法隆寺に行ってきました。飛鳥様式の建築ということで、説明を聞いて、金堂・五重塔の雲斗雲肘木は今回はわかりました。個人的には、聖徳太子との関係で注目される金堂釈迦三尊像、金堂薬師仏を拝観しましたが、複数の「古代」で述べられている両方の仏の違いはわかりませんでした。光背の裏に銘文があるそうで、金堂の裏に回って見ようとしましたが、全然わかりません。素人では難しいと思いました。本に示されている資料を見ないと無理のようです。飛鳥様式ということで近くの法起寺というところに法隆寺の五重塔を模した三重塔があるそうです。行けば良かったです。法起寺が古来岡本寺と呼ばれていたとのことで、名字の岡本に関係するかと思いました。ネットで検索すると大山誠一氏の「法起寺塔露盤」の成立についてというレポートが出てきました。聖徳太子は実在しないという論文の一環のものです。少なくとも平安時代前期までは岡本寺とは呼ばれてはいないとのことでした。岡本宮は飛鳥にあり、斑鳩には無かったと述べられています。そのレポートの中で山本宮=岡本宮と考えれています。山=岡ということです。
確かに大和三山の香具山 比高62m、畝傍山 比高127m、耳成山 比高66mです(大和三山の古代、上野誠著より)。山ですが、丘(岡)といっても良いようなものです。岡本と山本は同じ意味の名前でと考えられるようです。山本は7世紀末とされる木簡にあったそうですが、山本という名前はもっと古い時代にあったと思います。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2014年10月23日木曜日
2014年10月14日火曜日
古事記と日本書紀の考え方
前の投稿からの続きです。
古事記が推古天皇までで終わり、日本書紀は持統天応までで終わるとのことです。
日本書紀の推古天皇からフィクションとして考え、推古天皇からを削除すれば、素人考えですが同じ内容になるのではと思いました。もちろん推古天皇=持統天皇です。オリジナルの古事記に対し、持統朝の正統性を日本書紀で入れ込んだため、古事記の最後が推古天皇までさかのぼってしまったように見えるのではないでしょうか。
古事記が推古天皇までで終わり、日本書紀は持統天応までで終わるとのことです。
日本書紀の推古天皇からフィクションとして考え、推古天皇からを削除すれば、素人考えですが同じ内容になるのではと思いました。もちろん推古天皇=持統天皇です。オリジナルの古事記に対し、持統朝の正統性を日本書紀で入れ込んだため、古事記の最後が推古天皇までさかのぼってしまったように見えるのではないでしょうか。
2014年10月13日月曜日
【複数の「古代」】という本
上記、神野志隆光(コウノシタカミツ)著を図書館で借りてきました。20007年10月20日第1刷発行となっています。
非常に参考になりました。
私の勘違いかもしれませんが、以下メモです。
メモ
1.日本書記は持統朝から見た歴史である。
2.推古朝の歴史はフィクションである。もちろん全てがでたらめというわけではない。
---途中省略---
3.日本書記では聖徳太子の文字は見えない。皇太子はある。
4.万葉集はもう一つの歴史である。
もっと早く知ってれば良かったと思います。安田仮説は、かなり遅れていました。
なぜ万葉集があるのかということについて
この本では、古事記での「言向け」がキーワードであると述べられています。「言」(服属を誓うことば)をこちらに向かせるの意味だそうです。倭建命の話で・・・
荒(あら)ぶる神とまつろはぬ人等(ひとども)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平(たいら)げよ。とあるそうです。
日本の統一に向かって、軍事的に制圧するとともに言語による支配が必要であるとのことだと思います。日本語らしきものがまだ確立していない中では、当時は言葉が重要視されていた。万葉集の編者が大伴家持で、大伴氏は大いなる伴、すなわち天皇の側近ナンバーワンの家柄であり、軍事と言葉の世界のとりまとめをしていたのではと思います。日本書紀は天皇・藤原氏の歴史書であるのに対し、万葉集は大伴氏の歴史書であるような気がしてきました。
非常に参考になりました。
私の勘違いかもしれませんが、以下メモです。
メモ
1.日本書記は持統朝から見た歴史である。
2.推古朝の歴史はフィクションである。もちろん全てがでたらめというわけではない。
---途中省略---
3.日本書記では聖徳太子の文字は見えない。皇太子はある。
4.万葉集はもう一つの歴史である。
