2021年7月27日火曜日

倭国と呉音

 漢字には訓読み・音読みがあります。「犬」とあれば、この字を「いぬ」と読んで違和感は全然ありません。音訓の区別がわかりにくいですが、たとえば「dog」とかの単語で考えるとわかりやすいです。これを「ドッグ」と読むのが音読みで、「いぬ」と読むのが訓読みになります。漢字ではすごいことをやってると思います。 音読みですが、一種類ではありません。呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音します。ウィキペディアの音読みの項では

漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。

とあります。漢音は遣隋使や遣唐使によって伝えらているので、呉音は倭国の時代に伝えられたとと考えられます。 この呉音の「呉」は中国の六朝(りくちょう)時代、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳のひとつです。

呉(ご、拼音: Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。

日本と呉国との関係ですが、日本の地名に中国南部の古名が残っています。以下の本にあります。 『五感で読む漢字(文春新書)』、張/莉、文藝春秋、2012/3/16、146ページ

殷末に周国の世子相続からはずれた太伯が江南の地に出奔し、呉を建国したという。中国の梁(五〇二~五五七)王朝の歴史を記した暦書『梁書』の「東夷伝」に、倭人が「自謂太伯之後謂(自ら太伯の後と謂う」とあり、当時の倭人が呉の太伯の末裔だとする伝承があった。備前国(岡山県)の邑久(おく)は古くは太伯と表記され、「おおく」「おおはく」「おおあく」と呼ばれていたが、『続日本紀』によると奈良時代には邑久郡と記されたようになったという。
 また広島の呉市、高知県の高岡郡中土佐町久礼(くれ)、大分県の豊後高田市呉先(くれさき)・宇佐市呉橋(くれはし)など、「呉」・「くれ」のつく地名が残っている。古代に戦争で敗れた呉の民が、朝鮮半島を経て、あるいは直接に日本の地に渡ってきた証かもしれない。
 呉という地名は、中国の呉の方角が日暮れの方向にあるから「くれ」というのだと、呉市在住の人から聞いたことがある。呉からの移民がかって住んでいた呉を懐かしんで、そのような名称をつけたとは信じがたいが、それにしても越や呉・くれの名のつく地名が多いのには、何らかの理由があると感じざるをえない。
北陸地方の越前・越中・越後にまたがる越(こし)といわれる地域があり、中国の越国が楚国に敗れて流浪した民が建国した国と解釈する考え方もあるが、古文献にはそのような記述がない。・・・以下略

越国は、前306年ごろ楚に滅ぼされるとのことで、そちらは置いといて、呉の方です。私は「倭国=吉備説」を考えているので、注目します。呉国からの難民を倭国が受け入れるには倭国の周辺地域に住むことになります。データが少ないですが、「くれ」の残っている地域は吉備の周辺地域にあるように思えます。その地域に住んだ一つ人たちは、出自を示すために、地名に「くれ」を残したように思えます。倭国と呉国に交易関係があり、呉音が日本に伝わり、それが、呉国が滅んだ後の遣隋使の派遣につながったと妄想されます。呉国との強い交流があったからこそ呉音が残っていると思います。『日本書紀』では、倭国と日本が違うとはいえないので、倭国と呉国のつながりを述べることはできず、隠しているような感じになってます。

