそうです。柳なども堤の地盤を固めるような植物のイメージを持ちます。
ここで2番目の村山ですが、村の山ということで山形の堤を表しているように思えました。
後ろの方の順位の依田ですが、「田」は樋口に「依」存するの意味で、樋口を言い換えたのではと思います。また片桐というのは、江戸時代に片桐且元が改修工事を指揮したことによるのではと考えられます。古い時代だけで無く新しい時代の影響を受けている名字ですが、開発された年代がごっちゃに含まれている感じもあります。山も本当の山で無く堤の意味もあることをしりました。
狭山池は前期難波宮の時代につながるものですが、狭山池博物館では推古天皇の時代のように
説明されていました。私的には孝徳天皇の時代に関連するように思えます。
後の時代に、行基や重源が改修しており、東大寺の成立や再建となぜか関係しているようにも思いました。何かしらのgiveアンドtakeがあったかもしれません。写真は堤断面を切り出したもので、どんどん拡張されてきていますが、最初はこの二分の一くらいだったようです。それでも最初に川のバイパスを作り、そこで堤を作ってからダムを作るということなので7世紀前半ですごい工事をやっていたのだなと感心します。

追記:2015.07.16
ウィキペディアには、新潟市について
1950年代まで、信濃川左岸の新潟島中心部には堀が張り巡らされ、それに沿って柳が植えられていた。そのため、「水の都」「柳都(りゅうと)」などの異名を持つ。とあります。
潟が多く、排水処理が必要な地域だったのかもしれません。

追記2:2015.07.24
依田ですが、樋口に依存するではなくて、樋口が水源に関係しているので、田は水源に依存するぐらいの意味であろうと思います。言い過ぎでした。