もっと早く知ってれば良かったと思います。安田仮説は、かなり遅れていました。
なぜ万葉集があるのかということについて
この本では、古事記での「言向け」がキーワードであると述べられています。「言」(服属を誓うことば)をこちらに向かせるの意味だそうです。倭建命の話で・・・
荒(あら)ぶる神とまつろはぬ人等(ひとども)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平(たいら)げよ。とあるそうです。
日本の統一に向かって、軍事的に制圧するとともに言語による支配が必要であるとのことだと思います。日本語らしきものがまだ確立していない中では、当時は言葉が重要視されていた。万葉集の編者が大伴家持で、大伴氏は大いなる伴、すなわち天皇の側近ナンバーワンの家柄であり、軍事と言葉の世界のとりまとめをしていたのではと思います。日本書紀は天皇・藤原氏の歴史書であるのに対し、万葉集は大伴氏の歴史書であるような気がしてきました。
2014年10月6日月曜日
五体字類
古い文字を読めるようになりたいと言ってたら、Iさんから五體字類を勧められました。
グーグルブックスで、最初の版が五体字類としてダウンロードできるのでタブレットとかで使用することができます。著作権が切れて、無料なのがうれしいです。しかし、ページ番号が逆さまで目的の漢字にたどりつけないようで使いにくそうです。改訂版は古本とかで安く1000円ほどで入手できそうですし、改訂3版を図書館で借りてきましたが、やはり見やすくなっています。最新の改訂4版は、貸し出し中で見ることが出来ませんでした。後ほど改善されているようですが、様子うかがいでしばらくフリーのもので頑張ってみようと思います。とにかく、スマホとかタブレットで五体字類が読めるとは思いませんでした。
暇なときに眺めていれば、なじんできて古文書が少しは読めるようになるかもしれません。
グーグルブックスで、最初の版が五体字類としてダウンロードできるのでタブレットとかで使用することができます。著作権が切れて、無料なのがうれしいです。しかし、ページ番号が逆さまで目的の漢字にたどりつけないようで使いにくそうです。改訂版は古本とかで安く1000円ほどで入手できそうですし、改訂3版を図書館で借りてきましたが、やはり見やすくなっています。最新の改訂4版は、貸し出し中で見ることが出来ませんでした。後ほど改善されているようですが、様子うかがいでしばらくフリーのもので頑張ってみようと思います。とにかく、スマホとかタブレットで五体字類が読めるとは思いませんでした。
暇なときに眺めていれば、なじんできて古文書が少しは読めるようになるかもしれません。
2014年10月2日木曜日
兵主大社
前の投稿に関連してアップします。
元の住所は野洲郡中主町大字五条とのことです。中主とは旧村名「中里」「兵主」から採った合成地名だそうです。今は野洲市五条となっています。五条という地名から条里制を思い出します。地図を見て、近くに井口というところを見つけました。井とは単純ですが縦横の2本線から条里制を表す漢字です。つまり井口は条里制の田んぼの入り口を表しています。神社が条里制の田んぼの周囲に配置されること(マイ仮説?)を考えると、兵主大社もこの頃からあった可能性大です。たまたま図書館から借りてきている「空から見た古代遺跡と条理」という本のP.68-69に西河原森ノ内遺跡が載っています。兵主大社の南側に位置し、航空写真がありますが、残念ながら兵主大社はぎりぎりはずれています。この本では7世紀中葉から10世紀前葉の重層し重複する官衙状の建物群がこの地にあると書いてあります。
このページの下に参考として
辻広志(1992)「西河原森ノ内遺跡第13次発掘調査」「平成3年度中主町埋蔵文化財発掘調査集報Ⅰ」とあります。
兵主大社庭園について
図書館に行き、日本庭園史大系の兵主大社庭園のところを見てきました。鎌倉時代の庭園と考えられています。昭和46年3月の実測図では南側から北を見る方向については間違いのないようには思いました。ただ真北ではなく、北西の方向に感じました。
この本の解説では、五条・六条の地名は、「近江国輿地志略」の中から五条・六条家の領地なる故となっていると引用しています。五条から条里制と思いましたが、歴史とともに変化していってるので単純にはいかないようです。井口も井ノ口となってました。井口から条里制に結びつくとは思いますが、五条・六条からは結びつかないことになります。しかし、しばらく条里制として考えてみます。
