説明版によれば、長岳寺の飛地境内に立つ、方一間の小さい建物で、中央には太い欅の丸柱があり、四方に梵字の額を掲げている。中央の心柱は大日如来を示し、額を含めて五仏を現している。南に宝生如来(タラーク)、北に不空成就如来(アク)、東に阿閦《アシュク》如来(ウーン)、西に無量寿如来?を表している。とあります。金剛五仏であれば、西は阿弥陀如来(キリーク)になります。無量寿如来は(アン)?
アクは「ア」+「点々のク」ですぐわかります。
タラークは「タ」+「ラ」+「-(伸ばす)」+「ク」です。
キリークは「カ(実際はK)」+「ラ(Rの発音)」+「イー」+「ク」でしょう。
ウーンは、「カ」と「ウ」で「ク」となり、「クーン」で「K」の音がとれて「ウーン」となったのかと思います。ドイツ語で本のブックがブッフのようになってるのと同じかなと想像します。
自己流なので、どこまであってるのかは不明です。
追記:H30.12.05
梵字独習書改訂版、大辻徳成著、鴻盟社発行の16ページに
五佛・五如来・五菩薩・五智・五大尊のところ、西方の「キリク」の佛尊で
無量寿如来、弥陀如来、観音菩薩、妙観察智、大威徳明王とありました。したがって無量寿如来もおかしくはないのかもしれません。
ついでにメモっておきますが、
北方の「アク」は、大通智性佛、釈迦如来、雲雷菩薩、成所作智、金剛夜叉明王。
東方の「ウン」は、阿閦佛、薬師如来、普賢菩薩、大円鏡智、隆三世明王。
南方の「タラク」は、宝幢佛、宝生如来、虚空蔵菩薩、平等性智、軍荼利夜叉明王。
中央は「バン」で、毘盧遮那佛、大日如来、金剛菩薩、法界躰性智、不動明王。
このようにあります。打ち間違いがあるかもしれません。
五智といっても単純ではないのだと思いました。
追記:H31.0.03
初詣に出かけたときに、阿弥陀堂の説明版がありました。
本尊の阿弥陀《あみだ》如来は、その寿命が無限であることから無量寿《むりょうじゅ》如来ともいい、またその光明が無限に十方世界を照らすことから無量光《むりょうこう》如来とも称され、西方極楽浄土の教主とされます。・・・と書いてありました。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2018年11月27日火曜日
2018年11月19日月曜日
正倉院古文書、戸籍
今年は、正倉院展で豊前国の戸籍が出展されていましたが、詳しくは見れてませんでした。古文書を見るときの基礎知識がないので仕方の無いところがあると思っていました。たまたまですが、「正倉院文書の世界、丸山裕美子著、中公新書」を見つけました。この本では、カラーの口絵に大宝2年の筑前国の戸籍が採りあげられています。この時代の戸籍としては美濃国以外に西海道諸国のものがまとまって残っているそうです。西海道は九州地方のことで、筑前・豊前・豊後国のものが残っていて、同じ書式で、大きな国の朱印が整然と押されていて、太宰府の指示により統一した書式で清書されたのだと考えられている。とのことです。
下記リンクの図は、文化遺産オンラインより
筑前国
豊前国
拡大してみれば、国印は豊前とか筑前とか違いますが似ています。
この本では、戸籍の名前・年齢などが書き出されていて(活字で)、ふりがなもあり、わかりやすく見ることができます。来年は正倉院展に出かける前に、この本を見ておくと文書類の展示も理解できると思いました。
筑前・筑後とかの前後のつく国名ですが、この名前になるためには、前もって統一された戸籍がすでにあり、それを元に分割したということなので、大宝律令以前の戸籍があったと思われます。備前・備中・備後や越前・越中・越後など、さらに前中後がつく国もありますが、古い時代から戸籍があったと思われるので、この地域が安田仮説の名字の関連する地域と重なってくるので無関係とはならないと思います。国名が前後だけでなく上下のつくところもあります。前後では都に近い方が前で、遠い方が後ということで、この本では下総・上総も昔は海路なので南が都に近く上となったとあります。そういうことのようですが、総前・総後になっても良さそうなので、何か条件が違うとは思いますがわかりません。
全体として戸籍が地域により違っているようなので、完全に中央集権国家ではなく、連合的な国であったようには感じます。道鏡の宇佐八幡宮事件も理解しにくいですが、地域の力が強かったのかもしれません。藤原純友の乱や平将門の乱など、中央からの視点では反乱ですが、締付けがきびしければ、そういうことが起こる状態だったかもしれません。鎌倉幕府も中央に対する反乱のようなところがあるので、奈良時代も確固としたものではなかった感じがします。図書館の返却期限があるので、この本をもう少し読みたいと思っています。
下記リンクの図は、文化遺産オンラインより
筑前国
豊前国
拡大してみれば、国印は豊前とか筑前とか違いますが似ています。
