2015年3月5日木曜日

イザナキとイザナミの国生み神話

古事記では、イザナキとイザナミはオノゴロ島に降り立ち、子を産みます。
それがヒルコと淡島です。このあたりは不明ですが、その後に
八つの島「大八島」と六つの島々を生みます。
「大八島」とは本州・佐渡島・淡路島・四国・隠岐の島・対馬・九州だそうです。
本州は全体に広がっていますが、佐渡島を除いて他の地域は西日本です。
古事記の世界(8世紀前半)では当時の支配地域を示していると思います。

歴史がおもしろいシリーズ
図解 古事記・日本書紀 33ページの図

安田仮説の図
参考

2015年3月2日月曜日

(メモ)宇治平等院

雨の中、宇治に出かけました。
ここでは、平等院鳳凰堂のメモです。
鳳凰堂の手前が池になっていて、礼拝するところからの写真です。中央に丈六の阿弥陀様がおられ、頼通の小御所があった場所らしく、ベストポイントのようです。

 
 
都名所図会(江戸時代)ではかなり違っていてびっくりします。灯籠が2個とか両側の翼のところとか違います。中堂の前が広場のようですが、今は平安時代の州浜に戻されています。



両側の翼廊の部分は中堂とはつながってなく、完全な飾りになっています。下のチケットにあった図でわかりやすいです。


中堂の奥の尾廊と呼ばれているところは、鳳凰のイメージで必要かもしれませんが、無用のものです。この後の時代の中尊寺金堂では、奥の方に扉があるだけで、鳳凰堂で本当にあったのかと思います。単に感じているだけですが。

---宇治のメモ---
宇治上神社での祭神は、
菟道稚郎子命・応神天皇・仁徳天皇
ですが、どう考えるのだろうかと思います。
単純に菟道稚郎子命の時代に合わせているだけなのか?
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされる。
宇治川対岸にある平等院も平安時代後期とされる。

2015年2月25日水曜日

夏見廃寺

 近鉄大阪線で名張付近で窓から風景を見ていると古い時代に開発された地域の雰囲気が残っているように感じます。さて夏見廃寺ですが、伊勢と奈良の間にある名張市で昭和12年古瓦発見から調査されたものです。
 金堂と塔を中心とした伽藍配置が確認され、金堂の建立は7世紀末とされています。
 (大形多尊塼仏の須弥壇部分に「甲午年□□中」(694年)の表記があることから)
 説明文の写真は発掘当時のもののようです。

 金堂の礎石配置から、桁行3間、梁行2間で内側の身舎(モヤ)と呼ばれる部分と外側の廂(ヒサシ)と
呼ばれる部分も同じ柱間数です。これは奈良県飛鳥山田寺の金堂跡などがあるが珍しいものらしいです。下の写真の青と赤のラインです。写真の上が南側でそちらが正面になります。

 壬申の乱の時に吉野からの移動の時に名張が出てきますが、藤原京ー伊勢神宮が持統天皇の時代に関連していて、そのときにその間にある夏見廃寺があったことから、この地域の強い結びつきを感じます。見学した時は私だけでしたが、伊勢と藤原京をつなぐ重要なルートでもっと注目されて良いところだと思います。

 追記(H27.2.26)
 
 
 
 
  多分、理解不足のところがあります。せん仏が御所市の二光寺廃寺のものと似ているものがあり、時代的に共通するものがあるとのことですが、あちこちに似たようなところがあるのかもしれません。この投稿を削除すべきかもしれませんが、このままにしておきます。


2015年2月20日金曜日

住吉大社2

 高槻市立しろあと歴史館の企画展「郷土玩具と出会う場所 ~神社・お寺・名所おみやげ市~」を見に行ったら摂津名所図会などが展示されていました。神社などの名所図会の中に住吉大社もありました。写真を撮らしてもらいましたが、図の左上の神宮寺は明治の廃仏毀釈運動でなくなっています。右中が住吉大社です。第1宮と第2宮は塀のようなもので囲まれています。今はありません。明治のその時に大社の塀が取り除かれたのかもしれません。その古い時代のものがそのまま残っているとは限らないということです。図は寛政10年・1798年となっています。


最近、名所図会をゆっくり見てませんでした。
  

2015年2月19日木曜日

天皇の系図について

 宮内庁のホームページの天皇系図を見ていてエクセルでグラフにしてみました。
横軸が神武天皇からの在位の順番に対し、縦軸は神武天皇から何世代目かを示したものです。
神武天皇は1の1です。第99代の後亀山天皇は52世代なので、横99の縦52です。
兄弟は同じ世代とカウントしています。
 系図では気がつかなっかたのですが、グラフを見ると
段階Ⅰ、段階Ⅱ、段階Ⅲとパターンが違うように思えます。
段階Ⅰ・・・日本書紀で考えている理想の状態で、親から子へ皇位が継承されるパターンで、
      直線的に変化しています。
段階Ⅱ・・・階段状になっています。皇位が兄弟に継承され、その後次世代に継承されています。
      天智天皇から天武天皇への継承の伏線となっていると思います。
段階Ⅲ・・・継承が乱れている段階です。
      推古天応→一世代飛ばし→舒明天皇とか持統天皇→一世代飛ばし→文武天皇など
      持統天皇からの皇位継承を過去にもあったという実績作りのように思えます。
   

追記(H27.2.21)
天智天皇->天武天皇と思い込んでいましたが、
系図では、天智天皇->弘文天皇->天武天皇となっています。ウィキペディアで見たら、弘文天皇は明治になってから諡号を贈られたそうです。
日本書紀では天智天皇->天武天皇を主張したがっています。そのために段階Ⅱがあるということだと思います。

2015年2月14日土曜日

日本書紀の考え方

 前の投稿で言ってますが、国の理念的なことを聖徳太子を通して記しています。
後、考えることとして、天皇の系統性を強調しています。
それが日本書紀作成の時代の理想とする考え方だと思います。
 これは実際には、当時においては天皇の継続性はなかったからではと想像させます。私のイメージとしては戦国時代の政略結婚のように天智天皇の娘が天武天皇に嫁に行ったということではと想像します。安田仮説では西日本が統一されたとしていますが、西日本の地域が連合していく段階であったのではということです。おそらく東アジアの不安定な中で外圧的に日本の中がまとまらなくてはいけない状況に追い込まれ、その連合政権の中での主導権争いのようなものが壬申の乱とかいろいろな粛清のような事件があったということが考えられます。単なる想像ですが、成立するのかどうか考えていきたいと思います。

2015年2月12日木曜日

聖徳太子の考え方

 聖徳太子は作られた人だということですが、理由についてはわかっていませんでした。
ただ単純に推古天皇の時代に「和を以て貴しと為す」というのに違和感を持っただけでした。
しかし奈良時代の政治的な抗争などを見ると、日本書紀の書かれた時代に、対立だけの歴史書では情けないと当時の人は感じて、国家の理念を含まない歴史書では価値がないと考えたのではと想像します。そのために推古天皇と聖徳太子を作り上げたということです。当時においても遣隋使が男王であったことは多分認識していたとは思いますが、理念が大事で些末なことは気にしなかったのでしょう。天皇の系図でも推古天皇のあたりから、皇位継承が横広がりになっていて操作されている雰囲気があります(個人的主観です)。
 強い意志を持って国家としての理念を盛り込んだもので、単なる辻褄合わせでは無いですが、日本書紀を単なる歴史書として見てはいけないのだということでしよう。至極当然な考え方だと一人納得しています。