元の住所は野洲郡中主町大字五条とのことです。中主とは旧村名「中里」「兵主」から採った合成地名だそうです。今は野洲市五条となっています。五条という地名から条里制を思い出します。地図を見て、近くに井口というところを見つけました。井とは単純ですが縦横の2本線から条里制を表す漢字です。つまり井口は条里制の田んぼの入り口を表しています。神社が条里制の田んぼの周囲に配置されること(マイ仮説?)を考えると、兵主大社もこの頃からあった可能性大です。たまたま図書館から借りてきている「空から見た古代遺跡と条理」という本のP.68-69に西河原森ノ内遺跡が載っています。兵主大社の南側に位置し、航空写真がありますが、残念ながら兵主大社はぎりぎりはずれています。この本では7世紀中葉から10世紀前葉の重層し重複する官衙状の建物群がこの地にあると書いてあります。
このページの下に参考として
辻広志(1992)「西河原森ノ内遺跡第13次発掘調査」「平成3年度中主町埋蔵文化財発掘調査集報Ⅰ」とあります。
兵主大社庭園について
図書館に行き、日本庭園史大系の兵主大社庭園のところを見てきました。鎌倉時代の庭園と考えられています。昭和46年3月の実測図では南側から北を見る方向については間違いのないようには思いました。ただ真北ではなく、北西の方向に感じました。
この本の解説では、五条・六条の地名は、「近江国輿地志略」の中から五条・六条家の領地なる故となっていると引用しています。五条から条里制と思いましたが、歴史とともに変化していってるので単純にはいかないようです。井口も井ノ口となってました。井口から条里制に結びつくとは思いますが、五条・六条からは結びつかないことになります。しかし、しばらく条里制として考えてみます。
2014年9月30日火曜日
愛荘町に行ってきました。
滋賀県、湖東三山の一つ、金剛輪寺があるところです。紅葉で有名です。まだ早かったのですが、緑の紅葉もいいものです。国宝の本堂は入母屋檜皮葺で、屋根は何か洗練された雰囲気を示しています。内部の須弥壇に弘安11年(1288)の銘がありますが、そこまではさかのぼらず南北朝の建立と考えられているそうです。蒙古襲来のおり、戦勝祈願をし、その感謝として建てられたと言っておられました。この寺の開祖は行基で、天平十三年(741)のこととされ、当時すでにこの地域は開発されていたことを示しています。
その後、愛荘町立歴史文化博物館によりました。もらったパンフレットによれば、渡来系集団、依智秦氏(えちはたうじ)が、この湖東の愛知郡に分布したそうです。琵琶湖に近い側には条里制が地名で残っており、宇曽川右岸には県下最大級の6世紀半ばから7世紀にかけての群集墳、金剛寺野古墳群があるそうです。博物館の人の話では桂川を伝って太秦の方に、別に淀川の方から移ってきたのが依智秦氏ということでしたが、私は日本海側から近江高島を経由して移ってきた可能性もあると思います。野洲市にある兵主神社庭園の基準軸方向が北で、渡来系で祖先の方向に向かって礼拝すると聞いたことがあります。似たような 阿自岐(あじき)神社庭園がこの近くにあります。移動経路が、日本海側→近江高島市→野洲市→愛荘町(旧愛知川町)となるのではと思います。愛知つながりで、さらに移住して愛知県に進出していったというのが私の説です。
その見学の後、偶然に畑田廃寺遺跡に行きました。説明板を以下に記します。・・・・畑田は古い瓦が見つかるところで有名です。・・昭和53年に発掘調査が行われ、白鳳時代に創建し平安時代まで繁栄した寺院の跡を確認しました。南北約18mの金堂跡、東西24m以上の細殿(掘立柱建物)、銅製品を作っていた鋳造工場跡、寺域を示す大きな溝跡などが確認されました。また、出土した遺物のなかには緑釉陶器や白磁なども見られます。また「僧寺」と墨で書かれた須恵器や「秦」と記された習書木簡が出土しました。畑田廃寺遺跡は、古代に愛知郡で大きな勢力をもっていた豪族「依智秦氏」の氏寺と考えられています。・・・・畑は秦から発音の関係で変化したものです。畑田の発音はハタケダとなっていて、ハタケと田んぼの意味にとられますが、秦さんの田んぼの意味だと思います。以前に畑と八田の発音でハタとハッタで相関あると言ってましたが、おなじようなことが考えられるかもしれません。この地域に肥田という地名がありました。肥沃な田んぼの意味にとられますが、私は畑→火+田→ヒダ→肥田ではないかと想像します。秦氏の中で連帯感があって、名字の変化になったのだと思います。
畑田廃寺遺跡で展示されていた礎石、2個の内1個。
同行の人の話では焼けたときに柱のところが残り、
円形の形状として残るらしいです。