この本では、戸籍の名前・年齢などが書き出されていて(活字で)、ふりがなもあり、わかりやすく見ることができます。来年は正倉院展に出かける前に、この本を見ておくと文書類の展示も理解できると思いました。
筑前・筑後とかの前後のつく国名ですが、この名前になるためには、前もって統一された戸籍がすでにあり、それを元に分割したということなので、大宝律令以前の戸籍があったと思われます。備前・備中・備後や越前・越中・越後など、さらに前中後がつく国もありますが、古い時代から戸籍があったと思われるので、この地域が安田仮説の名字の関連する地域と重なってくるので無関係とはならないと思います。国名が前後だけでなく上下のつくところもあります。前後では都に近い方が前で、遠い方が後ということで、この本では下総・上総も昔は海路なので南が都に近く上となったとあります。そういうことのようですが、総前・総後になっても良さそうなので、何か条件が違うとは思いますがわかりません。
全体として戸籍が地域により違っているようなので、完全に中央集権国家ではなく、連合的な国であったようには感じます。道鏡の宇佐八幡宮事件も理解しにくいですが、地域の力が強かったのかもしれません。藤原純友の乱や平将門の乱など、中央からの視点では反乱ですが、締付けがきびしければ、そういうことが起こる状態だったかもしれません。鎌倉幕府も中央に対する反乱のようなところがあるので、奈良時代も確固としたものではなかった感じがします。図書館の返却期限があるので、この本をもう少し読みたいと思っています。
2018年11月16日金曜日
アジアの調理器具
NHKの趣味どき アジアごはん の番組を見ていたとき、
調味料を作るのに押しつぶすして混ぜ合わすような道具が出ていました。
第1回韓国、第2回インドネシア、第3回ベトナム、第4回トルコ、第5回タイ、第6回台湾、第7回イラン、第8回インドの放送でしたが、どの国か記憶が定かではありません。この道具が良く出てきました。インドは確実です。
ネットで見れば、タイ料理では クロックストーンミルセットのようなものです。
この中でのいくつかの国では、このような器具を使っていました。共通の食文化があったという気がしました。おそらく仏教などを通じて共通の食習慣になったのだと思われます。放送では南インドの料理でした。北インドの方はイランやアフガニスタンなどの中東の影響を受けて少し違うんだと思います。南インドは東南アジアの国と近く、文化圏が同じかもしれないと思いました。餅つきも臼を使いますが、何か関係あるかもしれません。上記の番組の本がありましたが、調理器具についてはタイのクロックが紹介されているだけで、調理のレシピとかが中心で、調理器具については詳しくは無かったです。世界中どこでもあるのかもしれませんが、この地域に限定されるものかもしれません。
追記:
調味料を作るのに押しつぶすして混ぜ合わすような道具が出ていました。
第1回韓国、第2回インドネシア、第3回ベトナム、第4回トルコ、第5回タイ、第6回台湾、第7回イラン、第8回インドの放送でしたが、どの国か記憶が定かではありません。この道具が良く出てきました。インドは確実です。
ネットで見れば、タイ料理では クロックストーンミルセットのようなものです。
この中でのいくつかの国では、このような器具を使っていました。共通の食文化があったという気がしました。おそらく仏教などを通じて共通の食習慣になったのだと思われます。放送では南インドの料理でした。北インドの方はイランやアフガニスタンなどの中東の影響を受けて少し違うんだと思います。南インドは東南アジアの国と近く、文化圏が同じかもしれないと思いました。餅つきも臼を使いますが、何か関係あるかもしれません。上記の番組の本がありましたが、調理器具についてはタイのクロックが紹介されているだけで、調理のレシピとかが中心で、調理器具については詳しくは無かったです。世界中どこでもあるのかもしれませんが、この地域に限定されるものかもしれません。
追記:
[絵引]民具の事典【普及版】、発行:河出書房
この本で、日本での似たようなものを探すと、
- うす・・・・餅つき、穀物の脱穀・精白・製粉
- こね鉢・・・そば・うどん・団子・饅頭などを作る。
- すりばち・・ごま・大豆・味噌などを擂ったり、とろろ汁や豆汁、魚のすり身など
- 乳鉢・・・・薬の原料や顔料を擂って細かな粒子にする小鉢状の器
などです。
日本では、このような調理器具は無いと思っていましたが、そうでは無いようです。すり鉢などは似ています。すじの有無の違いがあり、乳鉢が機能的には似ていますが小さい感じです。微妙な感じですが、どこにでもありそうな気はしないでもありません。まあ、思い込みかもしれませんが、直感的には、南インドと東南アジアとのつながりを感じました。
2018年11月14日水曜日
正倉院文書を調べる
