2015年11月12日木曜日

歴史認識

 安田仮説での考えを追求していけば、
聖徳太子と推古天皇は存在しない、蘇我・物部の神仏争いは次世紀の話など、日本史の教科書との違いは大きいです。これについて考えてみました。
 今の歴史がいかに成立したかというと
江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始された大日本史の影響が強いように思います。神仏分離が江戸時代に水戸藩などでは進められ、排仏棄釈が明治維新後、全国に拡大してます。明治維新により日本の歴史を天皇中心にまとめ、皇国史観の考え方が採用された気がします。大戦後はこの皇国史観は、否定されましたが徹底はされませんでした。現日本国憲法には、戦後の日本の進む道として、平和主義が取り入れられ、戦争放棄がうたわれています。これは聖徳太子の十七条憲法、「和を以て貴しと為す」がベースにあり、戦後の高度成長の時代を担ってきました。直感的な例ですが、聖徳太子の肖像がお札に使用されていて、具体的なシンボルとなっていたと思います。戦後の皇国史観の検証が徹底しなかったのは、聖徳太子を残すためではなかったのかと思います。20世紀後半の日本には現憲法が果たした役割は大きく、聖徳太子を否定するより肯定する方がはるかに有意義であったと思います。歴史は一つではないので、当然といえば当然のことです。しかしながら、いろいろな思惑がある中で、あれこれ考えていくことは無意味ではなかろうと思います。

2015年11月9日月曜日

NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第3集「中国 始皇帝陵と兵馬俑」を見て

 日本も中国の影響を受けていることを感じました。
1.番組では日本の前方後円墳とは始皇帝陵が異質なものであるとの説明でしたが、日本のものもスケールが小さいですが、埴輪とか墓の周りに配置するなど影響を受けているように思いました。

2.中国の統一にあたって、文字の統一政策の話がありましたが、日本での万葉集(防人の歌など)に結びつくものがあるかも。

3.始皇帝は銅車馬というもので統一後に全国を巡ったそうです。この巡行を5回行っているそうですが、行く先には、少し前まで敵の地であったところがあり、命を狙われることもあったそうです。斉があった山東省成山の海にのぞむ小高い丘で祈りをささげる玉壁と玉圭が発見され、これが秦などの西の方の風習だと考えられ、斉の人が東から昇る太陽をあがめてきた場所で始皇帝も同じく祈りをささげる行為を行った、との話でした。映像では、何か伊勢神宮を思い出しました。
日本での天皇巡幸も同じく、中国のやり方をまねて、その当時の国境の地域を巡ったと十分に考えられます。東限を表している可能性は大です。忘れるかもしれませんが、覚えておきたいことです。

2015年11月7日土曜日

鹿島神宮

鹿島神宮が重要なポイントであるとは思っていて、今
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。

65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
 これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
 つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。

2015年11月5日木曜日

第67回正倉院展

 今年も奈良国立博物館に出かけてきました。
国家珍宝帳のトップに記される七条褐色紬袈裟27[しちじょうかっしょくのつむぎのけさ]
を見ることが出来ました。透けるようなネットのような編み方で、日曜美術館で織り方の話
がありましたが、理解できませんでした。とにかく、聖武天皇にとってこの袈裟がいかに大切
なものか、仏教に対する信仰の強さを示すもののようです。
 伎楽面力士16の面内に「周防」との墨書も私にはわかりませんでした。このことから周防国か
らこの面が貢進されたらしいとのことです。この国名ですが、防の字が使われており、国名
が考えられた時代、山口県が防衛の拠点であったかもしれないと思います。
 続修正倉院古文書 第13巻43、隼人計帳で、南九州出身者の徴税基本台帳とのことです。
良く理解できていないのですが、男女比のバランスが悪く男子の比率が小さいので戸籍のよ
うなものでは無いように思われました。古い時代の戸籍の残っている可能性は小さそうです。