2021年7月23日金曜日

中国語のSOV

 以前にはSVOとかSOVとか考えていました。 アジアの言語の起源 

中国語は英語に似ているとのことで、SVOの形で考えました。部分的には似てるかもしれませんがそうだろうかと思います。

『つながる中国語文法、一週間で基本をざっくりマスター』、林松濤、ディスカヴァー トゥエンティワン、2012年01月、90ページのあたり、メモ書きします。

「象は、鼻が長い」は中国語で「大象鼻子很长」となります。
象→大象、鼻→鼻子、長い→很长です(多分)。中国語では主語部分が「大象」で、述語部分が「鼻子很长」でさらにこの述語部分が主語の「鼻子」と述語の「很长」になります。
日本語では(象)は(鼻が長い)にわかれ、後半部分がその中で主語の(鼻が)と述部の(長い)に分割されます。似ているというか、もしかして中国語がそのまま日本語になった可能性も考えられます。この文では動詞がありません。英語ではbe動詞か何か入ると思われます。中国語ではいろんな文型があり、一部がSVOのようです。 英語の基本5文型は、SV、SVC、SVO、SVOO、SVOCです。すべてSVが入ってます。中国語ではSVがそほど重要と思われず、英語的な発想ではだめのような気がします。この本では英語にとらわれないようにというアドバイスがありました。中国語は英語に似ているという話はどこから出てきてるのだろうかと思います。
アジアの言語のSVOとかSOVのマップはまったく無駄だったのではなく、古代の音声主体の言語から、中国統一王朝の成立によって、文字主体の言語に変わっていった特異な言語と考えれば意味があると思います。

英語とかは語形の変化によって文法上の関係を示す言語で<屈折語>といい、フランス語やドイツ語など、インド・ヨーロッパ語が同じ仲間です。日本語は助詞や助動詞など語幹のうしろに膠でくっつけるようにして文法上の関係を示します。<膠着語>といい、朝鮮語やモンゴル語が同じ仲間です、・・・中国語は語形の変化もせず、助詞助動詞のようなものもありまありません。文中の語はお互いに影響しあうことなく独り立ちしているのです。このような言語を<孤立語>と呼んでいます。チベット語・タイ語などが同じ仲間です。 『中国語の歴史』大島正二、大修館書店、2011年7月

音声主体の言語のときは膠着語であったのが、文字の創出により、面倒な部分ははしょって孤立語に変化したのではと妄想します。

2021年7月20日火曜日

遊戯の歴史

 『遊戯Ⅱ』日本小史と最新の研究 (ものと人間の文化史)、増川 宏一、法政大学出版局、2021/05/06

古代のところのメモ書きです。「棊博(きはく)、握槊(あくさく)、樗蒲(ちょぼ)の戯を好む」とありましたが、 ネットで探すと『隋書俀国伝』からのようです。

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
正月一日に至る毎に、必ず射戯、飲酒す。その余の節はおおむね華と同じ。棊博、握槊、樗蒲の戯を好む。気候は温暖にして、草木は冬に青し。土地は膏腴にして、水多く、陸少なし。小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入って魚を捕らせる。一日に(魚)百余匹を得る。」

ゲームを楽しんでいた様子がうかがえます。『遊戯Ⅱ』では、岩波書店発行の『日本書紀』の注などをもとに天武天皇の時代のことが記されています。

要するに天武一四年には天皇が主催した双六(雙六の字になっている)大会が催され、賞品なのか博戯の後で延臣ら一〇人に衣服を賜ったと書かれている。ところが、四年後の持統三年一二月八日に『日本書紀』は「雙六を禁め断む」ときされ記されている。天武と持統では明らかに雙六に対する見解が異なっている。

この後に、『続日本紀』天平勝宝六年(七五四)に雙六の蔓延で厳罰で処す記事があり、問題となっていたようです。つまり『日本書紀』では天武天皇の時代を少しマイナス評価にし、持統天皇の時代をプラス評価にしているのではと思います。あまり当てにならない記述の感じがします。

この本では、

二〇一五年に奈良文化財研究所はユンノリが日本列島で遊ばれていたと発表し、各方面に大きな衝撃を与えた。

とあります。関連するのが以下。
すごろく工器がみつかった! 

天武天皇の時代の遊びは将棋のようなものを期待しましたが違うようです。

2021年7月15日木曜日

箜篌(くご)

 にっぽんの芸能(2021年7月9日放送、NHK)の レア楽器大集合!~古(いにしえ)の響き未来へ~ で、千年以上の時を経て現代に甦った楽器「箜篌(くご)」が紹介されていました。番組では、現存する日本最古の漫画である「鳥獣戯画」の映像にあわせて、東野珠実作品 雅楽絵巻『鳥獣戯楽』が演奏されていました。絵巻もこれまでただ見ていただけで、音の世界は欠落していました。当時の人はどんな音世界にいたのだろうとは思います。 
 
さて、この箜篌(くご)ですが、正倉院展で見たはずなので、図録*で探してみると、第六十八回正倉院展の12-2南倉、「漆槽箜篌 模造」がありました。
*第六十九回「正倉院展」目録 [平成二十九年]、奈良国立博物館、平成二十九年十月