正倉院展で、豊前国仲津郡丁里(よぼろり)戸籍が展示されていたのですが、よく見ておらず、メモってなかったので思い出せません。しかし、今回の戸籍を見ていて、多分、現在の名字につながるものは出てこないような気がしました。戸籍のイメージが違うようで、豊前国戸籍などが、庚午年籍 庚寅年籍を引き継いでいるとすれば、安田仮説は店じまいしないといけないように思います。しかし、今ある名字は奈良時代・平安時代の影響を受けているはずで、そのメカニズムも不明です。もう少し考えてみたいとは思います。
今回、宮内庁の正倉院宝物紹介の中に、戸籍がありましたが、混雑の中で初見で理解することは、残念ながらできそうにはありません。図録なども文字がはっきり見えません。いろいろネットを探すと
独立行政法人国立文化財機構文化財活用センターで、正倉院のものではなさそうですが、豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡がありました。
コピーなどは禁止とのことで、urlメモです。
かなり拡大できて文字も見ることができます(読むレベルにないのがかなしい)。
今まで知りませんでしたが、探してみるとデーターベースがいろいろあるようです。
正倉院文書を調べる
とかうまく活用できればということになります。
・正倉院展に出展される戸籍類の文書について
これらの多くが、正倉院文書の「正集(せいしゅう)」四十五巻のグループに属している。これは、江戸末期の天保年間に穂井田忠友(ほいたただとも)という国学者が、主に「写経所文書」を対象にして「整理」したものだ。・・・ということです。正倉院文書入門、栄原永遠男著に書いてあります。
写経所の文書とは、元々あった戸籍とかの文書の裏が白紙でその部分を再利用して写経書の文書ができているのを、切り貼りして戸籍などを巻物のように復原したものを「整理」というようです。従って戸籍は完全なものではありません。写経所で書かれた状態に戻すのと、その元に戻すのと二重の復原があるそうです。
今回、宮内庁の正倉院宝物紹介の中に、戸籍がありましたが、混雑の中で初見で理解することは、残念ながらできそうにはありません。図録なども文字がはっきり見えません。いろいろネットを探すと
独立行政法人国立文化財機構文化財活用センターで、正倉院のものではなさそうですが、豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡がありました。
コピーなどは禁止とのことで、urlメモです。
かなり拡大できて文字も見ることができます(読むレベルにないのがかなしい)。
今まで知りませんでしたが、探してみるとデーターベースがいろいろあるようです。
正倉院文書を調べる
とかうまく活用できればということになります。
・正倉院展に出展される戸籍類の文書について
これらの多くが、正倉院文書の「正集(せいしゅう)」四十五巻のグループに属している。これは、江戸末期の天保年間に穂井田忠友(ほいたただとも)という国学者が、主に「写経所文書」を対象にして「整理」したものだ。・・・ということです。正倉院文書入門、栄原永遠男著に書いてあります。
写経所の文書とは、元々あった戸籍とかの文書の裏が白紙でその部分を再利用して写経書の文書ができているのを、切り貼りして戸籍などを巻物のように復原したものを「整理」というようです。従って戸籍は完全なものではありません。写経所で書かれた状態に戻すのと、その元に戻すのと二重の復原があるそうです。
2018年11月12日月曜日
第70回正倉院展、山水図
先日出かけてきました。多数の人が見学されていて、中国語も聞こえ、国際化していて、どんどん混雑の度合いが増してくるのかもしれません。出品されるものは入れ替えられるとのことで、十年は見ないといけないらしいので、まだ道半ばです。今年は進歩して、図書館で正倉院の宝物の大型本を見て、予習をしました。出品されるものとの対応がわかりにくく、探せないものとかあり、難しいなと思い、今後の課題です。その中で山水図というのがあり、この中で馬が描かれていて、興味をもち、実際のもので確認しようということで、展示してあるガラスの面にへばりつきましたがわかりませんでした。買ってきた「正倉院展」目録を見ても、小さくてよくわかりません。
ところが、宮内庁の正倉院宝物検索というところがあり、詳細に見ることができました。ありがたいことです。
山水図は1と2があり、今回出品のものは山水図2の方です。
下図は切り取りしたものです。
会場の説明では中央の鳥居のようなものは門との説明がありました。私には高床式の倉庫(正倉院の建物のミニチュア版)のように見えましたが、別の宮内庁の山水図1では周りに塀らしきものがあるので、やはり門のように思われました。そうすると門の右側にある棒状のものは旗のような目印を掲げるもののように思えてきます。左の方の家ですが、格子状の部分は壁のようで、のれんのようなところが出入り口になっているようです。屋根の上の丸いものはおそらく石で、屋根を押さえているのだと思われます。想像していくと面白いものがあります。
この図の元は