(追記)H2610.01。不正確な記述でした。兵主神社庭園は兵主大社庭園で、ネットで見たところ、鎌倉時代から平安時代の庭園ということでした。思い過ごしでした。訪れたとき、12月くらいで神職の方が琵琶湖の水に入る神事でおられないということがあり、古い時代の記録をとどめるためにこの神事が行われ、近江高島市→野洲市のように思ってしまいましたが、ウィキペディアで見れば、穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)から欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え・・とあり、琵琶湖の湖岸沿いを伝ってやってきたようです。八ケ崎神事というようです。近江高島市からダイレクトに野洲市にやってきたとは断定できません。妄想的な話でした。
2014年9月20日土曜日
山梨県
東日本の名字に小林が多いことで、林の移動により子孫の意味で[小]の字が付いたといっていました。
名字:林と小林
つまり奈良・平安時代に西から移住した人によってその地域が形成されていったということです。頼朝の挙兵に呼応して甲斐源氏が、富士川の合戦に参加したそうです。その中に、安田義定という人が活躍したことを知りました。安田という名字の出所ですが林と同じく移住によるものかもしれませんが、条里制の田んぼから発生したものかもしれません。甲府市の城下町にも条里制の痕跡が残っているといっている人もおられるようです(その文献は未確認)。また武田勝頼を滅ぼしたのが小山田氏で、山田の子孫が小山だということが、小山田は田が省略されずに残っていて明白です。山田は岐阜県に多い名前で、小山は長野県に多く、岐阜県から長野県を通って山梨県へ移動したと感じます。西からの移住する人によって山梨県が発展してきたのだと思います。
名字:小山のもとの名字
甲斐の意味もいろんな説がありますが、境界の界から出てきたように思います。都から見てテリトリーの限界の地域、奈良時代はフロンティアの地であったと思います。鎌倉時代になり、落ち着いてきた段階で夢窓国師などが移住して禅宗などの布教に取り組んでいったのだろうと思います。今回、関西から山梨県に行くときは静岡県から入りましたが、昔は長野県から入っていったのであろうと思います。岐阜県と山梨県は長野県を通して強いつながりがあったのではと想像されます。
意味があるのかわかりませんが、山梨県の方言で〈そうですか〉というのを〈ほうけ〉というらしいのですが、何か奈良・平安時代の痕跡を感じました。
「山梨県の歴史散歩」山川出版社の安田関連のメモ書き
放光寺(法光寺)・・安田氏菩提寺
安田氏五輪塔・・・雲光寺の入り口左側
安田義定廟所・・・普門寺付近
名字:林と小林
つまり奈良・平安時代に西から移住した人によってその地域が形成されていったということです。頼朝の挙兵に呼応して甲斐源氏が、富士川の合戦に参加したそうです。その中に、安田義定という人が活躍したことを知りました。安田という名字の出所ですが林と同じく移住によるものかもしれませんが、条里制の田んぼから発生したものかもしれません。甲府市の城下町にも条里制の痕跡が残っているといっている人もおられるようです(その文献は未確認)。また武田勝頼を滅ぼしたのが小山田氏で、山田の子孫が小山だということが、小山田は田が省略されずに残っていて明白です。山田は岐阜県に多い名前で、小山は長野県に多く、岐阜県から長野県を通って山梨県へ移動したと感じます。西からの移住する人によって山梨県が発展してきたのだと思います。
名字:小山のもとの名字
甲斐の意味もいろんな説がありますが、境界の界から出てきたように思います。都から見てテリトリーの限界の地域、奈良時代はフロンティアの地であったと思います。鎌倉時代になり、落ち着いてきた段階で夢窓国師などが移住して禅宗などの布教に取り組んでいったのだろうと思います。今回、関西から山梨県に行くときは静岡県から入りましたが、昔は長野県から入っていったのであろうと思います。岐阜県と山梨県は長野県を通して強いつながりがあったのではと想像されます。
意味があるのかわかりませんが、山梨県の方言で〈そうですか〉というのを〈ほうけ〉というらしいのですが、何か奈良・平安時代の痕跡を感じました。
「山梨県の歴史散歩」山川出版社の安田関連のメモ書き
放光寺(法光寺)・・安田氏菩提寺
安田氏五輪塔・・・雲光寺の入り口左側
安田義定廟所・・・普門寺付近
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