箜篌は、竪箜篌(たてくご)、臥(が)箜篌、鳳首(ほうしゅ)箜篌の三種に大別される弦楽器。宝庫に伝わる二張の箜篌の残欠はいずれも竪箜篌であるが、これは西方に起源を有する角形ハープの一種で、同形のハープの奏者が古バビロニア時代(前二十世紀~十六世紀)とされるテラコッタに表されている。竪箜篌は中国に伝来し、百済を経由して日本にもたらされたため、「百済琴」とも称するという。・・・

番組では、敦煌、莫高窟で七世紀頃に描かれた壁画に箜篌を演奏するのがあって、それから復元したとのことでした。調律も大変とのことで、それが原因ですたれてしまったらしいです。元々が西域から伝来した楽器を誰が演奏したのだろうと思います。楽器だけが日本にやってきたのではなく、楽器を熟知した人に付随してやってきたと考えるのが自然です。
思いつきですが、乾豆波斯達阿が妻を日本に残しています。このとき、ペルシアの人が複数、日本に来ているはずです。箜篌を演奏できる人がこの中にいたかもしれません。 以下に書いてます。

乾豆波斯達阿? 

追記:箜篌の調律が大変というのは、弦楽器一般のことでなく、それぞれの弦が独立しておれば容易であるのに対して、箜篌の弦を固定する部分は一体の部品なので、一本の弦の調整が、他の弦に影響するため大変ということです。

2021年7月14日水曜日

ピラミッドと測量技術

 『よくわかる測量』海津優、ユーキャン学び出版、2021年4月30日発行 という本に「ピラミッドを作るには測量技術が不可欠だった」とあります。(38-40ページ)

古代エジプトでは、毎年起こるナイル川の氾濫によって、上流からはこばれてき運ばれてきた肥えた土が周囲の畑に恵みをもたらし、作物がよく実ったといわれています。その一方で洪水があると、地面が上流から流れてきた新たなt土で覆われてしまいますから、誰がどこを耕していたのか境界がわからなくなってしまいます。そこで、洪水の後でもだれがどこで何を栽培すればよいのか、税はどれだけ納めればよいのかを調べるために土地の境界を測りなおすことが必要でした。

古代エジプトには「縄張り師」という測量を専門にする人たちがいて、円や直角三角形などを地上に描くことができて、洪水以後に境界を測量しなおす仕事をしていたそうです。

広い範囲を測量するには、共通の向きの基準が必要です。どこにいても見える夜空の星や太陽なども利用していました。

農業に大切な太陽の動きを知ることや、川の氾濫前に収穫を終えるために暦を作ることなど、季節の移り変わりをきちんと記録して、どのように繰り返してるかを知って予測することは、世界中どこでも統治者の大切な仕事でした。・・・

「ピラミッドには高度な測量技術が満載!」と続きます。

  • 底辺が東西にきちんと向くために必要な技術
  • 積んだ石が崩れないように水平につくるために必要な技術
  • 側面が 遠くから見て平面になるために必要な技術
  • 上から見て、正方形につくるために必要な技術

などあるようです。

古代中国のことも書いてあります。文明の成立には測量技術が必要であったとして、地図が紹介されています。46-47ページ

紀元前二世紀の漢時代の墓「馬王堆漢墓(ばおうたいかんぼ)」(湖南省)で見つかった地図の一つは、十八万分の一の縮尺で描かれています。地図を描くとき、手がかりになる「方格」(一定の距離の格子)を描いてから地図を示す「方格図」という手法が用いられたのだろうと言われています。こうした測量方法や地図の作り方は、このころには体系づけられていました。当時の数学書『周髀算経(しゅうひさんけい)』や『九章算術(きゅうしょうさんじゅつ)』には測量の問題も多く載っています。

コラムには、蓋天説(がいてんせつ)で求められた、正確な緯度ということで計算された落陽の緯度が34.7度で実際と合ってるとあります。

測量の技術や実践、計算法などでは当時の世界最先端にいたことがうかがえます。

とあります。これらの知識が日本に伝わってきたことが考えられます。確信的なものではないですが、ピラミッドと測量技術の関係から考えれば、前方後円墳とかの墳墓に中国からの測量技術とかでの影響が合ったかもしれません。一応、メモ書きです。