http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Image/ViewerMain/0000010945?imgNo=CO0000001697&clp=0,0,2353,2941,640,800,0&uq=1541984291494
にあります。切り取りのみで画像の編集とかしていません。
以下の図も同様に宮内庁の検索で出てきたものです。
次の図は、小舟と二人の人物です。二人は座っていて、船には誰も乗っていません。想像するに、この二人は渡し船の船頭さんで、客の来るのを舞っている情景に見えます。職業として成立しているように思えます。つばのある帽子をかぶっているのは渡来の風俗のように見えます。
この図も、上記のところからの切り取りです。
次の図は三人の人物と家があるところです。こちらの家も屋根に石をのせているように見えます。柱だけで壁がなく、雨宿りの建物のように見えます。人物三人のうち、右側の人は背が丸まった老人のようで、視線は左手の二人を見ています。中央と左手の人間は対面しており、中央部の人物は小さく描かれていて、子供のようです。首をうなだれているようで、親子で説教を受けている雰囲気です。目録の解説では左の人物は獣皮に座っているとありますが、確かに獣皮のしっぽのようなものがあります。
次のが見落とした馬に騎乗する人物の図です。
図のスケールは5mm、1cmの目盛がありますが、わかりにくいと思います。会場の人混みの中で探し出すには困難でした。二人の水平垂直の交点に犬らしき動物がいます。この動物を追っているのか、使って狩りをしてるのかはわかりませんが、狩猟をしている風景に見えます。
タイトルは山水図となっていますが、図を見ると、ススキの穂がなびいているようなところが全面にあります。どうもこの部分は、波が連なっている様子を表しているようです。つまり絵としては山水水図みたいです。後の絵巻で雲が表されるところが水面なのかと妄想は膨らみます。
ところが、宮内庁の正倉院宝物検索というところがあり、詳細に見ることができました。ありがたいことです。
山水図は1と2があり、今回出品のものは山水図2の方です。
下図は切り取りしたものです。
会場の説明では中央の鳥居のようなものは門との説明がありました。私には高床式の倉庫(正倉院の建物のミニチュア版)のように見えましたが、別の宮内庁の山水図1では周りに塀らしきものがあるので、やはり門のように思われました。そうすると門の右側にある棒状のものは旗のような目印を掲げるもののように思えてきます。左の方の家ですが、格子状の部分は壁のようで、のれんのようなところが出入り口になっているようです。屋根の上の丸いものはおそらく石で、屋根を押さえているのだと思われます。想像していくと面白いものがあります。
この図の元は
http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Image/ViewerMain/0000010945?imgNo=CO0000001697&clp=0,0,2353,2941,640,800,0&uq=1541984291494
にあります。切り取りのみで画像の編集とかしていません。
以下の図も同様に宮内庁の検索で出てきたものです。
次の図は、小舟と二人の人物です。二人は座っていて、船には誰も乗っていません。想像するに、この二人は渡し船の船頭さんで、客の来るのを舞っている情景に見えます。職業として成立しているように思えます。つばのある帽子をかぶっているのは渡来の風俗のように見えます。
この図も、上記のところからの切り取りです。
次の図は三人の人物と家があるところです。こちらの家も屋根に石をのせているように見えます。柱だけで壁がなく、雨宿りの建物のように見えます。人物三人のうち、右側の人は背が丸まった老人のようで、視線は左手の二人を見ています。中央と左手の人間は対面しており、中央部の人物は小さく描かれていて、子供のようです。首をうなだれているようで、親子で説教を受けている雰囲気です。目録の解説では左の人物は獣皮に座っているとありますが、確かに獣皮のしっぽのようなものがあります。
次のが見落とした馬に騎乗する人物の図です。
図のスケールは5mm、1cmの目盛がありますが、わかりにくいと思います。会場の人混みの中で探し出すには困難でした。二人の水平垂直の交点に犬らしき動物がいます。この動物を追っているのか、使って狩りをしてるのかはわかりませんが、狩猟をしている風景に見えます。
タイトルは山水図となっていますが、図を見ると、ススキの穂がなびいているようなところが全面にあります。どうもこの部分は、波が連なっている様子を表しているようです。つまり絵としては山水水図みたいです。後の絵巻で雲が表されるところが水面なのかと妄想は膨らみます。
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